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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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33話 ドタバタの予感

「もーすぐ夏休みだねぇ」


 夕方、と言ってもまだ外は太陽が明るく照らしている。六月にもなると日が沈むのが遅く、この時間でも空は白みがかった青のままだ。風は穏やかで、カッターシャツの袖を揺らしながら通り過ぎていく。どこかで夕飯の匂いがした。


 この匂いはカレーだろうか。


 体育祭が終わってから、湊と和哉は一緒に帰るようになった。


 大したきっかけは特になかった。部活が終わって、共に校門の方へ歩き出して、気づいたら並んでいた。それが自然と続いている。方向が違えばどこかで別れるだけ、強いて言えばお互い変に遠慮しなくなった。


 それだけのことだ。ただ、それだけのことが、それだけの時間が、とてつもなく好きだった。


「湊は夏休み何か予定あるの?」


「そっすねぇ、週二で部活があるの以外だと、盆に親戚と集まるくらいですね」


「なんだか意外。クラスの子と遊びに行ったりしないの?」


 和哉が少し首を傾けた。湊が意外そうに見えたのかもしれない。


「あー、仲良い奴はいるんですけどインドア派なんすよね。動きやすい時期にしか外に出ないタイプで」


「わぁ、気持ちわかるぅ」


「響也は特に顕著ですよ。真夏でも平気でカメラ持って自転車で遠出してますけど、人と出かけるのとは別らしくて」


「へえ、写真部ならそういう子もいそうだね」


 響也くんは湊と同じ委員会で副応援団長もしていたらしい。体育祭の時、一年生のテントで目が合った、眼鏡をかけた静かそうな男の子だ。何か言いたそうな、でも何も言わないような目だった。あれから何故か無性に気になって、後から湊に聞いた。


