31話「笹木響也」
小さな頃から、写真が好きだった。
写真家だった父が撮る写真はとてもキラキラしていて、世界を切り取ったその一枚は、直接目で見るよりも美しかった。光の角度、影の落ち方、人の表情。父のレンズを通すと、何でもないものが特別に見えた。
自然と響也はカメラを手に取っていた。
でも、なかなかうまく撮れなかった。構図を真似ても、露出を調整しても、父の写真が持っているあの「何か」が、自分の写真には宿らなかった。
『好きなものを撮るといい。うまく撮れなくていいんだ』
父がいつも言い聞かせてくれた。そう言って大きな手で頭を撫でてくれるのが、好きだった。その手の重さを、暖かさを今でも覚えている。
僕も、お父さんのように人の心に残る写真を撮りたかった。
小学生の頃に父が死んでしまってから、カメラを持つことが苦しくなった。シャッターを切るたびに、父の声が聞こえる気がした。それが温かくもあり、痛くもあった。
それでも、写真を続けたくて、中学の部活で写真部に入った。
そこでも、響也はあまりいい写真を撮れないでいた。自分でも納得できない写真は他の生徒の作品に埋もれ、有象無象の一枚として展示される。
幼い頃はただ好きで撮っていたのに、今はただ苦しく、人の評価を求めてしまっている。その事実が、写真をうまく撮れないことよりも、ずっと苦しかった。
*****
テスト期間になると、授業時間や部活の時間が短縮されて、自由な時間が増える。
響也はこの期間が好きだった。普段は学校にいなければならない時間帯に、普段は歩けない場所へ行ける。人が少ない街並みを撮ることができる。テストに関しては帰ってから復習するし、もとより予習と復習は欠かしていないので、そちらはあまり問題ない。
そんな生活が習慣になりつつある頃だった。
中学二年、彼が話しかけてきた。
「なぁ、お前、勉強できるんだよな!」
「え」
今日も写真を撮りに行こうと荷物をまとめていた最中のことだ。
栗色の髪にガラス玉にハチミツを閉じ込めたような瞳が印象的な男の子が、焦った様子で話しかけてきた。背は響也の胸のあたりに頭がくる。余った袖は丁寧に折られていた。
学ランって折っていいのかな。折り目の跡がつきそうだけど。
「誰」
そうだ、誰なのだ。悪いけど、こんな愛らしい顔をした知り合いはいない。
「俺、湊! 二年六組の久我湊。頼む! 勉強を教えてくれ!」
なんと、同学年だった。しかも隣のクラスか。……いや、それよりも今なんと言った。
「勉強?」
「俺、今回のテスト全くわからないんだ、教えて……」
「やだ」
被せるように言った。
「ていうか、なんで僕なの」
「え、なんか一人で暇そうだったから」
おいこら。純朴そうな顔をすれば許されると思うなよ。なかなか失礼なことを言いやがる。
「暇じゃない。却下、さよなら」
「わー、待ってくれ〜!」
帰ろうとした響也の腕に、湊がしがみついてきた。
「ちょ、離し……」
「なぁ、頼むよ。お前しか頼めないんだ」
そんな顔してもダメだ。上目遣いで迷子の子犬のような顔をしたって、……したって。
何をしている僕、早く「お断りだ」と言え。
*****
「〜で、ここの数をこれの式に代入したらいい」
何故か教えてしまっている。
「こう、で……こうか?」
「そうそう」
思いの外、覚えがいい。わからないと言っていたところも、少しクセのある箇所だっただけで、基礎はできている。こういう時って全く勉強できないパターンじゃないのか。まぁ、楽だからいいのだけれど。
「おー、解けた! ありがとなぁ」
「はいはい」
「じゃあ! またわからない所があったら来るな!」
あー、帰れ帰れ。……今なんと言った。また来る?
