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奴隷商の男  作者: ねこのけ
第五章
65/91

第65話 いつかに戻る

7月17日 投稿後誤字に気付いたので修正しました


 空気が重くのしかかる様な感覚。日光と共に降り落ちて来る雪結晶は、キラキラと舞う。誰もかれも緊張から呼吸が浅くなり、動けないまま視線だけはその一点に集まる。


「……ディアナ」


 元奴隷商はまだ痛む体を押して立ち上がる。すると呼びかけられたディアナは、引き留める様に腕を掴んでくると、強く警告してくる。


「……クラウディアじゃなくてアリシアだからね」


 ディアナはそう言いつつも、行かせてはくれるのかその握力を弱める。確かにディアナの言うように、普通に考えれば”それ”はアリシアなのだろう。だがアリシアと断言するにはその外見は一致しなかった。


「あれが俺の知っている奴なのかも怪しいがな」


 アリシアやクラウディアというには大人びていて、銀の髪には同じほどの麦色が混じる。それは水色の瞳に差し込む日光を反射させ、ぼーっとどこかを見上げ、表情を動かさない。


 ナイフの柄に手をあて、元奴隷商はゆっくりと距離を詰める。すると、傍にいたシエナがそれを止めようと、外套を掴み損ね地面に転がる。


「━━ッ……ラウラちゃん……私謝らないと……ッ」


 元奴隷商が振り返れば、シエナは悲痛な顔でコケを握りしめ藻掻き、その少女の元へと行こうとする。どうやらシエナには、あの少女がラウラに見えているらしい。


 だが近寄らせる訳にいかず、元奴隷商はディアナに視線を送る。


「……頼む」


 するとディアナは頷き、抵抗するシエナを抱え後ずさっていく。それを横目に元奴隷商は更に一歩踏み込むと、その少女の水色の瞳がギョロっとこちらを捉える。それに心拍が跳ねながらも、無理に声色を明るくさせる。


「……やぁ。お前は誰だ」


 ナイフを抜く。もしまた龍化するようならここで止めを刺さないといけない。


「……」


 しかし何か起こる訳でも無く流れる沈黙。少女は何も言わずに、水色の瞳でこちらを見つめて来るだけ。明らかに様子がおかしく嫌な予感がし、にわかに体に力が入る。


 だが突然。その少女は大きな瞳から涙を流す。それは日光を良く反射し、あまりに眩しかった。


「……?」


 元奴隷商が目を細め怪訝そうにするが、その少女の涙は止まる事を知らず溢れ出る。しかしその顔は真顔のままで、歪なその表情に恐怖心すら覚えそうになる。


 そしてその少女は自分の涙が分からないとでも言いたげに、必死にそれを手で拭う。だが、それでも溢れる涙で、その凍った表情は段々と雪解けするように感情がありありと浮かぶ。


「……あれ……わたし……」


 その弱々しい声。冷たく冷え切った空間に響く。そしてそれは聞き覚えのある物で、少しだけ安心を覚え元奴隷商は肩の力を抜く。


「……なんだ」


 少女から聞こえたのは、確かにアリシアの物だった。


 そしてそのアリシアの眼は、地面に落ちた血のこびりついたジャケットと、それに乗る一枚の黄色の花弁を捉える。それで酷く顔を怯えさせながらも、よろよろと足を震わせ、そのジャケットの傍で膝を折る。


「ちが……だって……なかなおりして……」


 あれはアリシアらしいと、元奴隷商は一旦警戒を解いてナイフをまた鞘に戻す。そして近寄ろうとすると、アリシアは感情が抑えきれないらしく、顔を手で覆って嗚咽する。


「なんで…………またいっしょに……」


 またどうにか慰めないといけない。そう元奴隷商が言葉を考える。だが何故か嗚咽し苦しそうだったその言葉が、尻すぼみに小さくなっていた。

 

