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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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27/29

24話 先輩ログアウト


 障害物競走が終わり、椅子取りゲームが終わると、午前の競技はすべて終了した。


 熱気と歓声と砂埃とが入り混じった午前中は、あっという間に過ぎ去っていった。グラウンドのあちこちで汗をぬぐう姿や、飲み物を求めてクーラーボックスに殺到する生徒たちの姿が目に入る。


 初夏の日差しはすでに正午の角度で降り注いでいて、グラウンドの砂が白っぽく乾いていた。肌を刺すような直射日光が、テントの布の隙間からも容赦なく差し込んでくる。

 湿気を含んだ空気は、じっとしているだけで体力を奪っていくようだった。テントの縁からのぞく空は、まばゆいほどに青かった。


 ピリリリ、と短いブザーが鳴り響いた。


 昼休憩の合図だ。


 その音を聞いた瞬間、生徒たちの間に目に見えて弛緩の波が広がった。肩の力が抜け、ずっと張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかる。テントの影がひと際ありがたく感じられる時間だ。どこかで誰かが大きく息をついた音が、風に乗って流れてきた。会話の声がまだらに戻り始める。日常の音が、ほんの少しだけ戻ってくる。


「綿貫さん」


 涼香が、手首に巻かれたロープを解きながら和哉へ声をかけた。いつも通り、よどみのない清流のような声だ。


「お昼、抜けていいですよ。競技は午後からですから」


「……ほんとに?」


「ほんとに。ただし、午後の応援の時間には絶対に戻ってきてください。約束ですよ」


 涼香が人差し指を立てて念を押すと、和哉は「うん」と短く頷いた。それから、どこかほっとしたような顔で立ち上がり、お弁当の包みを抱えてテントの外へと出ていった。天然パーマの黒髪が初夏の光を浴びて、ゆるやかに揺れながら遠ざかっていく。その後ろ姿が人波の中に溶け込んでいくまで、涼香はほんの少しだけ目で追ってから、自分のスケジュール表へ視線を落とした。びっしりと書き込まれた文字たちが、これから先の時間を予告しているようだった。


*****


 涼香が最初のトラブルに呼ばれたのは、和哉を見送ってから十分も経たないうちのことだった。


 体育祭実行委員の男子が、微妙に申し訳なさそうな顔で涼香のもとへ近づいてきた。長身で坊主頭の、野球部らしい体格をした生徒だ。体格の割に、近づいてくる足取りがやや及び腰だった。


「七瀬、ちょっといいか。午後の進行表なんだけど、先生に確認してほしいって話があって」


 涼香は内心でため息をついた。表情には出さなかったが。


「わかりました。どちらで確認ですか」


「本部テント。宇佐美先生と高梨先生が待ってる」


 本部テントで進行表の確認を終えると、次は一年生女子のリレー組み合わせに変更が生じたという連絡が入り、それを受けてクラス担任への連絡を代行することになった。

 その後も、放送用マイクの調子が悪いという話で放送担当の生徒に付き添い、最後には日程表の印刷を頼まれて職員室まで取りに行った。

 

 途中、宇佐美先生の白衣のポケットから資料が落ちているのを拾い届けたり、高梨先生の頼みで来賓誘導の案内看板の位置を調整したりと、細かな雑務が次から次へと湧いて出た。どれもほんの少しのことのように見えて、積み重なると無視できない時間になる。


 どれひとつとして涼香の本来の仕事ではない。


 それでも「七瀬さんなら対応できるから」という暗黙の期待が積み重なって、いつの間にかこういうことになっている。断るのも角が立つし、実際に自分が一番てきぱきとこなせるのもわかっているから、その都度「わかりました」と答え続けた。気づけば昼休憩がいつの間にか半分以上溶けていた。答えながら、ふと思う。いつからこの「わかりました」が自分の口癖になったのだろう、と。