それからというもの、響也は週に二、三回のペースで湊に勉強を教えた。
クラスで浮いている響也に、なんの迷いもなく踏み込んでくる変わり者。響也の湊への印象は、そんなものだった。あと無性に頭を撫でたくなる、というのも加えておく。それはどうかと思うので実行はしないが。
*****
三年生になって、響也は湊と同じクラスになった。
「これでわざわざ隣のクラスに行かなくて済むな」
「同じクラスでも来なくていいし、というか僕が教える程頭悪くないでしょ」
「いんや、お前には付き合ってもらうぞ。なんたって俺を行雲高校まで導いてもらわないといけないんだから」
「なんでそんなにその高校にこだわるの?」
「どーしても行かないといけないんだ。訳は言わない、あの人の迷惑になるかもだから」
「そ」
短く返した。
彼から「あの人」という言葉を聞いて、何故か少し胸がチクリとした。その感覚に名前をつける前に、響也はそれを棚の奥へしまい込んだ。
*****
三年の秋、修学旅行があった。響也は湊と同じ班になった。
湊はもうすぐ受験が迫っていることに焦り、バスの中でも旅館でも教科書を読み込んでいた。「酔うよ」と止めればいいのだが、片手に文庫本を持っている響也には何も言えない。
自由時間に二人が来たのは、紅葉が綺麗な公園だった。
響也は写真を撮り、湊はベンチに座って英単語帳を開いている。さすがの響也も修学旅行にこれはどうかと思ったが、湊はいたって真剣な顔をしているので、何も言わないことにした。
響也は湊を他所に、公園を歩きながらシャッターを切る。紅葉の赤、石畳の苔、光が差し込む木の隙間。
だがやはり、満足のいく写真は撮れない。
「……なんで、なんだよ」
どうすれば父のように綺麗な写真が撮れるのか。父はどうやって撮っていたのか。悔しくて奥歯をギリっと噛み締める。
「あ……」
ふと思い出す。
父は写真を撮る時、笑っていた。
『好きなものを撮るといい。うまく撮れなくていいんだ』
父の言葉が、頭の中で響いた。
「好きな、もの」
一眼レフのレンズが、自然と湊を捉えていた。
ベンチに座り、単語帳を睨んでいる。秋の日差しが斜めに差し込んで、栗色の髪を照らしている。紅葉が一枚、肩に落ちた。湊はそれに気づかない。
パシャリ。
「!!」
ファインダーの中の世界を見て、響也は息を呑んだ。
紅葉が降り、秋の日差しが湊を照らし、木の影が程よく差している。光の角度も、影の落ち方も、湊がそこにいることで、すべてがちょうどよくなっていた。
とても、とても美しい写真だった。
でも、響也の心は写真がうまく撮れたことよりも——湊を「好きなもの」に入れてしまっていることに、困惑していた。
シャッターを切った手が、止まらなかった。それが余計に、困った。
*****
体育祭の次の日。
日曜日、写真部の部室で部員達総出で現像した写真を一枚一枚確認していた。各々が体育祭の傍ら記録写真として撮ったものだ。応援団のパフォーマンス、競技の瞬間、歓声を上げる観客席。
その中の一枚で、響也の手が止まった。
応援団長の衣装を着た湊が、グラウンドの中央で叫んでいる。白地に赤いラインの入ったジャケット、後ろへ流した栗色の髪。その湊の斜め後ろ——三年のテントの位置から、こちらを見ている人物が、ぼんやりと写り込んでいた。
『あの』眼鏡をかけた黒髪の先輩だ。
ピントは湊に合っている。先輩の顔はわずかにぼけているが、その目線の向きだけははっきりとわかった。
……ああ。
響也の頭の中で、体育祭の日の出来事が繋がった。他学年の先輩に手を引かれて木陰へ消えていった湊の背中。「やっぱり眼中になかったか」と呟いた自分の声。
全部、そういうことだったのか。
翌日の放課後、響也は教室で湊に声をかけた。
「久我」
「ん、なに」
「これ、現像したやつ。体育祭の」
湊が写真を受け取って、少し目を細めた。それからぱっと顔が明るくなる。
『あの人』を見つけたのだろう。
「いらないなら捨てるけど」
「もらっていいの?」
「どうせ余るから」
「ありがと!」
湊は嬉しそうに写真を鞄にしまった。
その顔は、屈託がなかった。何も隠していない顔だった。
響也は何も言わなかった。
こっそり湊だけを撮った写真が何枚かあるのも、内緒だ。このくらい、写真代としていただいていいだろう。




