30話「そんなこんなで」
昼間の喧騒がすっかり落ち着き、夥しいほどの人でひしめいていたグラウンドもようやくまばらになってきた頃。日中は人類に殺意でも持っているのかと問いたくなるほどの紫外線が攻撃の手を緩め始めたあたりで、涼香の体調もようやく全快した。
「これで一丁上がりですね」
涼香は手をパシパシと叩き、手についた砂を払った。風が吹いて涼香の黒く美しい髪がたなびく、やはりまだ陽が落ちると過ごしやすい、体育祭の後半をまるまる保健室で過ごしてしまったのだ、このくらいはしなければ気が済まない。
村内君には苦虫を噛み潰した上に青汁で流し込んだような顔をされたが、こういう性分なのだから仕方がない。倒れたまま動かないでいるほど涼香は暇ではなかった。
私が日差しに敗北してダウンしている間、村内君はずっと側に居て看病という名の監視を続けていた。普段は戯けたイタチのような彼がひと言も余計なことを言わず、ただ静かにこちらを見つめていたのは不思議な心地だった。コチラの負担を考えてくれていたのだろう。気遣いのできる人だと、改めて思った。
少し経って一年の後輩たちがお見舞いに顔を出してくれた時、嬉しい気持ちの片隅にほんの少しだけ残念が残ったのは、内緒です。
そういえば、と涼香は思い出す。
綿貫さんの失踪の件を久我君に任せたのだが、なんやかんやで元鞘に収まったようだ。
ええ、ええ、仲良きことは美しいことです。
ちゃんと戻って体育祭に最後まで参加していた辺り誉めてもいいでしょう。
いや、当たり前のことなのですが、彼の場合はまぁ、そこは百歩譲ることにします。
で、す、が。
あれは少々あからさま過ぎです。
「湊、湊テント倉庫まで一緒に運ぼ」
「湊、湊こっち、こっち!」
「湊!今日はちょっと寄り道して帰ろ」
「湊ぉ〜」
片付けが始まってからというもの、事あるごとに久我君の側にくっついて離れない。子犬が飼い主に纏わりつくとはまさにこのことだ。
いや、この場合どちらが子犬なのかは少し考えさせられますが。観戦を一年席で一緒に見ようとしていたと後から聞いた時は眩暈がしました。
そこは久我君が気を利かせて三年のテントで一緒に過ごすよう促したみたいですが……いえ、よく考えたらこれ久我君も同類ですね。
久我君は久我君で、
「はい!先輩」
「あ、間違えちゃいました。ありがとうございます!和哉先輩」
「はい喜んで!!」
「はい、湊です。先輩の湊ですよ〜」
完全にバカップルのそれです。風紀が乱れまくっています。
全く、恋人関係になれたからって浮かれ過ぎです。見てください、二人の様子を見た村内君が「うわぁ」という目でこちらを見ていますよ。
こんなの水野さんや佐野さんには絶対見せられません。二人にはクラスに戻ってもらっておいてよかった。
特に『彼女』には見せられません。いずれ知らなくてはいけないことでも、今のあれは彼女には劇薬過ぎます。村内君もそれを踏まえているのか、あの様子を見るやいなや、素早く彼女を避難させていた。気の回る人だと思う、本当に。
そうと決まれば今のうちに。
「綿貫さん、ちょっとよろしいですかぁ?」
「あ、七瀬さん体調は戻ったの?」
「ええ、お陰様で。後片付けを手伝えるくらいには」
「そっか〜、お大事にね? それじゃあ僕は湊と……」
「お待ちなさい、その件でお話があります」
ガシ。
涼香は迷わず綿貫の腕を掴んだ。
「え」
「ちょっと顔を貸してください。久我君、この人を少し借りますね。あ、久我君には村内さんからお話があるのでよろしくお願いします」
「へ」
ガシ。
「よぉ、ちょっとお話しようぜ」
二手に分かれるまでものの数秒だった。涼香は内心で満足しながら、綿貫を人気のない廊下の角へと連れていった。
*****
「「恋人関係ではない?!」」
声が揃った。涼香は少し眉を上げる。
「ちょっと意味がわかりません」
「恋人じゃなくて、婚約でもしたのか?」
*****
改めて話を聞き終えて、涼香は静かに息をついた。
「えーと、つまり。現在は恋人ではないですが、卒業後に付き合うことを約束した、と」
「うん、そういうこと」
「この後に及んで日和ましたんですね」
「日和ったっていうか……卒業までは受験や諸々のことに集中して、卒業後はちゃんと本当の恋人として過ごそって、なったんだ」
「今現在、かなり恋人のようなご関係に見えるのですが」
「え、でもいっぱい我慢してるよ僕。もっとくっつきたい」
「もっと自重してください」
「そんな!」
「……せめて二人っきりの時にしてください」
「二人っきりの時なんてもっと我慢できないよ!」
涼香は一瞬だけ天を仰いだ。
「引っ叩いていいですか」
言い方を考えて欲しい
綿貫は涼香の返答を不服そうに受け止めていたが、涼香としてはむしろ大変よくやっている方だと思う。人払いをしておいて本当によかった。これを周囲に聞かれていたら、後始末が大変なことになっていた。
*****
一方その頃、角を曲がった少し先では。
「はーん、なるほど。まぁそれはいいんじゃないか? 実際、綿貫先輩は忙しい時期だし。まぁ、肝心の先輩が浮かれポンチになってるんだが」
「可愛いですよねぇ」
「ノーコメントで」
「先輩が可愛くないと?」
「あー、可愛い可愛い」
「先輩を可愛いと思っていいのは俺だけです」
「めんどくせぇ!」
尚弥は盛大にため息をついた。それでも口元はどこか緩んでいる。目の前のこいつが浮かれているのが、うつってきたのかもしれない。
「まぁ、冗談として。俺はちゃんとわきまえてますよ。ある程度の線引きはしてます」
「ああ、確かに。目に見えて浮かれてるのは先輩の方っていうのが意外だ」
「んひひ、だってぇ」
湊は少し声を落として、でも隠しきれない喜びをにじませながら続ける。
「本当は言うはずのなかったことを、期限付きとはいえ言ってくれたってことは、先輩の中で俺への想いが溢れて溢れたってことですよね。そう考えると、俺……んふ、んひひ」
「笑い方キモ!」
尚弥の突っ込みが廊下に響いた。湊は全く気にしていない様子で、壁にもたれながら一人でにやにやしている。
こいつは本当に、と尚弥は思った。




