32話「夏の足音」
「すっずしぃ〜」
部室の襖を開けると、部屋から涼しい風が流れ込んでくる。外の熱気との落差に、思わず声が出た。体育祭の後遺症のように体に残っていた暑さが、すうっと引いていく気がした。
「教室より涼しいかも」
「ね」
「部室は教室より狭いので、部屋が冷えるのが早くて助かりますね」
「「七瀬先輩」」
雪と綾香の声が揃った。
「俺もいるぞぉ」
涼香の隣に立つ尚弥が不満そうに手を上げる。誰も気にしなかった。尚弥は少し肩を落としたが、それもすぐに諦めたように戻した。
「七瀬先輩、あれからお身体の方は大丈夫ですか?」
「ええ、もう大丈夫です」
「ん〜、ちょいとすいません」
「へ?」
「ちょっ!」
綾香が涼香に顔を近づけた。逃がさないように、両手で涼香の頬をしっかりと挟んでいる。綾香の目が、細く、真剣になった。
「じー」
「あの、佐野さん?!」
「んー、先輩、もうちょい無理しない方がいいかも〜」
「え」
「うす〜くファンデやコンシーラーで隠してるけど、顔色悪いし、クマもあるっしょ?」
「そうなんすか?!」
尚弥の声が跳ね上がった。改めて涼香の顔を見ようとすると、涼香はさりげなく窓の方に視線を逸らした。
「そ、そんなことないですよ。考え過ぎです」
「あと、さっきの歩き方。体幹が少しブレてましたよ? いつもはもっとしっかりしてた」
「武術の達人ですか??」
「あの、この手の綾ちゃんの言葉は信用していいと思います。ほんと意外ですけど綾ちゃんは……」
「こらこら、雪〜。最後のは余計だぞー。クマで言ったら雪もだよ、また夜更かししたでしょ」
「あ、私、準備してきます。先輩達は休んでてください」
「こら、逃げようとするなぁ」
雪の後ろ襟を綾香がひょいと掴む。雪が「ひゃっ」と声を上げて、その場に引き止められた。雪は観念したようにため息をついたが、口元は少しだけ笑っていた。
*****
少し遅れて、湊と和哉が茶道室へ向かっていた。
廊下には放課後の静けさが満ちていて、二人の足音だけが規則正しく続いている。先日の体育祭の熱気が嘘のような、落ち着いた空気だった。窓の外には夕方前の白い光が差しており、廊下の床にそれぞれの影が長く伸びていた。
「………で、ナマズが詰まってたんです」
「そ、そんなことあるの?」
「それがあったんですよ。あまりの絵面に渚の奴が泣き出して大変、大変」
「そう言えば、僕のおばあちゃん家の方でもモグラが……あれ」
和哉の言葉が途切れた。
部室の前に着くと、襖が開けっぱなしになっていて、中から声が聞こえてくる。覗くと、綾香が雪の目元を観察しており、涼香は尚弥に何やら詰められていた。
「……なにしてんすかね、アレ」
「……さぁ」
湊と和哉は揃って首を傾げてから、部室の中に入った。
*****
「ダメだよ、二人とも。生活習慣は規則正しくないと。特に七瀬さんは先輩なんだから、後輩のお手本にならないと」
「はぃぃ……」
雪がしゅんと和哉の言葉を聞く
対して
「どうしましょう、正しいことを言われているはずなのに、全く心に響きません」
「なんでぇ!?」
和哉の叫びが和室に響いた。涼香は至って涼しい顔をしている。その表情は取り澄ましているようで、しかし頬のあたりに少しだけ血色が戻っていた。こういう賑やかな空間にいると、自然と体が動くのかもしれない。
「先輩、今日は部活が終わったら早めに帰って休んだらどうです? 体育祭も終わったんですし」
「……大丈夫です。熱がある訳ではないので」
頑なに断る涼香の声は、しかし普段よりわずかに固かった。尚弥が心配しているのを、わかっていないはずがない、のだか。
「あら、お取り込み中ですか?」
廊下から、澄んだ声が届いた。
「吉野先生」
涼香がさっと姿勢を正す。場の空気が、一瞬で切り替わった。ざわついていた和室が、すうっと静かになる。それだけの声だった。
「もう、そんな時間でしたか。すみません、気づきませんでした」
涼香は言いながら、滞りなく茶道の下準備に取り掛かる。その動きに迷いはない。
「あ、はぁ、もう仕方ないですね」
