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ふたりのフツウ  作者: 月凪


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26/29

23話 開幕

 パン! パン! パン!


 スターターピストルの乾いた音が、朝の空気を切り裂くように三度響いた。


 今日は行雲高校の体育祭当日だ。


 見上げれば、碧天がどこまでも広がっている。雲一つない快晴。初夏の日差しはまだ柔らかく、ときおり吹き抜ける風もちょうどいい温度で、体育祭日和とはまさにこういう日のことをいうのだろう。肌に触れる空気は湿り気が少なく、白いテントの端が微かに揺れている。


 校庭にはすでに緊張と期待が入り混じった空気が充満していて、生徒たちの体温と熱気がそこかしこに渦を巻いていた。整列した列の端々からは、さっそく小声で言葉を交わす笑い声が漏れ聞こえてくる。体操服の白がずらりと並ぶ光景は、遠くから見るとひとつの大きな塊のようで、その中に何百もの鼓動が詰まっているのだと改めて思わされる。


 グラウンドの中央へ、全校生徒の視線が一斉に集まる。


 整列した全校生徒の前に、三人の代表選手が進み出た。それぞれの手に赤、青、黄の旗を携え、背筋をぴんと伸ばして正面を見据えている。風が旗の裾をはためかせ、色鮮やかな三色がさらりと揺れた。三色の旗がそれぞれ異なる方向へ揺れるたびに、グラウンドに小さな色の残像が生まれる。


「私たちは、優勝という一つの目標に向かって正々堂々戦います!」


 澄んだ声が、朝のグラウンドに凛と響き渡った。選手宣誓が始まる。


「力を合わせ、フェアプレーを旗印に掲げ、この舞台で最高の競技をすることを誓います。友情を胸に、共に汗を流し、笑顔を分かち合いましょう」


 三本の旗がゆっくりと重なり合う。その動作には、どこか厳かな美しさがあった。整然と並んだ生徒たちが息をのむのが、空気の微かな凪ぎで伝わってくるようだった。体育祭の開幕を告げるものとして、これほど晴れやかな所作もないかもしれない。


「これより我ら行雲高校生の誇り高き瞬間の始まりです!」


 重なった旗が、今度は一斉に天高く突き上げられる。その瞬間を合図にしたように、周囲から大きな歓声と惜しみない拍手が巻き起こった。乾いた手の音が重なって、まるでひとつの楽器のように空へ昇っていく。


 列に並ぶ生徒たちは、思い思いのやり方で体育祭の空気を纏っていた。各団のカラーを使ってハートや星をボディペイントした者、団のスローガンをデカデカとプリントしたTシャツを誇らしげに着込んだ者。気合の入った女子などは朝から髪を巻いてカラフルな飾りをつけており、普段の制服姿からは想像もつかないほど華やかだ。皆が皆、この非日常の一日を心の底から楽しんでいるのが見ていてひと目でわかった。


 体育祭は、そういう日だ。普段の制服も授業も関係ない。クラスや学年の垣根を越えて、ただ全力でぶつかり合える、一年に一度だけの特別な舞台。誰もがこの日のために練習をして、この日のために衣装を選んで、この日のために声の出し方まで考えてきた。それが今日という日だ。


 ……ただし。


「はあ、雨降ってくれればいいのに」


 その声は、列の中から小さく、しかし確かに聞こえた。他の生徒が歓声を上げているさなか、天を仰ぎながら盛大にため息をついている生徒が、一名だけいる。


 天然パーマの黒髪が、初夏の日差しを浴びてゆるく揺れていた。サファイアブルーの瞳が、碧天の青空を恨めしそうに見上げている。行雲高校茶道部部長、綿貫和哉その人だ。


 周囲の熱気とはまるで方向の違うため息が、彼の唇からもう一度、ゆるやかにこぼれた。


*****


 選手宣誓が終わると、全校生徒でのラジオ体操へと移行した。スピーカーから流れる聞き慣れたメロディに合わせて、体育教師の掛け声のもと体を動かしていく。一・二・三、と身体を伸ばして、曲げて、回して。日常でも耳にするあの音楽が、こうしてグラウンドに流れると妙に体育祭らしいにおいがする。この儀式めいた準備運動が終わってようやく、体育祭の本番が幕を開けた。


