第76話 三日月と清算
記念すべき祭典の日。いつの日かのアリシアの時の事を思い出す。今日の空は少しばかり曇りで、記念日にしては見合わないだろうか。
「……あの日は天気どうだったかな」
奴隷商がいるのは端も端の席。ただ1人の見物人として、余所者として用意された席に押し込まれるだけ。そしてその手元には奴隷商が奴隷商として、当たり前にあるはずの奴隷はもういなかった
少しだけ時は戻り、奴隷商がプレヴァルの館に居た頃。最後の仕事だと、奴隷達の搬出作業に携わる。
「順番に上がっていけ。逃げても無駄だからな」
この薄暗く狭い地下に100人は優に超える奴隷が押し込まれている。どこにも空の牢は無く、奴隷商は顔色を少し悪くするが、淡々と自分の仕事をしていく。
「次。3番牢」
こんな子供を自由にさせてどうするのか。孤児院にでもいれるのか。その後の処理が分からない以上不安ではあるが、どうしようも出来ないと、使用人のダークエルフと連携して奴隷を上へ上へと上げていく。
「同胞と挨拶は良いのか?」
奴隷商が奴隷達を手招きしながら、隣の使用人に話しかける。以前も少しだけ気にしている様子を見せていたから、気を遣ったのだがその本人は表情を変えず。
「えぇ。挨拶は必要ないので」
案外淡白だなと思いつつも、奴隷商もそれ以降話しかけず任された仕事を続けていく。そうして最後の牢にいるのは、奴隷商にとって一番馴染のある奴隷達だった。
「……どうするんです」
赤みかがった髪で、眼鏡の奴隷のエリック。それは手首を鎖で結ばれ、こちらをジッと見上げて来る。今から自分がどうなるかという状況だというのに、こちらの事が気になるらしい。
「さぁな。適当に過ごすかな」
奴隷商はそう言って手に握ったそれをエリックの手のひらに押し込む。それは確かに重みがあり、エリックは掌を開き見ると、目を丸くしその後不快そうに目を細める。
「……同情ですか?」
だが、奴隷商は取り合うとせずエリックの背を押す。
「受け取っておけ。特別扱いだから言うなよ」
エリックはこちらを見ながらも、その手に握ったそれを服の中に隠す。そしてエリックに続いてレオンと……クロエがやってくる。
「おい。前を向け。転ぶぞ」
奴隷商がそう声をかけてもクロエは全く興味を示さない。ただ感情の抜けた顔で地面を見つめ反応を一切見せない。
「……」
奴隷商もどうすればいいか分からなかった。これを心が壊れてしまったのか、所謂心神喪失という奴なのか。それは専門家でもない奴隷商には判別しかねた。
だからそっとその背を押す事しか出来ず、何も言葉をかけてやる事が出来なかった。そうして奴隷達が地上に上がっていくと、地下には空っぽの牢だけが残る。
「じゃあ私達も行きましょうか」
そう使用人がランタンを手に持って階段を上がろうとしてしまうが、奴隷商の足はそれに続かない。それを不思議そうに振り返ってくる使用人。
「……どうしました?」
奴隷商は腰に掛けた鍵束を触り、申し訳ないと手を挙げる。
「少し待ってくれ。忘れ物だ」
それだけ残して、誰もいなくなり空っぽになった牢へと進む奴隷商。使用人は出口で待っているだけで、それに見送られ奴隷商は牢へと進む。
「……俺が最後なんだろうな」
見る人が見れば何もないみすぼらしい牢。だがその下には誰にも見られず、奴隷として死んでいった人間が眠っている。宗教が違う事は分かっているが、せめての祈りだと奴隷商は手を合わせる。
「こんな暗い所で申し訳ない」
そして目を開け無言のまま立ち上がる。もう次ここに来ることは無いだろう。それを分かりながらも、そこから背を向け静かに息を吐く。
「次。いつクラウディアの墓も行くかな」
そして出迎えるランタンの灯。ダークエルフの使用人が長い耳を動かす。
「満足しましたか」
奴隷商はその問いにすぐ答えず鍵束を使用人の手に返す。そしてすれ違いざまに階段の一段目を踏み込む。
「自己満足をな」
そうして奴隷商としての最後の仕事を終え、今はただ祭典が進んでいくのを傍観していくだけ。プレヴァルの演説を聞いてみると、どうやら本気で奴隷を解放するらしい。それこそコンラートの主である亡国の姫と現皇帝の婚姻となれば。
「……歴史が動いてるな」