尚弥が小声で呟いて、渋々道具の準備を手伝い始めた。涼香の背中を一度だけ見てから、視線を道具の方へ戻す。
*****
全員が畳の上に正座し、吉野と向き合った。
いつも通り、深緑の着物に伊吹色の帯。生地には細かな刺繍が施されていて、光の加減で模様が浮かび上がる。背筋はぴんと伸び、その眼差しは温かく、しかし芯がある。体育祭の喧騒とは無縁の、この場所だけの静けさが戻ってきた。畳の香り、道具の並び、障子越しの光。何一つ変わっていない。
「さて、みなさん。お久しぶりですね」
「「「お久しぶりです」」」
六人の声が揃った。
「体育祭、お疲れ様でした。一組が優勝だったそうで、おめでとうございます」
吉野は口元に柔らかな笑みを浮かべた。普段の厳しさの中に、ちゃんと温かさがある。
「ありがとうございます」
和哉と涼香が頭を下げる。
ぺこっと頭を下げつつ湊はそっと和哉の横顔を盗み見た。茶道室に座る時の先輩は、やっぱり少し違う顔をする。
凛として、でも穏やかで、ここにいることが一番しっくりきているような顔だ。外にいる時とも、廊下を歩いている時とも、少しだけ違う。この場所が、この人に合っている。
「さて、今日から稽古を再開しますが、その前にお知らせがあります」
吉野の声のトーンが、わずかに改まった。
「今年の秋のお茶会についてです」
お茶会。その言葉に、一年生三人がそれぞれ頭の中にハテナマークを浮かべる。
「毎年、文化祭に合わせてこの茶道部ではお茶席を設けております。今年は一年生と二年生が主体となって執り行っていただきます」
「三年生の皆さんには、先生役をお願いします。お点前の指導、お客様への対応、当日の采配。後輩たちに教え、支える側に回っていただきたいのです」
「夏休みの活動についても、お伝え申し上げておきましょう」
吉野は一呼吸置いた。和室が、ほんの少し静かになる。
「三年生は、受験に専念する時期です。夏以降の部活への参加は、任意といたします。無理に顔を出す必要はありません。ご自身の進路をまず大切になさってください」
和室が静かになった。
湊はその静けさの中で、じわりと何かが体の奥に沈んでいくのを感じた。わかっていたことだ。わかっていたのに、改めて言葉にされると、重さが違う。
夏以降は、任意。
それはつまり、先輩と一緒に部活をできる時間が、もうほとんど残っていないということだ。
「一方、一年生と二年生の皆さんには、秋のお茶会に向けてしっかりと稽古を積んでいただきます。夏休みも定期的に集まりますので、心づもりをしておいてくださいね」
「はい」
三年生の二人と、一年生三人と、二年生一人が、それぞれ違う表情で頷いた。
「では、今日はまずお茶会の一通りの流れを確認しましょう。一年生は亭主と半東の役割を交代で、二年生はそのサポートを。三年生は客として入り、気づいた点をその都度お伝えします」
吉野が静かに立ち上がる。
「茶道は、一つ一つの所作の積み重ねです。慌てず、丁寧に。まず心を整えることから始めなさい」
*****
稽古が始まった。
湊は亭主役として、茶室の中央に正座した。向かいには客として座った涼香と和哉がいる。二人が「先生役」として見ている、という状況が、じわじわとプレッシャーになってくる。
「では、始めてください」
吉野の声を合図に、湊は帛紗を手に取った。
捌く。折る。道具を清める。
一つ一つの手順を丁寧に。焦りそうになるたびに、息を吸う。茶道室の空気を肺に入れると、少しだけ落ち着いた。
「帛紗の角が、少し揃っていませんね」
和哉の声が、穏やかに飛んできた。指摘の声なのに、柔らかい。
「はい、すみません」
「焦らなくていいです。もう一度、ゆっくりと」
湊は頷いて、やり直す。今度は丁寧に。布の角を揃えて、ゆっくりと捌く。
「そうです」
和哉が微笑む。その笑顔が近くにある。
(……早く、先輩と同じ立場に立てるように)
心の中でそう思いながら、湊は茶杓を手に取った。
隣では雪が半東として控えている。半東とは、簡単に言うと亭主のサポート役だ。亭主はお点前の動作上、一度に一杯のお茶しか点てられないため、お客全員に直接お茶を渡すことはできない。半東はお菓子やお茶を水屋——バックヤードのような準備室で整えて、全員のお客様へ届けるのが役割だ。
