表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ふたりのフツウ  作者: 月凪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/29

26話 一緒に

 体育祭の歓声が、遠くから波のように押し寄せてくる。


 湊は校舎の廊下を早足で歩いていた。グラウンドの熱気とは切り離されたように、廊下の空気はひんやりとしている。上履きの底が、床を叩く音だけが響いた。


 和哉先輩がいない。


 行き先は、一つしか思いつかなかった。


*****


 茶道室の前に立つ。


 廊下の突き当たり、一段高くなった場所。年季の入った木製の靴箱と、細かな草花の模様が描かれた襖。グラウンドから一番遠い、校舎の隅。体育祭の喧騒が、ここまで来ると不思議なほど遠い。


 湊は靴を脱いで、揃えた。

 つま先を廊下側に向けて。先輩に最初に教えてもらったやり方で。


 そっと、襖を開ける。


*****


 和哉は窓際に座っていた。


 膝を抱えるでもなく、ただ窓の外を眺めている。片手には扇子があって、開いたり閉じたりを繰り返しながら、くるくると指の間で回している。それが癖なのか、それとも手持ち無沙汰なのか、湊には判断がつかなかった。


 外からはまだ歓声が聞こえていた。遠くで誰かがコールをしている声が、ここまで届いてくる。和哉はその声を聞いているのか、いないのか、ただじっと窓の外を見ていた。


 湊が入ってきた気配に、和哉は振り返らなかった。


「失礼します、先輩」


「……なんで来たの」


 声は穏やかだった。怒っているわけじゃない。ただ普段とは少し違う、どこか疲れたような声だった。


「先輩に会いたくて」


 和哉がようやく振り返る。眼鏡の奥のサファイアが、湊を映した。少し、濁っているように見えた。


「戻って。体育祭、まだあるでしょ」


「戻りません」


 湊は迷わずそう言って、和哉の隣に腰を下ろした。畳の感触が手のひらに伝わってくる。イ草の清々しい香りが、ふわりと鼻をくすぐった。


「……湊」


「ここ、涼しいですね」


 湊は天井を見上げながら言った。


「外より全然いい。体育祭の真ん中でこうしてるの、なんか『おつ』じゃないですか」


 和哉が小さく息をついた。


「おつって何」


「風流ってことです」


「そういう意味じゃ使わないと思うけど」


「先輩と二人でここにいる感じが、おつです」


 和哉は何も言わなかった。でも、少しだけ肩の力が抜けたのが、横顔を見なくてもわかった。


 しばらく、二人とも黙っていた。外の歓声が、波のように来ては引いていく。和室の空気だけが、どこか別の時間を流れているようだった。


 湊が口を開いた。


「覚えてます? 中学の時、二人でこうしてたじゃないですか」


 和哉が湊を見る。その目に、一瞬だけ警戒のようなものが宿った。この話の続きに何があるか、探っているような目だった。


「覚えてるけど……」


「ある日、先生にバレかけたの。覚えてないですか。廊下に足音がして、二人でしばらく息止めてたやつ」


 和哉の表情が、少しだけ変わった。記憶を探るように目が動いて、それからふっと笑みが漏れる。


「……覚えてる。あの時、湊が先に笑い出して」


「先輩も笑ってたじゃないですか」


「湊が先だった」


「先輩も笑ってました、絶対」


 二人で笑った。声を出すほどじゃない、小さな笑いだった。でも本物だった。


 笑い声が消えて、静かになる。

 悪い静かさじゃなかった。


 湊が畳の縁を指先でなぞりながら言った。


「先輩、茶道のこと好きですよね」


 和哉が少し驚いたように湊を見る。


「……うん、好きだよ」


「なんで好きになったんですか」


 和哉はすぐには答えなかった。少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。


「おばあちゃんがやっててね。小学生の時、一回だけお茶会に連れて行ってもらったんだ。お母さんが急な用事でいなかった時にね」


「どんなお茶会でしたか」


「静かだった」


 和哉の声が、少し遠くなる。


「小さな和室に、知らない着物のお爺さんやお婆さんがいて、静かに正座してるんだ。最初はおばあちゃんにくっついてたんだけど、近くにいた人がお菓子をくれたり、茶道のことを教えてくれたりしてるうちに、なんてことなくなった」


 和哉は手の中の扇子を止めた。記憶の中を歩くような、ゆっくりとした速度で話す。


「少し経ったら亭主の人が挨拶をして、お茶を立てたんだ。シャカシャカって音を立てながら立ててるのを、なぜか夢中で見てて。まだ小さかったから、その時飲んだ抹茶はすごく苦かったけど、なんか特別な味だった。お茶を立てる体験もさせてもらってね」