 空のペットボトルを握り締めたまま、涼香は午後の太陽の下を一人で歩いていた。


 水を飲まなければ、と思った。思ったが、その水を調達する時間の捻出が間に合っていない。


 昼食はどこかで食べたはずだ。ゆっくりと座って食べる間はなかったけれど、移動しながらおにぎりを一つ。それだけでも体に入れたのだから大丈夫だろうと判断したのは、今から考えれば少し楽観的だったかもしれない。日差しは正午を過ぎてもなお容赦なく、グラウンドの地面からも熱が反射して上がってくる。陽炎のようなものが、遠くの地面に揺れているのが見えた。


 グラウンドの端、器材を運ぶ係の生徒とすれ違う。その目が涼香の顔を見て、何か言いたそうにしたが、涼香はそのまま通り過ぎた。何かを言われる前に自分の足で立って歩いていれば、それで問題はない。


 そのはずだった。


*****


 昼食の時間、一年生たちは思い思いに過ごしていた。


「ここ座っていい?」


「ん、ああ」


「どうぞ」


 雪と綾香が弁当箱を手に近づいていくと、湊と響也が隣のスペースを空けてくれた。


 四人で並んで、弁当を広げる。グラウンド沿いのフェンス際、日陰になっているちょうどいい場所だった。


「久我〜、さっきはよくもうちの雪を連れてってくれたねぇ?」


 綾香が茶化すような口調で言う。眼鏡の奥の淡い茶色の瞳が、ちらりと湊を見てすぐ弁当箱の方へ戻る。白い耳が心なしか赤い。


「ああ、水野さっきはありがとう。助かった、借り物競走」


「い、いえ……その……えと、わたしでよかったのかな、って」


「よかったよ。水野のこと仲良いって思ってるし」


 湊が当然のようにそう言うと、雪の耳が昨日に続いて再び赤くなった。綾香がそれを見て「うわー、また赤い」と声を上げ、雪が「やめてよあやちゃん!」と小声で抗議する。弁当のふたがパチンと閉じられて、雪がとん、と綾香の肩を押した。そのやりとりが微笑ましくて、湊は口の端が緩むのを感じた。


「応援団、準備できてる?」と湊が響也に話を振ると、響也は箸を持ったまま淡々と答えた。


「衣装は昨日から待機場所に預けてある。振り付けは湊が間違えなければ問題ない」


「間違えない」


「間違えないでくれ」


 翡翠色の瞳が眼鏡の奥で静かに光っている。響也の場合、心配しているのか信頼しているのか、表情だけでは判断しにくい。どちらでもあるのかもしれないと思いながら、湊は卵焼きを一口で食べた。甘い味が口の中に広がる。


 妹の渚が今朝早起きして作ってくれた弁当だ。おかずの配置が几帳面で、彩りがちゃんと考えてある。「体育祭がんばってね」と書いた付箋が蓋の裏に貼ってあって、湊はそれを剥がさずにもう一度蓋を閉じた。渚のやつ、と思う。ああいうところが、あいつらしい。こういう小さなことに、どうしてか胸がくすぐったくなる。


「あ、雪、私達もう行かないと」


 半分ほど食べたところで、弁当を大急ぎで包みながら綾香が立ち上がった。


「え、もう?」


「急げ急げ、衣装に着替える時間も必要なんだから」


「あの衣装はやっぱり」


「文句なし!」


 雪が何かを言いかけるより先に綾香が話を遮り、有無を言わさぬ笑顔で雪の腕を掴んだ。雪は眼鏡を片手で押さえながら引きずられていく。「あやちゃん、足が、足が速い!」という声が遠ざかっていき、その後ろ姿が小走りに人混みへ消えていくのを見届けてから、湊も弁当を片付け始めた。


「俺らも衣装に着替えに行こう」


 「ああ」と響也が短く答え、立ち上がる。二人で連れ立って歩き出す。グラウンドの向こうでは、すでに午後の競技に向けた準備が始まっていた。

 