 そしてその少女はピタリと嗚咽を辞め、石像のように動きを止めてしまう。突然のそんな硬直に、元奴隷商は伸ばしかけた手を止める。その指先の向こうにあった少女は、顔を覆っていた手を解き、ゆっくりとこちらを見上げていくる。


「━━ッ」


 元奴隷商は心臓が握られたような驚愕を味わう。そして正面に捉えた少女のその顔は、いつか見たような銀色の瞳で、愛らしい幼い顔立ちだった。


 そしてなにより。その声は元奴隷商の心拍をこれ以上ないほど早める。


「……リョータ?」


 その声が鼓膜に届くと同時に、体全体で血が湧き上がるような感覚。理解が及ばないながらも、元奴隷商はその声の名前を零す。


「……クラウディア」


 記憶にあるがままのクラウディアの顔と声。それで困惑はすぐに歓喜で塗り替えられ、元奴隷商の手はその長く艶やかな銀髪を撫でようと伸びる。


「……ここにいたんだ」


 ただそれしか見えなかった。思考も理性もかなぐり捨て、あの約束が正真正銘果たせると、その存在へと手を伸ばそうとするが、背後から響くその悲痛な声。


「そこにある墓は誰のッ!?」


 伸ばしかけたピクリと手が止まる。そして辺りには訪れる沈黙。


 クラウディアの目の前で止まった、その日光が降りかかる泥と傷だらけの指先。それをジッと眺め不思議そうな顔をし、元奴隷商に尋ねる。


「どうしたの……?」


 また元奴隷商の心臓を触るようなクラウディアの弱々しい声。それに返事が出来ないでいると、クラウディアは元奴隷商の視線を辿る様に、背後にあるそれを見る。


「……」


 そこには真新しい墓石と掘られたクラウディアという名前。それを見る少女の髪は光の当たり加減か、銀色一色に輝いているように見えた。


 そしてそっと髪を風に揺らしぽつりと呟く。


「……約束」


 少女のその言葉から感情の色は読み取れなかった。だが元奴隷商の止まった手は抑えが効かず、地面を蹴って転がる様に少女……クラウディアの肩を掴む。


「そうだ……!俺は約束を守る為に……ッ!」


 クラウディアをもう二度と離すまいと、しっかりと掴みその小さな体をこちらに向けさせる。


 だが元奴隷商の黒い瞳に写ったのは、少女と呼ぶには大人びた女の顔。


「……え」


 大人びた顔立ちにたれ目の麦色の瞳。髪色はまた麦色が大きく占めるようになる。掴んでいた体は心なしか大きくなっている気がする。


 そしてその少女は元奴隷商の顔を見るなり、嫌悪したような眼と表情をする。


「……は?なんであんたがここに……」


 その様子から声までも全てラウラの物で、そこにあったはずのクラウディアの痕跡が唐突に消える。元奴隷商はその変化に理解が追い付けず、その少女の肩を握ったまま震える。それを怪訝そうにしながらも、思い出したようにラウラは辺りを見渡す。


「あ、アリシアは……!」


 焦ったように首を回すが、血まみれになったジャケットを見て、また石像の様に固まり動かなくなる。そして何かを思い出したように呟く。


「……あぁ」


 そして今度はこと切れたように、力なく元奴隷商の胸元に倒れて来る。


 その時の少女の髪色は銀色と栗色の髪が混ざり合う。顔は比較的大人び誰かの様に見えて、誰のようにも見えない。ただそれが誰か分からず理解出来ず、元奴隷商は手を震わせる。