傍観者でしかないがそう思うしかない。だがそんな奴隷商と違い、壇上にいるのは騎士らしい恰好をしたコンラート。そして現皇帝の母であるブランシュとその傍仕えのアルフレッド。
「……」
コンラートと目があった気がした。かなり距離があるから気のせいだとも思うが、目が合った瞬間明らかにコンラートが目を逸らし動揺したようだった。
「せっかく大好きな姫の傍にいれるんだからちゃんとしておけよ……」
そんな誰目線な事を呟きながら時間が経つのを待つ。そして次は奴隷の番だと、分かりやすく鎖に手首を繋がれ、みすぼらしいう姿をした彼ら彼女ら。それらが民衆の前に押し出される。
そして壇上にいるプレヴァルが声を張る。
「本日の主役はなんと言っても彼らだ。今からこの子らの首元が貴殿らと同じように産まれたままになった時にこそ。奴隷という身分がこの国から無くなる」
プレヴァルの仰々しい演説。そしてそれと同時に指を鳴らすと、衛兵が奴隷の鎖を外し、その首にあった赤い奴隷紋が薄く消えていく。
辺りから感嘆の声が漏れ出る。そして民衆の前にいた奴隷達は首元を見て歓声を上げ、それに続いて民衆の中からも歓声が広がっていく。
「……」
辺りは幸福感の溢れる光景。中には不服そうにする貴族や商人も見えるが、それも少数派。
だが奴隷商はその少数派でもあった。
「どうすんだよ。これ」
ただ不安を募らせる。だがそれを誰にも理解はされず、その日の祝典は終わり民衆も解散していく。その帰り際、今日の宿をどうしようかと考えている奴隷商に、ただ趣向なのかその首に紋を入れた老人が歩み寄る。
「主からの伝言を」
奴隷商は一瞬身構えるが、ここは人通りも多い事も相まって大丈夫かと落ち着く。そしてそんな奴隷商の様子を確かめたクロヴィスは、淡々と。
「貴殿の所有していた施設。返却するとの事だ」
どうやら今日の宿を探す理由は無くなったらしかった。まぁ奴隷が居なくなった以上無用の長物ではあるが、まさか返ってくるとは。
「え、えぇ……ありがたく……」
もらえる物は貰っておこう。わざわざ選別の金をくれるような奴だ、これぐらいしてもおかしくないとも考えれる。そしてそれだけが目的だったのかクロヴィスは。
「では。次会う事が無いのを願っています」
その目は冷たく奴隷商を睨む。余分な事をするなと言外に伝えていて、奴隷商の背筋も自然に伸びる。そして静かに頭だけ下げそれを返事として、その足音が消えていくのを待つ。
「……行ったか」
辺りは人もまばらになり日も暮れかけ。だが、飯屋が多い区画の空はまだ明るく、いつもより賑やかな気がする。
「俺も帰るか」
何かを食う気にはなれない。そう一人沈む日と反対に進もうとするが、ふと息を荒くし駆け寄ってくるその男。
「おいッ!奴隷商ッ!!」
その声に久々にうんざりする感覚を覚えながら振り返る。
「もう奴隷商じゃねぇよ」
まっさらになった掌の甲を見せびらかしてその男を見れば、やはり騎士コンラートだった。その服装は戦闘用ではない、装飾眩しいその鎧。だがそれとは対照的に暗いその顔。
「……あ……え……いや……っと」
自分から話しかけた癖に戸惑うコンラート。奴隷商はため息を零しながらも、催促するように。
「姫さんいんだろ。用があるなら早くしろ」
すると戸惑いながらもコンラートは意を決したように。
「あ、あの時はすま━━」
その言葉を聞いている途中でやはりなと思い、その謝罪は要らないと奴隷商は言葉を被せる。
「謝るなよ。お前が決めてそうしたんだろ」
コンラートは下げかけた頭を止め、どうしたら良いのか尋ねる様にこちらを見上げて来る。
「で、でも……俺は……」
この様子ではしばらく気にし続けていたのだろうと分かる。それをさせない為に裁判で自白したというのに、どこまでも理想と忠誠に挟まれ苦しみ続けているらしい。
「お前はこれから皇后の騎士なんだろ。迂闊に頭を下げると迷惑になるぞ」
奴隷商はそれだけ言ってさっさと背を向けようとする。だがコンラートは未だに納得いかないのか、その奴隷商の腕を掴む。それに呆れ渋々振り返るのだが。
「まだなにか━━」
そのコンラートの顔は困惑が残りながらも、強くこちらを見て来る。そして奴隷商の腕を強く握り締めたまま零す。
「だけど……謝らせてくれ」