「俺が先輩にして貰ったことと同じですね」


 湊がぽつりと言うと、和哉が少し目を細めた。


「そうだね。そうかもしれない」


 和哉は続ける。何度かおばあちゃんと一緒にお茶会に行ったこと、そのたびに少しずつ茶道の言葉を覚えていったこと。淡々とした口調だったが、その声には確かな温かさがあった。


「お点前してる間、何も考えなくていいんだよ。手順が決まってるから、次に何をするか迷わなくていい。やることが全部決まってて、その通りにやるだけで、なんか……落ち着いた」


「先輩らしいですね」


「そう?」


「はい。先輩、お茶を立ててる時、すごく落ち着いた顔してます。それに、迷ってる時はすごく辛そうで」


 和哉が少し目を伏せた。

 湊は何も言わずに待った。


「あとね」


 和哉が続ける。手の中の扇子を、膝の上にそっと置いた。


「……あれが初めてだったんだ」


「何がですか」


「お母さんがいないところで、自分が好きだって思えたもの」


 和室が静かになった。

 外の歓声が、やけに遠かった。


「おばあちゃんの家に行く時だけ、お母さんがいなかった。その時間に、好きなものを見つけた」


 湊はすぐに何かを言わなかった。

 先輩の声が、いつもより少し小さい。これ以上踏み込んだら、何か壊れてしまうような気がした。だから湊はただ、隣にいた。


 しばらくして、和哉が少し息を吸った。それが話の終わりの合図だとわかって、湊は口を開く。


「先輩」


「うん」


「先輩が戻らないなら、俺もここにいます」


 和哉が湊を見た。


「……なんで」


「だって先輩がいないと面白くないので」


「湊、応援団長でしょ。みんなが待ってる」


「先輩がいない体育祭より、先輩がいるここの方がいいです」


 湊は少し笑いながら続けた。


「それに、言ったじゃないですか。『どんな所でも先輩を一人にさせません』って」


 和哉の表情が変わった。困ったような、でも違う、もっと別の何かが混じっている顔だった。


(この子は、ほんとに……)


「そういうこと言わないで」


 声に、少し力が入った。


「なんでですか」


「……僕のせいで湊が損することになる。それが嫌なんだ」


 湊は和哉を正面から見た。


「先輩、俺の足を引っ張ってると思ってますか」


「……思ってる」


「引っ張られてないです」


 湊はまっすぐに言った。


(いや、引っ張ってるよ。だって僕は、あの時——湊が周りから称賛を受けてる時、僕は……)


 和哉は膝の上に置いた扇子を、物憂げな表情で見つめた。自分の心の中にあるものに、まだ名前がつけられないでいる。


「俺がここにいたいんです。先輩がいるから」


 和哉が答えられないでいる。


 嬉しい。それだけはわかった。でも受け取り方がわからない。自分の中に、こういう気持ちを置く場所がまだない——そう思っていたのに。


 湊はそれでも、言葉にしなくても伝えてくれる。表情で、態度で、目で。


 気づいているのだろうか。さっきから直接「好き」とは言っていないのに、それと同義の言葉を言い続けていることに。


 涼香の声が、頭の中で聞こえた気がした。

 『さっさと付き合えばいいじゃないですか』


 和哉は少し俯いた。


 でも今は、と思う。大学のこと。家のこと。お母さんのこと。何一つ決まっていない。何一つ、自分で選べていない。そんな自分が、湊の隣に立っていいのか。湊はまだ一年生で、先のことを何もわかっていない。巻き込みたくない。