 校内放送のスピーカーが、ぱちりとノイズを立ててから声を流す。


『二回目と三回目の競技に出場する選手は、速やかに集合場所へ集まりなさい』


「とうとう来たなー」


「暑い、テントにずっといたい」


 周囲のクラスメイトたちが、のそのそと重い腰を上げ始める。日陰になっているクラスのテントは居心地がよく、そこから離れがたいのはよくわかる。だがいくら名残惜しくても、競技は待ってくれない。


「ほーら、さっさと待機場いくぞ」


「なんで待機場にテントがないの」


 笹木響也のぼやき声が上がる中、湊たちはしぶしぶと列を離れ、校庭の隅の待機エリアへと歩き出した。こうして歩き出してしまうと、いよいよ始まるのだという実感が足の裏からじわじわと上がってくる。湊は軽く両手を握り、そっと開いた。


*****


 第一競技は一〇〇メートル走だ。各団の一年、二年、三年からそれぞれ代表一名ずつが走り、タイムと着順によって点数を競い合う。


 全校生徒の視線が、一斉にトラックへと注がれた。


 赤団一年の代表として走るのは磯貝拓人だ。野球部でスタメン候補と噂の、がっしりとした体格の持ち主。スタートラインに立ったその姿は、足元からじわじわと頼もしさが滲み出ている。隣に並ぶ他団の選手と比べても、その肩幅と重心の低さは一目瞭然だった。


「一年、位置についてよーい」


 審判の声が空気を張り詰めさせる。スタートラインに並んだ選手全員が、砂の上に静止する。ほんの一瞬の、息を詰めた沈黙だ。


 パン!


 乾いた銃声が一つ鳴り響いた瞬間、選手たちが地を蹴った。砂煙が舞い、地面を踏みしめる音が整然と重なり、風を切る息遣いが束になって流れてくる。


「おー、はやいはやい!」


「さっすが、野球部一年でスタメン候補!」


 テントの中から声援が飛び交う。先頭を切ってゴールテープを切ったのは、我らが赤団の拓人だ。胸でテープを切った瞬間、テントからひときわ大きな声が上がった。


 一年生の部、赤団が一位を取った。


*****


「二年生!位置についてー」


 次は二年生の番だ。待機エリアで腕を回したり、足首をほぐしたりしていた二年生の代表たちが、順々にスタートラインへと歩み寄っていく。


「あ、村内先輩だ」


 思わず声が出た。黄団の位置に立っているのは、見覚えのある茶髪の背中だ。部活の先輩、村内尚弥。部室ではいつもひょうきんに笑っている彼が、今日はどこか引き締まった横顔をしている。ここから見ると、尚弥先輩はずいぶん大人びて見えた。アレキサンドライトの瞳が前方の一点をまっすぐ見据えていて、普段の柔らかい雰囲気とはまるで違う。あの先輩がこういう表情をするのか、と少し意外に思いながら目を向けた。


「知り合いか?」


 隣に立つクラスメイトが、首をわずかに傾けた。


「部活の先輩」


「へー」


 短い言葉のやり取りを交わしているうちに、審判の声が飛ぶ。


「よーいどん!」


 再びピストルが鳴り、選手たちが一斉に駆け出した。二年生ともなると走りに力強さがある。地面を踏み込む音が一年のそれより重く、低く、地に響く感じがした。スパイクではなく運動靴の踵が砂を噛むその音に、年を重ねた体の質量のようなものが感じられる。


 結果は黄団の先輩が一位。続く三年生の部でも黄団の選手がトップでゴールを切り、序盤から早くも黄団が点数でリードを奪う展開となった。スコアボードを確認する歓声と悔しがる声とが、テントのあちこちから同時に上がった。