 係の生徒たちが旗やコーンを運んでいる。白線が新たに引き直され、グラウンドがまた別の顔を見せ始めていた。湊は一度だけ振り返り、スタンドの方角を確かめた。どこかにいるはずだ、と思う。今は、それだけでいい。


*****


 尚弥が涼香の姿を目にとめたのは、昼食を終えてテントへ戻る途中のことだった。


 グラウンドの端、器材倉庫の脇の日当たりの良い場所に、涼香が立っていた。


 立っている、というよりも、立っていようとしている、という表現の方が正確かもしれない。少し距離があったにもかかわらず、普段とは何かが違うとすぐにわかった。背筋こそ伸ばしているが、重心のかかり方がどこかおかしい。あの先輩がこういう立ち方をするだろうか、という違和感を覚えた瞬間、涼香の肩がわずかに揺れた。手の中の空のペットボトルが、かたりと音を立てる。ペットボトルを握る指先の力も、なんとなく頼りなく見えた。


「七瀬先輩!」


 尚弥は反射的に駆け出した。


 近づくにつれて、涼香の顔色が見える。白い。もともと色白な人だが、それを差し引いても今は顔から血の気が引いている。桃色の瞳は焦点が定まり切らず、どこか遠いところを見ているようだった。整然と結われていた黒髪が、こめかみのあたりで少しほつれている。汗が薄く滲んでいた。空のペットボトルが、力の抜けた手の中でかたりと揺れた。


「なんでもないですよ、ちょっと立ち止まっていただけで」


 涼香は微かに笑ってそう言った。

その声がいつもより薄くて、尚弥の胸のどこかをぎゅっと掴む感じがした。なんでもないわけがない。この人は自分が倒れるまでそうやって笑い続けるタイプだということを、部活を通じて尚弥はよく知っていた。今まで何度、先輩がしんどそうにしているのに「問題ないですよ」と言い切る場面を見てきたことか。その「問題ない」が実は問題だらけだということを、尚弥はそのたびに黙って気づいてきた。


「日陰で休んでましたか」


「休む暇が少し」


「水、飲みましたか」


「後で」


「お昼、食べましたか」


 一拍の間があった。


「……おにぎりを一つ」


 尚弥は判断した。後でとか大丈夫とか、そういう言葉を待っている時間はない。


「失礼します」


 言うが早いか、尚弥は涼香の体をすくい上げた。膝の裏と背中に腕を回して、いわゆるお姫様抱っこの形で。先輩の体は思ったより軽くて、その軽さがむしろ心配を深くした。こんなに軽かったか、と思う。腕の中に先輩の体温がある。いつもより低い気がした。熱中症の初期症状を思い浮かべながら、尚弥は足を踏み出した。


「ちょっ、と、村内くん!?」


「保健室に行きます」


「歩けます!自分で!」


「歩いたら倒れますよ」


「倒れません!」


「倒れてからじゃ遅いです」


 涼香は数秒間、何か言い返そうとした。尚弥の腕の中で桃色の瞳がぐるぐると動いたが、やがて力が抜けて、観念したように静かになった。抵抗をやめた、ではなく、抵抗する体力がなくなった、という感じの静まり方だった。それが、かえって胸に来た。


 保健室まで運んでいく道中、周囲の生徒が何事かと振り返る。尚弥はそちらを気にする余裕もなかった。「七瀬先輩を抱えてる」という事実がぼんやりとした驚きとして頭にあるが、今はとにかく先へ進むことだけを考えていた。保健室のドアを足で押し開けると、中にいた保健の先生がすぐに立ち上がった。白衣の裾が揺れる。


「熱中症かもしれません。水も食事もちゃんと取れてないと思います」


 先生がすぐに処置を始め、涼香はベッドに横にさせられた。点滴を打つほどではないが、しばらくは安静にするよう言い渡される。冷たいタオルが額に置かれ、スポーツドリンクのボトルが手渡された。白いカーテンが静かに引かれる。保健室特有の、清潔な消毒液の匂いがした。外の喧騒が、壁一枚を隔てて遠くなる。