そう言ってコンラートは深く頭を下げる。それを見て思わずため息を零すが、コンラートらしいかと奴隷商は苦笑する。
「……分かったから。早く頭を上げろ」
こういう所があるから恨み切れないのかもしれない。真っすぐで主君の為に殉じ続ける。その一貫性があるから、どこか清々しさも感じる。
そしてコンラートはゆっくりと頭を上げ、顔を伏せたまま言う。
「また……俺に償えるか分からない……けどなんかあったら頼ってくれ」
夕日が城壁の向こうへと落ち、辺りは暗く月と星だけが奴隷商らに影を僅かに作る。そして奴隷商の影は、そっとコンラートの影から離れる。
「おう。頼みにしてる」
これ以上コンラートの人生に関わる訳にいかない。奴隷商自身気にしていない過去の事で、いつまでも罪悪感を抱かれても困る。
だがそれでも奴隷商の背中越しには、鎧がこすれ合う音が聞こえ、地面にコンラートの影が伸びていた。
「……だから謝るなっての」
奴隷商は振り返る事をせず、そのまま静かに帰路に就くのだった。
ーーーーー
それからまた一週間。特段何か働く訳でも無く、何かをする訳でも無く無為に時間を過ごす。やった事と言えば、見ない内にボロボロになった施設の掃除をしたぐらいだろうか。
「……私物全部空っぽだしな」
奴隷商の書斎からは何もかも無くなっていた。念のためにと用意していた物や、普通に高価な物もあったから少しばかり残念だが。
「まぁ……な」
気にしても仕方ない。この施設が帰ってきただけでも御の字と思わねば。そう今日も時間が過ぎるのを待っていると、何かが壁を叩く音。
「……」
風かと思いそれを無視する。だがそれが続くので、椅子から立ち上がり窓の傍によれば、いつの日かの黒猫がこちらを見上げる。
「お前は生きてたんだな」
建付けの悪い窓を開け、その黒猫を持ち上げる。確か飼い主のレーナは売られたという話だが、流石に連れていくことは出来なかったらしい。
「……まぁ俺一人じゃこの家は広すぎるか」
窓を閉めてしまい、ゆっくりとその黒猫を撫でる。そのまま炊事場へと向かい、何か食わせる物はと探し、適当に餌を与えてやる。それにかぶりつく黒猫をぼーっと眺め、奴隷商は呟く。
「奴隷より良い物食ってるな。お前」
プレヴァルの館の地下で、奴隷商として働いていた事が遠く感じてしまう。それだけこの一週間何もなく時間がゆっくり流れていた。
「……中庭の整備でもするか」
そうして更に3週間。猫の世話をし家庭菜園をしてと、ほぼ老後のような生活を繰り返す日々。奴隷商自身外の惨状を見たくないから、出来るだけ外出を控えていたのもあった。
そして来訪者は定期的にやってくるらしく、施設の扉が弱々しく叩かれる。
「……また物乞いか」
ため息をこぼしながらもその音を無視するが、今日はやけにしつこい。ずっとそのノックは聞こえ、良い加減嫌になり仕方なく玄関へと赴く。
「飯はわたさないぞ……って」
そこにいるのはエリックとそれに肩を貸してもらっているクロエ。だが1人足りなく奴隷商は問いかける。
「エドガーの奴は」
だが返ってくるのはエリックの暗く悔しそうな顔。それで察してしまい、体から力が抜けるような感覚。
「……そうか。またか」
死に無頓着というより慣れてしまうのが恐ろしい。一瞬の罪悪感と喪失感こそあれ、取り乱さない自分が嫌になりそうだった。
そして奴隷商の感情は別にして、エリックがここに来たのは、その服を血まみれにしたクロエの件らしく。
「治癒魔法を……」
クロエは口から血を吐き出す。自慢だった髪は短くボサボサに、薄くなった体からは想像できないほどの量で、あたりの地面を赤く染める。
奴隷商は咄嗟に膝を折りクロエを抱える。
「エリック。お前は水汲んでこい」
そして奴隷商はすぐに治癒魔法を開始するが、それは内臓からの出血らしく。
「……ッチ」
表面の傷を治してもやはり、吐血は終わらない。だがそうなってしまえば、内臓からの物となるが、皮膚の上から内臓だけを治癒するなど奴隷商にはできなかった。
「イチかバチか」
奴隷商がナイフを抜き出しそれをクロエの胸に当てる。丁度エリックが水を汲んで戻ってきた所で、それを見て焦った様に水面を揺らす。
「え、ちょ、ちょっと!」