 でも。

 嫌いになってほしくない。

 嫌いになりたくない。

 この時間を、終わりにしたくない。


 だから。


 和哉が顔を上げた。


「湊」


「はい」


「一個だけ、聞いてもいい」


 湊が頷く。


 和哉は少し息を吸ってから、湊の目を見た。眼鏡の奥のサファイアが、まっすぐ湊を見ている。


「待って、欲しいんだ、卒業まで」


「待つ? えっと……何を待てば……」


「つ、付き合うの」


 湊の時間が、一瞬止まった。


「わかりました! 待ってますね、付き合うの——付き合う?!」


「う、うん。あ! 恋人としてね、どっか行くとかそういうのじゃないよ?」


「こいびっ——!!」


「えっとね、卒業までにいろいろ済ましたいこともあるし受験もあるんだけど、ずっとモヤモヤするのも良くないなって思ってね、それでね……」


「待って! 待ってください!」


「う、うん」


 湊が両手で頭を抱えた。頭の中で何かが高速で回転しているのが、傍目にも伝わってくる。しばらくそのまま固まって、それから顔を上げた。目が真剣になっていた。


「えっとですね! えーっと……俺の気持ち、知ってたんですか」


 和哉が少し目を丸くする。


「え」


「だって先輩の言い方、俺の気持ちを知ってる前提じゃないですか」


 和哉が少し視線を逸らした。否定はしなかった。


「……なんとなく、は」


「なんとなく」


 湊の声が、わずかに上ずった。


「いつからですか」


「中学の……夏頃、くらい」


 湊が顔を伏せた。両手で顔を覆っている。耳まで真っ赤だった。それに俯いたことでつむじが見え和哉は場違いにも「可愛い」という感想が溢れそうになるのを、かろうじてこらえた。


「ずっと知ってたのに、何も言わなかったのは」


「自分の気持ちが、まだわからなかったから」


 沈黙が落ちた。


 湊が顔を上げないまま言う。


「……俺、ずっと隠してるつもりだったのにぃ」


 声に、少しだけ情けなさが滲んでいた。


「ごめん」


「謝らないでください」


 湊が顔を上げた。目が少し赤い。


「なんか、恥ずかしいですね。全部バレてたなんて」


 乾いた笑いが漏れた。情けなさと、でも少し吹っ切れたような、そういう笑い方だった。


 和哉はその顔を見ていた。

 こういう顔をする人だ、と思った。泣きそうな時に笑う。恥ずかしい時に笑う。強がりなのか、本当に強いのか、よくわからない。でもその笑顔が、ずっと好きだった。


 ずっと。


 和哉は、自分の中でその言葉が転がるのを感じた。


 ずっと、好きだった。


「湊」


「はい」


「僕も好きだよ」


 湊が固まった。まるで石にされたように、ピシッと。


 和哉は続けた。言葉が止まる前に全部言ってしまわないといけない気がした。勢いが止まると、また逃げてしまうから。


「恋愛的な意味で」


「…………」


「自分でも気づくのが遅くて、情けないんだけど。でも本当だから」


 湊がしばらく、何も言わなかった。

 和哉が心配になって湊を見ると、湊は口を半開きにしたまま固まっていた。瞬きもしていない。


「……湊?」


「あ、」


 湊が我に返る。


「先輩」


「うん」


「それ、今言いますか」


「え」


「体育祭の最中に、茶道室で、すぐに付き合えないのに」


 和哉が少し目を泳がせた。


「……タイミング、悪かった?」


 湊が笑った。泣きそうな顔で、笑った。


 全く困った人だ、と湊は思った。せっかくウルトラロマンチックな告白方法を考えていたのに、この人の前だとどうして計画通りにならないんだろう。本当に。


「最高のタイミングです」


 和哉は少し息を吐いた。


 でも、表情を引き締める。嬉しいだけじゃ、終われない。


「ただ……」


「はい」


「さっきも言ったけど、今すぐ付き合うのは、まだ無理で」


 湊が頷く。続きを待つ。


「大学のこと、家のこと、ちゃんと自分で決めてから湊と一緒にいたい。今の自分じゃ、湊の隣に立てる気がしないから」


 湊が少し考えてから言う。


「俺の隣に立つのに、条件があるんですか」


「……湊」


「俺は今の先輩の隣がいいです」


 和哉が少し目を伏せた。


「僕が、嫌なんだ。何も決まってない自分が」


 湊が黙る。


 その声の重さは、どこから来ているのか。湊にはまだ全部はわからない。でも軽い言葉で返してはいけないことだけは、わかった。


 しばらく、沈黙があった。


 和哉が、また湊を見た。


「だから……卒業したら、付き合ってほしい。ちゃんと答えを出して、湊のところに行くから」


「……先輩って」


「うん」


「ずるいですよ」


「ずるい?」


「好きって言っておいて待ってって言うんですか」


 和哉が少し笑った。


「……ごめん」


「謝らないでください」


 湊が和哉を見た。目が赤い。でも泣かない。


「待ちます」


 まっすぐな声だった。


「先輩が来てくれるなら、いくらでも」


 和哉は何も言えなかった。


 言葉が、見つからなかった。ありがとうでも、ごめんでも、足りない気がした。


 だから代わりに、湊の手を取った。

 湊が少し息を呑むのがわかった。


 和哉は立ち上がった。湊の手を引いて、一緒に立ち上がらせる。


「行こう」


「……はい」


 和哉が先に扉を開けた。


 外の光が、和室に差し込んでくる。遠くから歓声が聞こえる。体育祭は、まだ続いていた。


 繋いだ手のまま、二人は廊下へ出た。


 イ草の香りが、背中で遠くなっていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