「まったく、先輩そんなになるまで何してたんですか、昼メシも食べないで」


「競技のことで少しごたつきがありまして、その処理をしてました」


「それをお一人で?」


「……黙秘権を行使します」


「はぁ」


 どうしてこの人はいつもこうなんだろうと思う。誰よりも有能で、誰よりも気が回って、だから誰よりも余計なものを背負い込む。頼まれれば断れず、気づけば誰かの穴を埋めている。そのくせ、自分が倒れかけていることは最後まで誰にも言わない。


「先輩、断ることを覚えてください」


 ベッドの脇の椅子に腰を下ろしながら、尚弥は言った。涼香の手から空のペットボトルを取り上げ、代わりに新しいスポーツドリンクを握らせる。指が少し冷たかった。


「文武両道なのは知ってますけど、何でも引き受けてたら体が持ちませんよ」


「……そんな小言みたいなこと言わなくていいですよ」


「小言じゃないです。心配してます」


 涼香は、タオルの下から尚弥を見た。その瞳が少しだけ驚いたように細くなって、それからまた前を向く。桃色の瞳が天井の白を映していた。心配、という言葉の扱い方を、この人はあまり知らないのかもしれない、と尚弥は思った。


「……大げさですよ」


「大げさじゃないです」


 涼香は返事をしなかった。でも、手に持ったスポーツドリンクのキャップを静かにひねって、一口飲んだ。喉が動く。それだけで、尚弥は少しほっとした。小さな一口だったけれど、それだけでよかった。


 保健室の窓の外、グラウンドのほうから歓声が聞こえてくる。午後の競技が始まろうとしているらしかった。拡声器から係の教員の声が届いて、また歓声が上がる。壁一枚を挟んだその声が、どこか遠い国の音楽みたいに聞こえた。


「先輩、ここから応援団のパフォーマンス見えますよ。特等席っすね」


「……そうですね」


 尚弥が窓の向こうを示すと、涼香がわずかに首を動かして窓の方へ目を向けた。ベッドの高さからでも、グラウンドの一部が見える。日差しが白く降り注いでいる。


「…ん?」


「一緒に見ましょう。俺もしばらくここにいますから」


「え?いやいやいや!あなた確か応援団団長でしたよね!あなたがいないと…」


「大丈夫っすよ、LINEで代役頼んだんで。あ、追い出そうとしても無駄っすよ。意地でもここに居座るので」


 涼香は少しの間があってから「そうですか」とだけ言った。強く反論しないのが、疲れきっている証拠だと尚弥は思った。いつもの先輩なら三回は言い返してくる。今のこの人には、言い返すための燃料が残っていない。それがわかって、また胸のあたりがざわりとした。


 保健室に、外の喧騒とは切り離された静けさが満ちる。開いた窓から微かに風が入ってきて、白いカーテンの端を揺らした。スポーツドリンクのボトルが、涼香の手の中でゆっくりと傾く。もう一口、飲んだ。


 窓の外では、誰かの笑い声が波のように広がっていた。


「なんでそこまでするのよ」


 尚弥の耳には届かない、小さな独り言だった。


*****


 和哉がテントに戻ったのは、午後の競技開始を告げるアナウンスが流れる少し前のことだった。


 約束は守る性格だ。守りたくないと思っていたとしても、守るべき約束は守る。それが自分の流儀だと、どこかで知っていた。


 いや、たまに授業はサボってしまうのだが、癖になってしまっているのでなかなかやめられない。いつも抜け出す先は和室で、畳の上に座っていると、不思議と頭の中がしんとする。外の騒々しさが嘘みたいに、ただ時間だけが静かに流れる。今日もそうしたかった、という気持ちが少しないとは言えないが、午後は出ると約束した。