「でも俺は夏祭りとかプールとか行きたいっすけどね」


「……じゃあ、夏休み一緒に何回か出かけよっか」


 さらりと言われた言葉に、湊の足が一瞬だけ乱れた。聞き間違いじゃないかと確かめたくて、横を見る。和哉は前を向いたまま、いつもの穏やかな顔をしている。


「え、でも。受験勉強とかあるんじゃ」


「実はね、いくつか少し付き合ってほしいところがあってね。その後に寄り道するの、いいでしょ」


「? どこに行くんですか?」


「内緒……まだちょっとだけ、決めかねてるから」


「ええ、めっちゃ気になりますよ〜」


 湊が身を乗り出すようにして訴えると、和哉はくすっと笑った。その笑い声が、夕方の静かな路地に溶けていく。


「ふふっ、あ、そうそう。予約がいるから、あとで空いてる日教えてね。後ついでに電話番号と生年月日も」


「え、ほんとに何に予約するんですか」


「んー、湊のためにもなると思うよ?」


「??」


 湊がなぞなぞでも与えられたように眉を寄せて考え込む。眉間に薄く皺が寄って、唇が少しだけ尖っている。その顔を、和哉は横目でちらりと見てから、また前を向いた。


 この子のこういう顔も、好きだ、と思った。心の中だけで、そっと。


 しばらくして角に差し掛かった。


「じゃあ僕の家こっちだから」


「あ、はい! さよなら」


「うん、バイバイ」


 手を振って、和哉は角を曲がった。少し歩いてから、なんとなく振り返る。


 湊はまだ角の手前に立っていて、こちらを見ていた。目が合うと、わずかに慌てたように前を向いて歩き出す。その後ろ姿が、少し早足なのが見えた。


 和哉は小さく笑って、また歩き始めた。


*****


 家の前まで来ると、玄関の向こうから声が聞こえた。


 言い争う声だ。一つは母の声、もう一つは——。


 ——あぁ、またか。


 和哉は少しだけ足を止めてから、静かに扉を開けた。外の光が薄く差し込む玄関で靴を脱ぎながら、リビングの方を覗く。


 母と弟の竜喜(たつき)が、険しい顔で向かい合っていた。


「なんで言いつけを守らないの!」


「ダチとメシ食べに行くだけだろ!」


「家にあるじゃない! どーするのよ! それに門限は十八時よ! 今から行かせるわけないでしょ!」


「この年で門限なんてうちだけなんだよ! ご飯なんて冷蔵庫に入れて明日食べればいいだろ!」


「〜〜もう勝手になさい!」


「そーする」


 怒声を背中で受け流し、竜喜がリビングから出てきた。不満そうに、しかし堂々と。熱くなっている母を他所に、慣れた様子でそのまま玄関へ向かってくる。


 和哉と、廊下で鉢合わせた。


「あ、兄さん居たんだ。おかえり」


「た、ただいま」


 竜喜は身長百七十一センチ、和哉の方がまだ高いが、同学年と比べればずば抜けている。今年で中学三年、十四歳のはずなのに、立ち方も視線の向け方も、妙に落ち着いていた。


 黒髪の髪先が和哉より抑えめの天然パーマで毛先がくるっとしているのだけは似ているが、雰囲気はまるで違う。切れ長の瞳が、真っ直ぐに和哉を見た。ラピスラズリのような、深い青だ。和哉のそれより少し暗く、重みがある色だった。


「また、やってたの」


「友達と遊びに行くだけでうるさいんだよ。なんで友達の人数構成、名前、どんな子、家はどの辺り……とか言っても、わからねぇだろ」


 竜喜が靴を取り出しながら、吐き捨てるように言う。感情的にはなっていない。ただ、事実を述べているだけ、という口調だった。


「ま、滅多に友達と遊ばない兄さんには気にならないだろうけど……あ、でもこの前なんか帰るのが遅くて怒られてたな」


「ああ、あったね」


 あれは少し事情が違う、と和哉は心の中で思ったが、口には出さなかった。竜喜は鋭いから、下手なことを言うと突っ込まれる。


 ——母に愚痴られる前に、早く部屋に戻ろう。


 踵を返そうとした時だった。


「あ、そうそう兄さん」


 靴を履きながら、竜喜が話しかけてきた。


「なに」


「夏休み、また部活いくんだろ? 兄さんの学校見学行くから、話通しといて」


「……は?」


 聞き間違いかと思った。


「だーかーら、兄さんが夏休み部活行く時、俺も学校見学として着いてくから。教師に話通しとけよ」


「そんなの急に無理に決まってるだろ?!」


 思わず声が出た。こんなふうに声を上げるのも、久しぶりかもしれない。竜喜は驚く様子もなく、むしろ予想通りだとでも言わんばかりのすこし嬉しそうな顔をしていた。


「じゃあ、よろしくぅ〜」


「ちょっと!」


 話を聞かず、竜喜は玄関の扉を開けて出ていった。外の夕方の光が一瞬差し込んで、すぐに扉が閉まる。スニーカーの音が遠ざかっていく。


 廊下に、静けさが戻った。


「学校見学って……」


 和哉は扉を見つめたまま、一人呟いた。来年の受験を見据えているということは、わかる。竜喜は賢い子だ、本気でそう考えているのだろう。本気だからこそ、たちが悪い。


 夏休みの茶道部の稽古に弟を連れてくる、という状況を想像して、和哉は静かに頭を抱えた。竜喜が来るとなれば、あの子は空気を読まずに全員に話しかけるだろう。湊のことも、涼香のことも、何も知らないまま踏み込んでくるかもしれない。


 想像するだけで、頭が痛かった。


 リビングの方ではまだ、母が独りで何かをブツブツ言い続けている声が聞こえた。和哉はそれを聞かないふりをして、足音を立てないように自室へと向かった。


 階段を上がりながら、心を落ち着かせるように湊の顔を頭に浮かべた。


 さっきの、なぞなぞでも与えられたような顔。眉間に皺を寄せて、唇を尖らせて、一生懸命考えている顔。


 少しだけ、胸の中が軽くなった。


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