だがその言葉を無視して奴隷商はナイフを押し入れる。解剖の知識などあるはずも無いが、吐血すると言う事は胃か肺かのどちらかという事は分かる。ならば目に見える外傷を付けてしまえば、まとめて治せるのではと、あまりに力技で治そうとする。
「……すまん」
返り血を浴びてナイフを抜くと、すぐに掌に日暈を作り治癒魔法をかける。目の前にはズタズタになった胸元で、余計に血まみれになり息も今にも消えてしまいそうなクロエ。そしてその傷ごと塞がって行き、奴隷商の中にある魔力がごっそりと消えていく感覚を味わう。
そして表面上だけはまっさらに綺麗になるクロエ。その脈を確認するが、弱いながら僅かにある。だが目を開くことなく、その血まみれになった地面で起き上がる事はない。
「……とりあえず血を拭いて寝かせるぞ」
エリックにそう指示を出してクロエを施設の中に運ぶ。あまりに軽く、症状からしてなにかしらの病気に罹ったのは分かった。
「え、あ、はい……」
そんな戸惑うエリックを連れて部屋にクロエを寝かせる。出血の量からして危ないのは分かり切っているが、これ以上何もする事出来ない。あるとすれば被害を増やさないためで。
「部屋には入るなよ。移るかもしれん」
今更かもしれないがそうエリックに忠告だけし、その扉を閉める。そして奴隷商はエリックを見下ろして言う。
「暫く泊まっていけ。その様子だとまともな生活出来なかったんだろ」
エリックは沈黙と俯きで肯定する。かつて渡した金貨では三週間でも良く持った方だと思うが、外の状況からして職にすらありつけなかったのだろう。
柄では無いと思いつつ、奴隷商はそのエリックの泥まみれになった髪を撫でる。
「よく頑張ったな。見送る立場は良く分かる」
エリックが施設で時間を共にした奴隷は殆どが居なくなったか死んだ。それこそエリックからすれば、今クロエだけが僅かな仲間。その境遇にどこか同情してしまったが、エリックはそれを嫌がる事無く嗚咽する。
「……」
だが何も言い訳をしようとしない。ただ肩を揺らし木の床に染みを作るだけ。そして絞り出すように一言。
「……ありがとうございます」
18歳。この世界では十分成人の年齢。だがまだ社会に出るには経験も薄く、数多の人の死を背負うには若すぎる年齢。それでもこうやって耐えひたすらに生き残ってきた事、それをさせる社会を憎んでも、その生き様自体は褒められるべき事だ。
「今日は良く寝ろ。また明日何があったか聞く」
エリックはゆっくりと頷き、その日は泥の様に眠って行った。次の日にそのエリックから事情自体は聴いたが、やはり想像通り街には元奴隷が溢れ国が何かしている気配はない。それの影響はエリック達も例外では無く、路地裏での生活を余儀なくされ、エドガーは朝起きた時には冷たくなり、クロエは病気に罹っていたと。
「お前も1人か」
話を聞き終え奴隷商はそう呟く。元々斜に構えていたというか、少し孤立気味ではあったエリック。それこそ奴隷から解放された時、1人で金を持ち逃げして生きることも出来たはず。それなのにここまでして仲間を守ろうとして、結果失敗してきた。
「俺だけが生き残って……でも俺がやらなきゃ」
色々一人で苦しんでいたのだろう。それが分かるようにそう苦しそうに顔を歪めるエリック。だがそれを押してなお、エリックは仲間を気遣おうとする。
「それで……クロエは……治りそうですか」
答えてやりたい気持ちはある。だがそれを聞かれても奴隷商自身どうとも言えないのが実情だった。
「さぁ……俺にも分からん」
エリックは血色がよくなって清潔になったとしても、その顔色が晴れることはなかった。それは自分だけ生き残った罪悪感があるからなのだろう。
そこは自分で落としどころを付けさせるべき。そう奴隷商はそこには触れず、ただ同じように食事をし眠る日々をまた一週間続ける。だが、未だにクロエが目覚めることなく、食事を無理やり嚥下させるだけ。
「……医者に診せるか」
流石にここまで眠る理由が分からない。だからと、奴隷商は久々に外に出ることにする。そして玄関では見送るエリックに伝える。
「夜までには帰る」
エリックはゆっくりと頷く。それを横目に奴隷商は久々に施設周辺から離れ、街の姿を目の当たりにする。
「……クリスの望んだ結果がこれか」