 テントに戻ると、涼香の姿がなかった。代わりに、クラスの女の子が「七瀬さんは保健室に行きました、ちょっと体調が」と教えてくれた。和哉は「そっか」と短く答えて、自分の椅子に腰を下ろした。涼香がいないのは心配だが、倒れたというわけではないらしい。それならとりあえず大丈夫だろう。あの人は見かけよりずっと強い。それが時々、よくないことにもなるのだと思いながら、和哉は膝の上で手を組んだ。


 校内放送が、午後の競技開始を告げる。


『続いて応援合戦を行います。各団の応援団は入場ゲートへお集まりください』


 歓声が上がった。


 午後のメインイベントのひとつ、応援合戦だ。午前中の競技と違い、これはパフォーマンスの色合いが強い。各団の応援団が練習してきた振り付けや掛け声、衣装を披露して、審査員と観客の評価を競う。競技点の他に応援賞というものが別途設けられていて、こちらも総合得点に加算される。審査は厳正だと聞いているが、見ている分には純粋に面白い。どんな練習を積んできたのか、仕上がりを見るのは素直に楽しみだと思う。


 入場ゲートの方角に、各団のカラーをまとった応援団が集まり始めていた。


 赤団の列に、湊の姿が見えた。


 和哉は思わず目を向けた。


 湊が着ているのは、応援団長の衣装だ。白地に赤いラインが入った詰め襟風のジャケット、同じく赤のパンツ、胸元に大きく「赤」の字が刺繍されている。ラインの細さと胸のエンブレムの位置が、まるで誂えたように似合っていた。


 普段の制服姿よりも肩幅が際立って見えて、普段より少し背が高く見えるのは気のせいだろうか。栗毛の髪がきっちりと後ろへ流されて、帽子を被るといつもよりずっと大人びた印象がある。あの子がこういう格好をするとこうなるのか、と思った。いつもの愛らしい笑顔とは少し違う、真剣な横顔だった。


 周囲がざわついていた。


「赤団の応援団長、さっきの借り物競走の子だよね?」


「めちゃくちゃ似合ってない?」


「え、普通にかっこいいんだけど」


「あの小さいの名前なんだっけ、久我?」


 声は和哉の耳にもはっきり届いた。数メートル離れた位置から、他のクラスの女子が湊の方を見ながら話しているのが聞こえる。褒め言葉が、さらりとした川の流れのように続いていく。遮るものが何もない。当然だと思う。当然だ。あの衣装を、あれだけ似合って着こなしている。


 和哉は前を向いた。視線をグラウンドの中央に固定して、特に何も見ていないふりをした。


 各団の応援団が整列した。三色の衣装が横並びに並ぶ光景は、実際に目で見るとなかなかの迫力がある。三列になった人の塊が、それぞれに色を持ってグラウンドに立っている。


 黄団の位置には、尚弥の姿がなかった。アナウンスによれば黄団の応援団長は急遽別の生徒が務めることになったらしく、少し慌ただしい雰囲気がこちらからでも見えた。代わりに出た子が緊張した面持ちで前に立っている。尚弥は一体どこへ行ったのだろうと、和哉はうっすら思った。あの子が自分から団長の役割を手放すとは、何かあったのだろうか。


 青団の端に、雪と綾香の姿がある。二人とも青を基調とした衣装を着ていて、雪の方は両手でスカートの裾を持ちながら、どこか心もとない表情でそこに立っていた。フリルのついたミニスカートは確かに雪の雰囲気にはそぐわない気がするが、妙に似合っているのは否定できない。そのあたりは綾香の目利きによるものだろうか。隣の綾香はというと、自信満々の表情で腕組みをしており、二人の対照が妙におかしかった。


*****


 グラウンドに白線が引かれ、観客席のブルーシートが風にはためく。空は抜けるように晴れていた。初夏の日差しが校庭のすべてを照らし出し、拡声器から流れるアナウンスが空気を震わせる。


