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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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25話 「いない」


 応援合戦が終わった。


 張り上げた声の余韻が、喉の奥にまだ残っている。頬を伝う汗の筋が、初夏の風に吹かれ冷めていく。グラウンドには熱気と解放感が入り混じり、衣装のまま仲間と抱き合う生徒、声を上げて笑い転げる生徒、スマホを構えて写真を撮る生徒たちが、思い思いに散らばっていた。それぞれの「終わった」が、あちこちで弾けている。


 湊はクラスメイトたちに囲まれていた。


「かっこよかった!」


「ほんとすごかった、久我!」


「応援団長、似合いすぎじゃない?」


 口々に声をかけられる。笑って返す。礼を言う。肩を叩かれる。それが続く。嬉しくないわけじゃない。でも、その間ずっと、頭のどこかで別のことを考えていた。


 次の競技まで、少し間がある。応援合戦の準備に追われていた分、今が実質の自由時間だ。更衣のために一度引き上げながら、響也に「ちょっとジュース買ってくる」と声をかけて、人の波から抜け出した。


*****


 自販機の前に立つ。


 ラインナップを眺めて、少し悩んで、赤と白のデザインのコーラを選んだ。特に理由はない。ボタンを押すと、缶が落ちてくる鈍い音がした。


 でも、すぐに取り出さなかった。


 ふと、グラウンドの方が気になった。自販機とグラウンドの間には三年生のテントがある。そこに、あの人がいるはずだった。


「先輩、見ててくれたかな」


 声に出したのは、自分でも気づかないくらいの小ささだった。


 視線が自然と、三年生のテントへ向かっていた。席がある。荷物がある。でも、そこにいるべき人間が、いない。今日は朝から顔を合わせていない。それでも、どのあたりに座っているかは、なんとなく把握していた。人の多い場所でも和哉を探す癖が、気づけばついていた。


 偶然、席を外しているだけかもしれない。トイレかもしれない。知り合いと話しているだけかもしれない。


 そう思おうとして、思えなかった。


 (早く、会いたい)


 缶を取り出して、握る。冷たいはずなのに、すでに少し温もりが移っている。もう一度だけテントを見る。やはり、いない。


 嫌な感じがじわりと広がる。先輩が見ていてくれなかった。それだけで、今日ここまで積み上げてきた時間が、砂の城みたいに意味を失う気がした。合理的じゃないとわかっている。それでも、そう感じてしまった。


 隣の自販機が、ぶうん、と低い音を立てている。グラウンドからは絶えず歓声が届いてくる。世界は賑やかなままだ。自分の周りだけが、静かに凍っていくような感じがした。


 湊は缶を手に、しばらく考えた。


 探しに行くべきか。でも、勝手に動いていいのか。体育祭の最中だ。次の競技もある。先輩は大人だ。自分は一年生だ。


 それでも。


 あの人が居たくない場所に、無理に居る意味があるのか。


 そう考えたとき、足がもう動き始めていた。


*****


「久我〜!」


 校舎の出口のあたりで、声をかけられた。


 着替えを終えた雪と綾香だった。雪はまだ少し顔が赤く、綾香は「いやーよかったよかった、最高だったって!」と上機嫌に腕を振っている。


「あれ、久我どうした、そんな顔して」


 綾香が真っ先に気づく。存外、人の機微には目ざとい。


「三年のテント、綿貫先輩がいない」


「え……」


 雪の表情が、少し曇った。眼鏡の奥の瞳が、不安そうに揺れる。二人の間に一拍の間があって、綾香が口を開いた。


「もしかして、綿貫先輩も?」


「も?」


「それがさ」と綾香が声を少し落とす。「七瀬先輩のこと、聞いた?」


 聞いていなかった、と首を振ると、綾香が続ける。


「熱中症っぽくて、保健室にいるって。村内先輩が運んだって聞いたんだけど」


「え」


 涼香が、保健室。それと、和哉がいないこと。頭の中で二つの情報が、今はまだ別々に浮かんでいる。繋がるかどうか、わからない。でも何かが引っかかった。


「お見舞い、行っていい?」


 湊がそう言うと、綾香が「うちらも行く」と即答した。雪も小さく頷く。


 もしかしたら、和哉も保健室にいるのかもしれない。そうじゃないかもしれない。どちらにしても、まず行ってみることだと思った。


*****


 廊下に入ると、音が変わった。


 グラウンドの歓声がすっと遠ざかり、代わりに上履きの足音と、どこかの教室から流れてくる校内放送の声だけが残る。窓の向こうには晴れた空が広がっているのに、廊下の中だけ、少し時間が止まったみたいだった。光の差し方が、外とは違う。静けさの色が違う。


 保健室のドアをノックすると、中から「どうぞ」という保健教員の声がした。


 白いカーテンの奥に、涼香がいた。


 ベッドに横になっている。顔色はまだ優れないが、目はしっかり開いている。桃色の瞳が、入ってきた三人をとらえた。手元にはスポーツドリンクのボトル。椅子に腰かけた尚弥が、三人の顔を見て少し意外そうな顔をした。彼の紅の瞳が、きょとんと瞬く。