*****


 次の競技は玉入れだ。


 グラウンドの三カ所に赤・青・黄のカゴがセットされ、各団の生徒たちが色ごとに整列する。見ているだけでも賑やかな種目だが、意外と実力差が出るとも聞く。勢いと狙いの兼ね合いが難しいのだと、去年先輩が言っていたのを思い出した。あれだけ単純な種目なのに、蓋を開けてみると差がついている、と。


「一年生の玉入れです。はじめ!」


 笛の合図とともに、色とりどりの玉が一斉に空へ舞い上がった。あちこちから弧を描いて飛ぶ玉が、カゴに吸い込まれたり、縁にはじかれたり、地面に転がったりしながら、あたりに賑やかな音を立てる。柔らかい玉が地面に落ちるたびに、ぽすん、ぽすん、と間の抜けた音が響いた。


「え、えい!えい!えーい!」


 水野雪は、ぴょんぴょんと小刻みに跳ねながら玉を投げていた。小柄な体でせいいっぱい腕を伸ばすその姿は懸命で、おさげがぽんぽんと跳ねるたびにどこか愛嬌がある。見ているこちらまで自然と和んでくる。


「どっせーい!」


 対して、佐野綾香は両手いっぱいに玉をかき集め、あまり狙いを定めることなく勢いよくカゴめがけてぶん投げた。それでも着実に玉はカゴへと吸い込まれていくのだから、センスというものは侮れない。元気の良い掛け声がグラウンドに響く都度、周囲から小さな笑いが漏れた。


 合図とともに終了。一年生の集計結果が読み上げられる。


 赤玉 三十二個 青玉 三十六個 黄玉 二十九個


 二年生も同様に玉を投げ合い、結果は赤二十三個、青三十四個、黄二十六個。玉入れは今のところ青が好調だ。


「三年生の玉入れです。はじめ!」


 三年生の番になると、また雰囲気が変わる。経験を積んだ動きには落ち着きがあって、一年生のような「えいやっ」という気合任せの投擲ではなく、一つ一つの動作に意図が感じられる。狙いを定めて投げる、それだけのことに、三年という時間分の重みが乗っているように見えた。


 とりわけ七瀬涼香先輩は違った。焦りも乱れもなく、一投ずつ丁寧にカゴを狙っている。派手さはないが、その所作には無駄がまるでない。


 桃色の瞳が静かに弧の頂点を計算している。ああ、さすがは茶道部の副部長である。茶道で培われた所作の美しさというのは、こういうところにも滲み出るものなのだろうか。玉入れと茶道ではまるで関係がないはずなのに、なぜか同じ種類の丁寧さがそこにある気がした。


 結果、赤四十二個、青三十八個、黄二十四個。三年生の玉入れは赤が制した。


 歓声が上がり、赤団のテントがざわめく。三学年の玉入れ合計点で赤が巻き返した形だ。各団のスコアボードが更新されていくのを校庭の端から眺めながら、今日はまだ始まったばかりだと改めて実感する。まだ午前の序盤だというのに、すでに喉が渇いていた。


 碧い空の下で、体育祭は着実に熱を帯びていく。


「涼香ちゃんおかえりー」


「お疲れ様、めっちゃ綺麗なフォームで玉入れ出てたからすぐわかった。しかもオールイン入れてたし」


「そんな、まぐれですよ」


 涼香先輩は苦笑しながら手を振った。褒められても素直に受け取れないのか、それとも本当にまぐれだと思っているのか、そのどちらかはよくわからない。黒髪を耳の後ろへ流す仕草が、どこか涼しげだった。


「七瀬さーん、おかえりなさーい」


 テントの内側から声が飛ぶ。涼香先輩の目が和哉先輩の席にすっと向く。


「あら、綿貫さんちゃんと席に居ましたね。いい子ですよ」


「……これ解いて?」


 和哉先輩の手には、紐で結ばれた細いロープが握られていた。手首にと椅子に巻かれたそれが、状況を雄弁に物語っている。フレキシブルな素材の細いロープは、しっかりと巻かれていながらもどこか間が抜けていて、和哉先輩自身の雰囲気と妙にマッチしている。