雪は視線を前に向けているが、その指先がかすかに震えているのに湊は気づいた。緊張しているのだろう。自分も同じだ、と思ったら少し気が楽になった。
「水野さん、お客様に提供する時は、もう少し体ごと向けて。絵柄の正面をお客様に見えるようにしましょう。」
涼香が、静かに指摘する。
「は、はい。すみません」
雪が小さく頭を下げる。
「謝らなくていいんです。次に活かしてください」
その言葉は短かったが、温かかった。雪の背筋が、少しだけ伸びた。うつむいていた顔が、前を向く。
尚弥は綾香に小声で補足の説明をしている。綾香は真剣な顔で頷いていた。普段のあの明るさとは違う集中した顔が、なんとなく頼もしい。このくらい真面目にやれるのか、と湊は横目で思いながら、すぐに自分の手元に意識を戻した。
お点前が一通り終わった。
「湊くん、全体としてどうでしたか? 自分で振り返ってみてください」
吉野が問いかける。
「……帛紗の角の揃え方と、茶碗を置く位置が少しずれていたと思います。あと、動作の間が詰まり気味でした」
「よく見えています。その通りです」
吉野が静かに頷く。
「茶道は急いではなりません。一つ終えたら、次へ。その間にある呼吸を大切にしてください。お点前の速さではなく、その場の空気を作ることが大事なのです」
その言葉が、和室の空気に溶けていくように響いた。
「綿貫さん、七瀬さん。何か付け加えることはありますか?」
「全体的に丁寧に取り組んでいたと思います。ただ、お客様の飲むペースに目を配れるともっとよかったですね」
涼香が答えた。
「そうですね。亭主は自分のお点前だけでなく、客の様子も見ていないといけない。それが難しいところです」
和哉がそう言って、湊を見た。
「でも、今日の湊は落ち着いていたよ。初めて客に見られながらやるのって緊張するから、それだけで十分だと思う」
「……ありがとうございます」
湊は頭を下げながら、少しだけ顔が熱くなった。褒められたというより、先輩に名前を呼ばれたことで。
涼香が小さくため息をついたのが、なんとなく聞こえた気がしたが、気のせいということにした。
*****
稽古が終わり、片付けの時間になった。
道具を棚に戻しながら、湊はふと手を止めた。
夏以降は、任意。
先輩と一緒にここにいられる時間が、もう少ない。あとどれくらい、こうして同じ畳の上に座っていられるのだろう。数えたくなくて、でも頭の片隅でずっとカウントしてしまう。茶碗を一つ棚に戻すたびに、何かが一つずつ減っていくような気がした。
「湊、どうかした?」
和哉が隣に来ていた。
「……いえ、なんでもないです」
「嘘つくの下手だよね、湊は」
愛しいものを見るように和哉が苦笑する。その横顔が、夕方の光の中でいつもより柔らかく見えた。
「……夏以降、先輩が来なくなるのかなって」
「来るよ。茶道は僕の大切なものだし」
和哉はそこで少し間を置いてから、続けた。
「それに」
「湊もいるもん。来ない理由がないよ」
「〜〜!……ずるい」
湊は思わず俯いた。声が出そうになるのを、辛うじてこらえる。ずるい。本当にずるい。そういうことをさらりと言う人だ、この人は。
「ずるくない、本当のことだよ」
「だからずるいんですよ」
和哉がくすっと笑う。その笑い声が、夕方の静かな茶道室に溶けていった。
片付けを続ける二人の背中を、涼香はちらりと見てから視線を戻した。
隣の部屋では雪と綾香が机や座布団を片付けている。雪が「綾ちゃん、そっちじゃなくてこっち」と小声で言い、綾香が「えっここじゃないの」と素直に従っている声が聞こえてくる。
自分の隣では尚弥が茶碗を丁寧に拭いていた。その横顔が、いつも通り真剣だった。いつも通り、と思いながら、涼香はそれが嘘だとわかっていた。体育祭の日から、この人の隣にいる時の体の芯が、少しだけ違う温度をしている。
仕方のない人たちが、今日もここにいる。
それは涼香にとって、悪くない毎日なのだ。
決して言葉にはしないが。
(いまさら一人は、寂しいですよ)