 応援合戦の開幕。


 司会の教員の声が弾んでいた。


「では、最初の発表は── 一年一組、赤団!」


*****


──壱の壱 赤団


 袖となる校舎の陰から、湊は一度だけ深く息を吸った。


 グラウンドの向こうで、観客席がざわめいている。保護者も、他学年の生徒も、教員も全員がこちらを見ていた。あれだけの視線を一身に受けるのは初めての経験で、胸の奥が奇妙に静かだった。緊張というより、点火直前の静けさだ。火種はもう、ある。あとは踏み出すだけだ。


 背後に、団員が整列している。全員の足音が、地面に揃っていた。視線が湊の背中に集まっているのがわかる。湊は前を向いたまま、小さく頷いた。行くぞ、という合図だ。


 スピーカーから、細い音が流れ出す。


 篠笛だ。


 一本の音が、空気を薄く裂くように鳴り響く。それは騒がしい会場に不釣り合いなほど静かで、だからこそひどく目立った。観客の声が、少しずつ落ちていく。篠笛の音はふわりと高く、それでいてどこか芯が通っていた。細い音が、広い空へ向かって一直線に伸びていく。


 湊は踏み出した。


 二列縦隊、十五人。歩幅を揃え、ゆっくりと、グラウンドの中央へ向かって歩く。足音だけが地面を叩く。笛の音だけが流れている。拍手も歓声もない。それが、かえって異様な静けさを作り出していた。観客が、息を詰めているのがわかる。


 最後尾で、莉沙が太鼓の前に立った。


 整列。全員が正面を向く。


 沈黙が、一拍落ちた。


 湊が、一歩前へ出る。


 グラウンドがしんと静まった。砂の上で風だけが鳴っている。スタンドの誰かが小さく咳払いをした音が、はっきり聞こえるほどだった。


 腹の底から、声を出した。


「──燃えろ。」


 間があった。


 ほんの一瞬の、真空のような間。


「赤団!」


ドン!!


 太鼓が一発。天を割るような音だった。グラウンドに反響して、観客席の空気が揺れる。胸の中に直接響く音だった。


「オォォ!!」


 団員全員の声が、一点に収束した。


 観客席が、どっと沸いた。



 太鼓のリズムが刻み始める。


 ドン……ドン……ドン……ドン……


 団員の足が地面を踏む。全員の動きが揃い、グラウンドの砂がわずかに舞い上がる。


「ハッ!」


「セイ!」


 掛け声が交互に放たれる。拳が腰に収まり、また前に突き出される。腕の動きに呼応して、白と赤の衣装が揺れた。


 太鼓のテンポが、少しずつ上がっていく。


 そこへ三人が動いた。


 赤、黒、オレンジ──三色の旗を持った者たちが、グラウンドの前方に三角形を描いて散らばる。旗はゆっくりと、波のように揺れ始めた。空気をはらんで膨らみ、しぼみ、また揺れる。炎のような動きだった。揺れる布地が光を受けて赤く染まり、観客の目に炎のゆらぎとして映る。


 残る団員が、一斉に拳を突き上げる。


 太鼓のテンポが、さらに上がった。


 リズムが高速になったとき、団員は左右へ散った。


 V字。湊が中央。


「燃えろ!」


「燃えろ!」


「赤団!!」


 声が、グラウンドに満ちる。旗が大きく振られる。三つの炎が一度に揺れると、観客席から見ると炎の海が広がっているように見えた。


 波が、左から右へと流れる。右から左へ。また左へ。


 フラッグが動くたびに、スタンドから感嘆の声が上がった。


   ──そのとき。


ドン!!!!


 太鼓が、完全に止まった。


 三人のフラッグが、炎型の三角配置でぴたりと静止する。布地が風を受けて膨らんだまま、固まった。旗が背景になる。団員全員が、うつむいた。


 音楽が、切り替わる。


 現代的なビートが空気を揺らし始めた瞬間、一人が肩を動かした。


 隣の一人が続く。


 また次の一人。


 炎が燃え広がるように──動きが、連鎖していく。気づけば全員の体が動いていた。足を踏み、手を振り、回転し、跳ぶ。複雑な振り付けではない。シンプルで、力強く、誰もが見ればすぐに真似できる動きだった。だからこそスタンドの生徒たちが、自然と体を揺らし始めていた。