「いやぁ、私もこんなことはしたくないんですが。担任の烏丸先生から『今年は逃すな』と言われてますので」


「そんな脱獄犯みたいに……」


「綿貫さんも悪いんですよ? 各種目の選手決定表の期限までどの種目にも名前を書かなかったのは貴方でしょう。そのせいで貴方だけ種目に不参加という事態になってしまっているんですから。大人しくリードをつけられていてください」


「ううー」


 不満げにうなる声と、どこかほっとしたような顔の歪みとが、和哉の上で奇妙に同居していた。縛られていることへの抗議と、それでも逃げなくて済むという安堵が、サファイアブルーの瞳の中で静かに混じり合っているような気がした。


「ほら、障害物競走が始まりますよ。村内君と久我君が出場するようなので、しっかり応援しましょ」


 涼香は微かに笑ってそれだけ言うと、さりげなく和哉の隣に腰を下ろした。


 「久我君」の名前を出した瞬間、和哉の目が少しだけ動いたのを気づいて「はぁ」っとため息をこぼす。


*****


『続いては障害物競走です。選手の方は配置についてください』


「よーし、頑張るぞ。笹木も全力で走れよ」


「はいはい」


 響也のいつも通り淡々とした返事に、湊は苦笑を返した。翡翠色の瞳には熱も気負いもなく、ただ涼しい光が宿っているばかりだ。


 この学校の障害物競走は各クラス二人一組のペアで行われる形式だ。まず二手に分かれてそれぞれコース上の障害課題をクリアし、最後にそれぞれ課題【借り物】をこなす。そうして二人揃って審査員にOKを貰えれば完走成立だ。


 視線の先に見えるだけでも、平均台、ネット、跳び箱などの障害物が点在している。スタート地点から眺めるとなかなかの物量で、ぼんやりしていたら足元をすくわれそうだ。整備されたコースの中に、ほどよい難しさが仕込まれている。


 風がグラウンドを緩やかに吹き抜けた。審判の笛を待ちながら、湊は足の裏で地面の感触を確かめた。砂の粒が靴の底越しに伝わってくる。今日の地面は乾いていて、踏み込みやすい。自分のコンディションも悪くない。


「位置についてよーい」


 パン!


 笛の音と同時に、湊は地を蹴った。


 最初の関門、ネットくぐりだ。身体を低くして砂の上を這う。腹に砂の感触が当たるのを気にする間もなく抜け出し、すぐさま立ち上がって次へ向かう。地面から立ち上がるとき、一瞬だけ世界がひっくり返るような感覚があった。平均台は焦らず、視線を足元ではなく前方の一点に据えて。左右にぶれる重心を体幹で抑えながら、軽い足取りで端まで渡り切った。


「いけ久我ー!」


 テントの方角から声援が飛んでくる。跳び箱はリズムで跳ぶ。踏み切り、両手をつき、勢いよく身体を持ち上げる。着地の衝撃を膝で受け止めて、そのまま駆け出した。衝撃は両脚の筋肉に分散されて、次の一歩へとすぐに変換される。体を鍛えてきた意味が、こういうときに出る。


 コースの後半、カラーコーンを縫うようにジグザグに走り抜け、麻袋に両足を突っ込んで跳びながら進む種目では思わず笑いそうになったが、それでも懸命に前へ進んだ。周囲の選手たちも大差なくぴょんぴょんと跳んでいて、端から見ればきっと滑稽な光景だろう。ぼふ、ぼふ、と麻袋が地面に落ちる音が等間隔に続く。ここだけは格好をつけても仕方がない。