「お見舞いにきました」


「七瀬先輩、大丈夫ですか」と雪が言う。


「あら、お騒がせしてすみません」と涼香が返す。苦笑が口元に浮かんでいた。「大げさなことになってしまいましたね」


 外から、歓声がひときわ大きく聞こえた。どこかの団が何かをやり遂げたのだろう。白いカーテンの端が、窓から入る風でわずかに揺れる。


「先輩、無理に動かなくていいですよ」と尚弥が言う。


「そんなに過保護にならなくて大丈夫です」と涼香がはっきり返す。


 この人の「大丈夫」は信用できない、と尚弥の顔が物語っていた。眉が少しだけ寄っている。それでも口に出さないのは、今は涼香を刺激しないためだろう。


 場が少し落ち着いたところで、涼香が湊に目を向けた。はっきりとした視線だった。具合が悪いのに、この人の目はいつも真剣だ。


「久我くん、少し聞いてもいいですか」


 涼香は、昼前に和哉を解放していた。午後の応援には必ず戻るよう念を押して。でも戻ってきた気配がなかった。クラスメイトに確認したら、席が空いていると言っていた。体調が心配というより——また消えた、という確信が、涼香にはあった。あの人は何度もそうしてきた。


「綿貫さん……見かけませんでしたか」


 湊は一拍、間を置いた。なんでもないふりをしようとした跡が、顔に少し残ったかもしれない。


「……見てないです。テントにいなかったのは、気になってました」


 涼香は小さく頷く。やっぱりそうか、という顔だった。その目が、もう一度湊をまっすぐに見る。今度は少しだけ、何かを確かめるような間があった。


 涼香は起き上がろうとした。


「先輩、動かないでください」


 尚弥がすぐに制する。低い、有無を言わさない声だった。涼香は一度だけ眉をひそめて、過保護な後輩にため息を一つ落としてから、静かに体を戻した。ちらり、と当てつけのように尚弥を見る。尚弥は「当然ですよね?」という顔で、まったく動じていなかった。


「……お願いがあるのですが」


 湊を見る目に、責める色はなかった。ただ、静かに、心配していた。


「綿貫さんを、探してもらえますか」


「あの人、たまに消えるんです。テントには戻ると言っていたのに」


 一拍置いて、涼香が付け加えた。


「後輩の貴方に頼める立場じゃないのはわかってます。でも、今の私には動けなくて」


 涼香がなぜ湊に頼むのか、湊は聞かなかった。涼香も説明しなかった。ただ、二人の間に、それで通じるものがあった。涼香の目が何を見ているかを、湊はわかっていた気がした。


「わかりました。行ってきます」


 即答だった。踵を返して、保健室を出る。缶をまだ開けていないことに、廊下へ出てから気づいた。踵を返して保健室のドアを少しだけ開ける。


「あ、これ、お見舞いです」


 コーラの缶を差し出すと、保健室の中が一瞬静まった。


「……お見舞いにコーラって」と尚弥が言う。


「しかもちょっとぬるいですね」と涼香がクスッと笑う。


 湊はもうドアを閉めていた。廊下を歩き出す。後ろで雪の「久我くん」という声がしたが、振り返らなかった。


*****


 廊下を歩く。


 グラウンドの歓声が、一歩ごとに薄れていく。校舎の奥へ進むほど、音が静かになる。上履きの足音が、自分の呼吸と一緒に、細い廊下に吸い込まれていく。


 湊は考える。


 和哉先輩が「消える」とき、どこへ行くのか。


 部活の話をするとき、あの人はいつも少しだけ顔が変わる。表情がゆるむ、というより、どこかに戻っていく感じがする。自分の一番落ち着く場所を思い浮かべているような、そういう顔だ。


 部活が終わった後、誰もいなくなった茶道室の前を二人で通ったことがあった。あの人はそこで少しだけ歩みを遅らせて、「この雰囲気、好きなんだ」と言った。廊下に漏れてくる畳の匂いを、静かに吸い込むようにして。


 中学のころ。誰もいない部室で。「畳の匂いって、落ち着くんだよね」と言いながら、西日の中、微笑んでいた。


 答えは、最初からあった決まっている。


 窓の外の光が、廊下の床に長く伸びている。初夏の午後の光だ。グラウンドではみんなが走って、叫んで、輝いている。でも今の湊には、そのどれよりも、この静かな廊下の方が大事だった。光の届かない場所に、探している人がいる。


 茶道室の前に立つ。


 引き戸に手をかける前に、少しだけ止まった。ここにいてほしい、という気持ちと、ここにいたとしたらどう声をかければいいのか、という気持ちが、同時に胸の中にあった。


 向こうは静かだった。


 でも、静かすぎて、誰かがいる気がした。


 湊は、引き戸に手をかけた。

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