26話 一緒に
体育祭の歓声が、遠くから波のように押し寄せてくる。
湊は校舎の廊下を早足で歩いていた。グラウンドの熱気とは切り離されたように、廊下の空気はひんやりとしている。上履きの底が、床を叩く音だけが響いた。
和哉先輩がいない。
行き先は、一つしか思いつかなかった。
*****
茶道室の前に立つ。
廊下の突き当たり、一段高くなった場所。年季の入った木製の靴箱と、細かな草花の模様が描かれた襖。グラウンドから一番遠い、校舎の隅。体育祭の喧騒が、ここまで来ると不思議なほど遠い。
湊は靴を脱いで、揃えた。
つま先を廊下側に向けて。先輩に最初に教えてもらったやり方で。
そっと、襖を開ける。
*****
和哉は窓際に座っていた。
膝を抱えるでもなく、ただ窓の外を眺めている。片手には扇子があって、開いたり閉じたりを繰り返しながら、くるくると指の間で回している。それが癖なのか、それとも手持ち無沙汰なのか、湊には判断がつかなかった。
外からはまだ歓声が聞こえていた。遠くで誰かがコールをしている声が、ここまで届いてくる。和哉はその声を聞いているのか、いないのか、ただじっと窓の外を見ていた。
湊が入ってきた気配に、和哉は振り返らなかった。
「失礼します、先輩」
「……なんで来たの」
声は穏やかだった。怒っているわけじゃない。ただ普段とは少し違う、どこか疲れたような声だった。
「先輩に会いたくて」
和哉がようやく振り返る。眼鏡の奥のサファイアが、湊を映した。少し、濁っているように見えた。
「戻って。体育祭、まだあるでしょ」
「戻りません」
湊は迷わずそう言って、和哉の隣に腰を下ろした。畳の感触が手のひらに伝わってくる。イ草の清々しい香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「……湊」
「ここ、涼しいですね」
湊は天井を見上げながら言った。
「外より全然いい。体育祭の真ん中でこうしてるの、なんか『おつ』じゃないですか」
和哉が小さく息をついた。
「おつって何」
「風流ってことです」
「そういう意味じゃ使わないと思うけど」
「先輩と二人でここにいる感じが、おつです」
和哉は何も言わなかった。でも、少しだけ肩の力が抜けたのが、横顔を見なくてもわかった。
しばらく、二人とも黙っていた。外の歓声が、波のように来ては引いていく。和室の空気だけが、どこか別の時間を流れているようだった。
湊が口を開いた。
「覚えてます? 中学の時、二人でこうしてたじゃないですか」
和哉が湊を見る。その目に、一瞬だけ警戒のようなものが宿った。この話の続きに何があるか、探っているような目だった。
「覚えてるけど……」
「ある日、先生にバレかけたの。覚えてないですか。廊下に足音がして、二人でしばらく息止めてたやつ」
和哉の表情が、少しだけ変わった。記憶を探るように目が動いて、それからふっと笑みが漏れる。
「……覚えてる。あの時、湊が先に笑い出して」
「先輩も笑ってたじゃないですか」
「湊が先だった」
「先輩も笑ってました、絶対」
二人で笑った。声を出すほどじゃない、小さな笑いだった。でも本物だった。
笑い声が消えて、静かになる。
悪い静かさじゃなかった。
湊が畳の縁を指先でなぞりながら言った。
「先輩、茶道のこと好きですよね」
和哉が少し驚いたように湊を見る。
「……うん、好きだよ」
「なんで好きになったんですか」
和哉はすぐには答えなかった。少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
「おばあちゃんがやっててね。小学生の時、一回だけお茶会に連れて行ってもらったんだ。お母さんが急な用事でいなかった時にね」
「どんなお茶会でしたか」
「静かだった」
和哉の声が、少し遠くなる。
「小さな和室に、知らない着物のお爺さんやお婆さんがいて、静かに正座してるんだ。最初はおばあちゃんにくっついてたんだけど、近くにいた人がお菓子をくれたり、茶道のことを教えてくれたりしてるうちに、なんてことなくなった」
和哉は手の中の扇子を止めた。記憶の中を歩くような、ゆっくりとした速度で話す。
「少し経ったら亭主の人が挨拶をして、お茶を立てたんだ。シャカシャカって音を立てながら立ててるのを、なぜか夢中で見てて。まだ小さかったから、その時飲んだ抹茶はすごく苦かったけど、なんか特別な味だった。お茶を立てる体験もさせてもらってね」