「赤団!」


 湊が観客席へ向けて叫ぶ。


「オイ! オイ!」


 スタンドから声が返ってくる。


「オイ! オイ!」


 また叫ぶ。


「「オイ! オイ!」」


 声が膨らんでいく。他クラスの生徒も、気づけば手を叩いていた。うっかり巻き込まれたという顔をしながら、しかし止める気もなさそうだった。



 中央で、湊が叫んだ。


「いくぞ!!」


 全員がジャンプした。


 三本の旗が同時に振り上げられる。


ドドドドドド!!


 太鼓が再び鳴り響いた。今度は連打だ。止む気配がない。空気が震えている。


「赤団!!」


「赤団!!」


「赤団!!」


 三回のコールが、グラウンドに響き渡る。スタンドの声も加わり、校庭全体が揺れているようだ。



 最後、全員が拳を突き上げた。


 スタンドが静まる。


 湊が、息を吸う。


「勝つのは──」


 一拍。


「赤団だ!!」


ドン!!


 太鼓が、鳴った。


 全員が静止する。フラッグが最後に大きく振られて、空に赤と黒とオレンジが広がった。


 どっと歓声が上がった。割れるような拍手だった。会場全体が揺れる音だった。地面が、遠く微かに振動しているような気さえした。


 湊は、息を吐いた。ゆっくりと。


 体の奥がまだ熱い。手のひらに汗が滲んでいた。でも今は、それよりも別のものが気になっていた。スタンドのどこかに、眼鏡と黒髪とサファイアの瞳がいるはずだ。


 グラウンドを引き上げながら、湊はそちらを──見るのをやめた。


 見てしまったら、また気になる。今の自分には、それだけの余裕がまだない。


 今は、それだけで十分だった。


*****


「かっこいい…」


 雪が呟く、まるで心の声がポロッと漏れたように。


「ほら、雪惚けてないで行くよ」


──1の2 青団


「次は──一年二組、青団!」


 アナウンスが鳴り終わるより先に、スピーカーからポップな音楽が流れ始めた。


 まず聞こえたのは、スキップの音だった。


 軽やかに、弾むように。女子たちが一列になってグラウンドへ飛び込んでくる。ポンポンを両手に持って、青い布がそのたびに揺れる。笑顔だった。全員が、作った笑顔ではなく、ちゃんと楽しんでいる顔をしていた。