 そして最後の課題、【借り物】だ。


 コース終端に置かれた木製の抽選箱に手を突っ込み、中のくじを引き抜く。息を弾ませながら紙を広げると、そこには几帳面な手書き文字が並んでいた。


 『仲の良い異性』


「…………え」


 湊は一瞬、紙とグラウンドを交互に見た。それから審判のほうを向いて確認するように紙を掲げると、審判が無表情で頷いた。


 本物だった。


 頭の中を整理する時間は与えられない。「借り物」の制限時間は短い。周囲の観客席を大急ぎで見渡した湊の目が、一点で止まった。


 ――青団のテント、端の列。


 おさげに眼鏡の小柄な女の子が、応援用のうちわを両手に持ってこちらを見ていた。水野雪だ。淡い茶色の瞳が、虚をつかれたように少し大きくなっている。すでに自分の競技を終えて観客席に戻っていたらしく、綾香と並んで座っている。


 迷う時間はない。


「水野っ!ちょっといい!?」


 湊が手を上げながら近づいていくと、雪は自分が呼ばれたと気づいた瞬間に目を丸くした。


「え、わ、わたし!?」


「ああ、頼む一緒に走ってくれ」


 雪の隣で綾香が「えっ、ちょっ」と声を上げるより先に、湊はすでに雪の手を引いて走り出していた。雪はというと状況についていけないままに引きずられるように小走りになり、眼鏡がずり落ちそうになるのを片手で押さえながらゴールへと駆け込んだ。


「は、はわわ……っ」


 審判がお題を確認しOKのサインを出す。同じタイミングで響也も別の課題をクリアして合流し、二人揃ってゴールテープを切った。


「やった、完走!」


「お、おめでとうざいます!」


 雪がはあはあと息を切らしながら言う。湊は「ありがとう助かった!」と屈託のない笑顔で礼を言い、雪の手を離した。雪は解放された手を胸元で握り、耳まで赤くして俯いた。うちわが地面に落ちているのにも気づいていないようだった。


 その光景を、グラウンドのあちこちから目撃した者たちがいた。


*****


「ねえ見た? さっき一年の男の子が青団の女の子の手引いてゴールしてたやつ」


「見た見た! 借り物で仲の良い異性って出たんだって」


「でもわざわざその子を選ぶってことは、やっぱりアレじゃないの?」


「女の子も赤くなってなかった?」


 囁き声は、さざ波のようにテントの中を伝わっていった。


 情報の回るのは速い。それがこういう場では特に。グラウンドを離れたところで行われた数十秒の出来事が、すでにいくつもの口をくぐり抜けて、尾ひれをつけながら別の場所へと流れていく。


 観客席に戻った綾香が雪に向かって「ちょっとちょっと! どういうこと!?」と詰め寄っているのが遠目にも見えた。雪は両手をばたばたと振って否定しているようだったが、顔の赤さがその言葉の説得力を著しく損なっている。うちわを胸に抱えて俯く雪の耳は、遠目にもはっきりと赤かった。


 和哉が、そのやりとりを視界の端に捉えたのは、ちょうどそのときだった。


 背が低くて、すでに少し日に焼けていて、さっきまで競技を走っていたのに姿勢がよくて。周囲の女子が「久我くん足速い」「かっこよくない?」と話しているのが、うっかり耳に入ってきた。そういう声が届くたびに、何かが胸の奥で形を変えるような気がした。名前のつけにくい、それでいてたしかに何かである感覚。


「おやおや、これはこれは〜」


 隣で見ていた涼香が和哉を見て小刻みに震え、意地悪に微笑みかける。


「少し焦ってます?」


 別に。


 和哉は視線をそちらから外して、先ほど熱中症予防で配られた紙コップに目を落とした。薄い紙の感触が指先に伝わってくる。中身はもうほとんど残っていない。


 別に、何でもない。


 ただ、なんとなく。空のコップの底に残った水を一口飲んだ。氷が入っていたはずなのに、もう溶けきっていてぬるくなっていた。冷たさのないそれを、それでも口に含んだ。


 なんとなく、少しだけ、喉が渇いた気がしただけだ。


 それ以上でも、以下でもない。


 そのはずだ、と、自分に言い聞かせるようにもう一度、今度は無意識に唇を引き結んだ。グラウンドの向こうでは、湊が響也と何か話して笑っている。初夏の光の中で、その笑顔だけが少しまぶしかった。

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