「俺が先輩にして貰ったことと同じですね」
湊がぽつりと言うと、和哉が少し目を細めた。
「そうだね。そうかもしれない」
和哉は続ける。何度かおばあちゃんと一緒にお茶会に行ったこと、そのたびに少しずつ茶道の言葉を覚えていったこと。淡々とした口調だったが、その声には確かな温かさがあった。
「お点前してる間、何も考えなくていいんだよ。手順が決まってるから、次に何をするか迷わなくていい。やることが全部決まってて、その通りにやるだけで、なんか……落ち着いた」
「先輩らしいですね」
「そう?」
「はい。先輩、お茶を立ててる時、すごく落ち着いた顔してます。それに、迷ってる時はすごく辛そうで」
和哉が少し目を伏せた。
湊は何も言わずに待った。
「あとね」
和哉が続ける。手の中の扇子を、膝の上にそっと置いた。
「……あれが初めてだったんだ」
「何がですか」
「お母さんがいないところで、自分が好きだって思えたもの」
和室が静かになった。
外の歓声が、やけに遠かった。
「おばあちゃんの家に行く時だけ、お母さんがいなかった。その時間に、好きなものを見つけた」
湊はすぐに何かを言わなかった。
先輩の声が、いつもより少し小さい。これ以上踏み込んだら、何か壊れてしまうような気がした。だから湊はただ、隣にいた。
しばらくして、和哉が少し息を吸った。それが話の終わりの合図だとわかって、湊は口を開く。
「先輩」
「うん」
「先輩が戻らないなら、俺もここにいます」
和哉が湊を見た。
「……なんで」
「だって先輩がいないと面白くないので」
「湊、応援団長でしょ。みんなが待ってる」
「先輩がいない体育祭より、先輩がいるここの方がいいです」
湊は少し笑いながら続けた。
「それに、言ったじゃないですか。『どんな所でも先輩を一人にさせません』って」
和哉の表情が変わった。困ったような、でも違う、もっと別の何かが混じっている顔だった。
(この子は、ほんとに……)
「そういうこと言わないで」
声に、少し力が入った。
「なんでですか」
「……僕のせいで湊が損することになる。それが嫌なんだ」
湊は和哉を正面から見た。
「先輩、俺の足を引っ張ってると思ってますか」
「……思ってる」
「引っ張られてないです」
湊はまっすぐに言った。
(いや、引っ張ってるよ。だって僕は、あの時——湊が周りから称賛を受けてる時、僕は……)
和哉は膝の上に置いた扇子を、物憂げな表情で見つめた。自分の心の中にあるものに、まだ名前がつけられないでいる。
「俺がここにいたいんです。先輩がいるから」
和哉が答えられないでいる。
嬉しい。それだけはわかった。でも受け取り方がわからない。自分の中に、こういう気持ちを置く場所がまだない——そう思っていたのに。
湊はそれでも、言葉にしなくても伝えてくれる。表情で、態度で、目で。
気づいているのだろうか。さっきから直接「好き」とは言っていないのに、それと同義の言葉を言い続けていることに。
涼香の声が、頭の中で聞こえた気がした。
『さっさと付き合えばいいじゃないですか』
和哉は少し俯いた。
でも今は、と思う。大学のこと。家のこと。お母さんのこと。何一つ決まっていない。何一つ、自分で選べていない。そんな自分が、湊の隣に立っていいのか。湊はまだ一年生で、先のことを何もわかっていない。巻き込みたくない。
でも。
嫌いになってほしくない。
嫌いになりたくない。
この時間を、終わりにしたくない。
だから。
和哉が顔を上げた。
「湊」
「はい」
「一個だけ、聞いてもいい」
湊が頷く。
和哉は少し息を吸ってから、湊の目を見た。眼鏡の奥のサファイアが、まっすぐ湊を見ている。
「待って、欲しいんだ、卒業まで」
「待つ? えっと……何を待てば……」
「つ、付き合うの」
湊の時間が、一瞬止まった。
「わかりました! 待ってますね、付き合うの——付き合う?!」
「う、うん。あ! 恋人としてね、どっか行くとかそういうのじゃないよ?」
「こいびっ——!!」
「えっとね、卒業までにいろいろ済ましたいこともあるし受験もあるんだけど、ずっとモヤモヤするのも良くないなって思ってね、それでね……」
「待って! 待ってください!」
「う、うん」