「青団!青団!」


 コールをしながら半円に整列する。中央に立った一人が声を張り上げた。


「青団、準備いい?」


「オッケー!」


 どこか舞台めいたやり取りに、スタンドから笑い声が漏れた。いい意味でのざわめきだった。先ほどの赤団の熱さとは打って変わった、明るい空気が会場を包んでいく。



 ポンポンが、リズムに合わせて揺れる。


 足が上がり、体が回り、ジャンプ。定番の動きが、しかし揃いに揃っていた。見ていて気持ちがいい。青い布が風をはらむたびに、スタンドから歓声が上がる。


「Go!Go!青団!」


 中央の一人が腕を振る。観客席へ向けて。


「一緒にー!」


 スタンドがどう反応するか──一瞬の間があった。


「「Go!Go!青団!」」


 声が返ってきた。一部から始まり、広がって、気づけばスタンドの大半が乗っていた。会場の空気がふわりと明るくなる。赤団の熱気とは違う、花が開くような明るさだった。


 隊列が変わる。


 前列がしゃがむ。後列の腕が、大きく振られる。順番に。左から右へ。また左へ。


 波だった。


 グラウンドの上を、人の波が滑っていく。中央の二人がポンポンを高く掲げてジャンプすると、波が一瞬止まって、また流れ出す。観客席から見る者が思わず身を乗り出す。


 そのとき。


 二人が台になり、一人を持ち上げた。安全な高さだ。それでも、宙に浮いた瞬間、スタンドから「おお」という声が漏れた。


 持ち上げられた子が、空に向かって叫んだ。


「青団いくよー!」


「Let’s Go!」


 全員の声が、揃って返す。



 音楽が少し変わった。今度は軽快で、かわいらしいビートだった。


 手でハートを作る。ステップを踏む。くるりと回る。観客席の女子たちが、思わず真似し始めているのが見えた。自然と体が動いてしまう、そういうリズムだった。


「せーの!」


「「青団!」」


 会場が笑顔になる。それがこの団の、一番の武器だった。



 最後、隊形が大きな円を作った。


 中央に立った綾香が叫ぶ。


「勝つのは!」


「青団!」


 全員が跳んだ。ポンポンが高く上がる。青い布が空で揺れて、まるで水しぶきのように散った。


 最後のポーズ。全員が片足を上げ、ポンポンを天へ向けて掲げる。


「青団ファイトー!」


「オー!!」


 音楽が止まる。


 笑顔の決めポーズ。


 拍手が、温かく降り注いだ。


 ちなみに後日、クラス1大人しい水野雪がふりふりのミニスカートで旗を振りながら「いくよー!」と叫んでいたという目撃談が一年生の男子の間で三日ほど語り継がれた。本人はそのことを知らなかったし、知りたくもなかった。


*****


「はじめ!」


 笛が鳴り、最初の団が入場した。


 湊が動き出した瞬間、グラウンドの空気が変わった気がした。


 声が大きい。よく通る声で、しかも押しつけがましくない。応援団長というのは前に出てナンボの役割だろうに、湊の場合は前に出ながらも全員を引っ張っているように見えた。


 掛け声のタイミングで団員全体が揃って動き、揃って声を出す。その中心に湊がいて、誰かを置いてきぼりにするでもなく、自分だけ突っ走るでもなく、ちょうどいい速度で全員を連れていく。


「久我くんすごいね」


「ほんとに。リーダー向きなんだね」


 また声が届いた。今度は別の方角から。


 和哉は紙コップを一口飲んだ。午前中に飲みきったはずのドリンクは補充されていて、今度は冷たかった。冷たさが喉を通って胃へ落ちていく。わずかに、体の内側がほぐれる感触がした。


 湊がグラウンドの中央で大きく腕を広げた。団員たちが左右に広がり、全員が揃って跳ぶ。その瞬間に観客席からひときわ大きな声が上がって、湊が笑った。その笑顔は、遠くからでもはっきり見えるくらいに明るかった。衣装の白が、初夏の光を跳ね返して輝いている。


 和哉の指が、膝の上でかすかに動いた。


 やっぱり、そういう子だ。


 ひとつの空間に入ったらすぐ真ん中になって、周りを巻き込んで、引っ張って、光の当たる場所をごく自然に歩く人。それが湊だ。いくら体が小さくても、いくら一年生でも、そういうことには関係ない。誰に教わったわけでもなく、誰に求められたわけでもなく、ただそこに立つだけであの場所へ行き着いてしまう人が、世の中にはいる。


 和哉はもう一度、コップを口に運んだ。


 少し、喉が渇いている気がした。それだけだ。


 グラウンドでは湊が跳んでいた。初夏の空の下で、真っ白な衣装が光を浴びていた。観客席からの視線がそこへ集まる。当然のことだった。


 光り輝く湊を見ていると、自分の存在が、午後の強い日差しに溶けて消えてしまいそうな錯覚に陥る。「普通の幸せ」すら遠い自分が、あの光の中にいていいはずがない。


 当然のことだと、和哉は思った。


 思って、それから少しだけ目を伏せた。


 自分の膝の上に視線を落として、一呼吸。


(やっぱり、湊に僕なんかは……)


 和哉はすっと席を離れた。


 誰も座っていないその席に、体育祭の喧騒が流れ込んでくる。グラウンドのどこかからいつまでも続く歓声が、まるで何も見ていないように、空の椅子の上を通り過ぎていった。

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