当たり前のように放置された人だった物。それは多すぎて処理が追い付いていないのだろう。そしてその人だった物に混じる、生きているかも怪しい子供に老人。この辺りが元々貧困地区だったのもあるだろうが、それにしても酷い。
「……」
おそらく時間が経てば多少マシになるのだろう。段々と元奴隷が雇われていき、雇われない者は帝都から逃げ出すか死ぬか。そうして適正な人数になっていく。
「それが正しいやり方な訳ないが」
そう呟き馴染の医者の所へと向かおうとするが、自分がやけに懐かしい所を通っているのに気付く。建物に挟まれ、水路の通る路地裏。その傍には浮浪者が多く見え、ここもかとうんざりしそうになる。
そうしてその傍を歩いて行くが、ふとその橋の下。一度通り過ぎそうになったが、まさかと思いつつも、足を戻しつい視線を向けてしまう。
「……ッ」
ここからでは手足しか見えない。だがこの辺りでは珍しい黒髪が散らばっている。動悸が激しくなり、手足が震えるが、それを無視する事が出来ずその水路へと降りる。
「……まさかな」
空はやんわりと赤みを帯びている。そして反対側の空には水色の三日月が浮かんでいる。そして奴隷商の足は、その橋の下へと伸びる。
だがそれを見て、奴隷商の胃は大きく収縮する。
「……お前もか」
そっと膝を折る。そこにいる彼女は確かに見覚えのあるそれで、自分の周りからは、誰もかれも不幸になる運命なのかと思ってしまう。
「1人のまま……死んでいったのか」
震える手でそっとその水分を失った彼女の頬を触る。いつの日か泣いていた彼女を引き上げたこの水路で、もう引き上げれない彼女を撫でる。
「……ハンナ」
だがそうやって感情に浸るのすら許してもらえないのか、後ろから聞こえるその足音。それは近づき乱雑に、そして無遠慮に肩を掴んでくる。
ただただその男に苛立ってしまった。なぜこんなにも不幸な人間を作っておきながら、そんな態度でいられるのかと。
だからと、その男を殺しても構わないと強く睨む。
「考え無しのお前のせいだろうが。二度と顔を見せるな」
そう言った時。空は紫色に月は黄金色に輝き出していた。
ーーーーーー
コンラートが皇后の騎士となってからしばらくが経った。宮廷の作法にもやっと慣れつつあり、職務を全うできるようにもなった。だが、この所主であるシーナは2人っきりになると口癖のようにしきりに言う。
「私に付いてきてくれるよね?コンラートは?」
皇帝との婚姻の話が進むにつれ、縋る様にシーナは確認をしてくるようになった。そして毎回コンラートは同じように。
「大丈夫ですって。死ぬまでお傍にいますから」
おそらく一人になるのが怖いのだろう。そう思いつつも、主にこう言って貰えることに嬉しさを感じていたコンラート。
そしてその二人がいるのは、湖上の城にある塔の一番上の部屋。婚姻まではここで待機との事で、コンラートとシーナは時間を過ごしていた。
「それに私が裏切るとでも思ってるんです?」
奴隷商からの便りは未だない。毎日郵便は気にしているがただの一度も。そう窓の外にある対岸の街を横目に問いかける。すると、シーナはスッと前のめりになってコンラートを見上げて来る。
「思って無いけど……じゃあ生涯独身でいてくれる?」
正直危ない関係だというのはコンラート自身感じ始めていた。だがやはりコンラートは騎士という生き物。恩義と忠義がある以上背を背けるはずも無く。
「えぇ。勿論」
そう本心から満面の笑みで答える。紆余曲折はあったが、コンラート自身この日々が一番幸せだと思えるほどだったからだ。
やっと手に入れた2人の時間。主が害される事の無く、笑ってられる時間。そして自分が騎士として仕え続けられるこの時間。ただただコンラートの理想と言っても差し支えなかった。
だがいつの日かの様に。それは長く続くことはない。コンラートらの鼓膜に届かせる、辺りに響く鐘の音。そして遅れてやってくる悲鳴と剣戟の音。そして赤くなる空に立ち上る煙と炎。
コンラートはまた。その騎士としての資質を試されるのだった。
ここで5章は終わりです。
毎度毎度のことながらここまで読んで下さりありがとうございます。励みになっています。
次話更新は7月31日(金)にさせていただきます。面白いと思っていただけるよう書いていきますので、これからも読んでいただけると幸いです。