湊が両手で頭を抱えた。頭の中で何かが高速で回転しているのが、傍目にも伝わってくる。しばらくそのまま固まって、それから顔を上げた。目が真剣になっていた。
「えっとですね! えーっと……俺の気持ち、知ってたんですか」
和哉が少し目を丸くする。
「え」
「だって先輩の言い方、俺の気持ちを知ってる前提じゃないですか」
和哉が少し視線を逸らした。否定はしなかった。
「……なんとなく、は」
「なんとなく」
湊の声が、わずかに上ずった。
「いつからですか」
「中学の……夏頃、くらい」
湊が顔を伏せた。両手で顔を覆っている。耳まで真っ赤だった。それに俯いたことでつむじが見え和哉は場違いにも「可愛い」という感想が溢れそうになるのを、かろうじてこらえた。
「ずっと知ってたのに、何も言わなかったのは」
「自分の気持ちが、まだわからなかったから」
沈黙が落ちた。
湊が顔を上げないまま言う。
「……俺、ずっと隠してるつもりだったのにぃ」
声に、少しだけ情けなさが滲んでいた。
「ごめん」
「謝らないでください」
湊が顔を上げた。目が少し赤い。
「なんか、恥ずかしいですね。全部バレてたなんて」
乾いた笑いが漏れた。情けなさと、でも少し吹っ切れたような、そういう笑い方だった。
和哉はその顔を見ていた。
こういう顔をする人だ、と思った。泣きそうな時に笑う。恥ずかしい時に笑う。強がりなのか、本当に強いのか、よくわからない。でもその笑顔が、ずっと好きだった。
ずっと。
和哉は、自分の中でその言葉が転がるのを感じた。
ずっと、好きだった。
「湊」
「はい」
「僕も好きだよ」
湊が固まった。まるで石にされたように、ピシッと。
和哉は続けた。言葉が止まる前に全部言ってしまわないといけない気がした。勢いが止まると、また逃げてしまうから。
「恋愛的な意味で」
「…………」
「自分でも気づくのが遅くて、情けないんだけど。でも本当だから」
湊がしばらく、何も言わなかった。
和哉が心配になって湊を見ると、湊は口を半開きにしたまま固まっていた。瞬きもしていない。
「……湊?」
「あ、」
湊が我に返る。
「先輩」
「うん」
「それ、今言いますか」
「え」
「体育祭の最中に、茶道室で、すぐに付き合えないのに」
和哉が少し目を泳がせた。
「……タイミング、悪かった?」
湊が笑った。泣きそうな顔で、笑った。
全く困った人だ、と湊は思った。せっかくウルトラロマンチックな告白方法を考えていたのに、この人の前だとどうして計画通りにならないんだろう。本当に。
「最高のタイミングです」
和哉は少し息を吐いた。
でも、表情を引き締める。嬉しいだけじゃ、終われない。
「ただ……」
「はい」
「さっきも言ったけど、今すぐ付き合うのは、まだ無理で」
湊が頷く。続きを待つ。
「大学のこと、家のこと、ちゃんと自分で決めてから湊と一緒にいたい。今の自分じゃ、湊の隣に立てる気がしないから」
湊が少し考えてから言う。
「俺の隣に立つのに、条件があるんですか」
「……湊」
「俺は今の先輩の隣がいいです」
和哉が少し目を伏せた。
「僕が、嫌なんだ。何も決まってない自分が」
湊が黙る。
その声の重さは、どこから来ているのか。湊にはまだ全部はわからない。でも軽い言葉で返してはいけないことだけは、わかった。
しばらく、沈黙があった。
和哉が、また湊を見た。
「だから……卒業したら、付き合ってほしい。ちゃんと答えを出して、湊のところに行くから」
「……先輩って」
「うん」
「ずるいですよ」
「ずるい?」
「好きって言っておいて待ってって言うんですか」
和哉が少し笑った。
「……ごめん」
「謝らないでください」
湊が和哉を見た。目が赤い。でも泣かない。
「待ちます」
まっすぐな声だった。
「先輩が来てくれるなら、いくらでも」
和哉は何も言えなかった。
言葉が、見つからなかった。ありがとうでも、ごめんでも、足りない気がした。
だから代わりに、湊の手を取った。
湊が少し息を呑むのがわかった。
和哉は立ち上がった。湊の手を引いて、一緒に立ち上がらせる。
「行こう」
「……はい」
和哉が先に扉を開けた。
外の光が、和室に差し込んでくる。遠くから歓声が聞こえる。体育祭は、まだ続いていた。
繋いだ手のまま、二人は廊下へ出た。
イ草の香りが、背中で遠くなっていく。