「……お前は……誰なんだ」


 そう呟くことしか出来ない。ただ手の内に抱えるそれが誰なのかも理解出来ず、差し込む日に顔を照らされ静かに眠るその少女を見下ろすのだった。


ーーーー


 元奴隷商はとりあえずその少女を背負い、ディアナとシエナを連れて地上を目指す。何があったか分からなくとも、あの場に長居するのは危険な事に変わりはなかったからだ。


「……」


 誰も何も言えずただ黙々と登っていく。元奴隷商の背中で心地よさそうに寝息を立てる少女が原因でしかないが、誰もそれに触れられないでいる。


 そんな中、意を決したようにディアナが元奴隷商の隣に並ぶ。


「その子。どうすんの」


 未だその問いに対する答えを用意できないでいた元奴隷商。そもそも彼女が誰なのかも分からない以上放置も出来ないが、だからと言って世話を見続ける訳にもいかない。


 そう迷う雰囲気を感じたのか、話に割り込むようにしてシエナは2人の前に立ち声を張る。


「私が連れてく!!私が責任をとらないと……ッ!」


 その小さな体躯は震えていた。顔は土と涙に汚れているというのに、それを忘れるぐらいに余裕が無かったのだろう。だが覚悟や努力があったとしても、元奴隷商のその返答に関しては決まっていた。


「……ダメだ。お前1人でも生きていけるか怪しいんだからな」


 元奴隷商は冷たい顔をしたまま、シエナの脇を通り抜け先に進んでしまう。もちろんそれで引き下がる程の物では無かったらしくシエナは追いすがる。


「でも……ッ!私のせいでこんなことに!」


 昔より喋れるようになっているのは成長なのだろうが、結局それだけ。体つきは未発達で冒険者として戦闘するにはあまりに不向き。


「それはお前の自己満足だ。こいつと一緒に心中したいなら別だが」


 元奴隷商は背負う少女を横目に言う。酷な言い方だがはっきり言ってやらないといけない。そう思ったからだ。


 だがそこで間に入る様ディアナが、シエナの背中を優しく撫でてやる。


「でも実際どうすんの。あんたも自己満足な事しようとしてんじゃないの」


 こちらを見透かしたように見上げてくるディアナの栗色の瞳。おおよそお見通しだったらしいと、元奴隷商は目を逸らしダメ元で言う。


「……こうなったら俺らが世話するしかないだろ。ある程度の年齢まで」


 元奴隷商にこの子供を放り出すだけの勇気は持てなかった。それは誰に言われずとも見知った顔が面影として浮かぶ彼女だったからこそ。


 だが、そんな元奴隷商を説得するようにディアナは言葉を続ける。

 

「あんたも追われる身なんだよ。子供と一緒にとか難しいの分かってんでしょ」


 思わずクラウディアと言ってしまいそうになるのを抑え、ディアナはその少女の名前に言及はしない。

 

 やはりと思いつつも、これぐらいしか出来ないと元奴隷商は、懇願するようにその琥珀の瞳を見る。


「ならお前がつれ━━」


 だがそれ以上言えなかった。言いかけた言葉を耳にした瞬間冷たくなるそのディアナの眼。それが拒絶の意志をありありと表していると、簡単に分かってしまった。昔この地下に居た時のような冷たい彼女のそれで、元奴隷商は苦い顔をする。


 そしてディアナは深くため息をする。それは面倒だと諦めるらしく、遣っていた気をどこかへとやってしまう。


「それがクラウディアかもしれないから?」


 乾ききって冷たく重いその声。それが細い細いこの薄暗い洞窟に響く。元奴隷商自身それを否定できず、顔を逸らしてしまう。


 だがそれを許さぬように、ディアナは元奴隷商の両頬を抑えまつ毛が当たりそうな程距離を詰める。


「現実を見ろ。クラウディアは死んでるんだよ」


 辺りがシンと静かになる。どこからか水滴が滴る。その音へと逃げるように、元奴隷商の視線は泳ぐ。


「……でもさっきは確かに」


 ディアナは元奴隷商の背中で未だ寝息を立てるそれを恨めしく睨み、更に続ける。


「アリシアやラウラにもなった。それがまともな生物じゃないのは考えれば分かるでしょ」


 元奴隷商は思考しないよう沈黙をする。背中にあるその暖かさを得体のしれない何かだと思いたくなかったからだ。


「……気のせいだろ」


 だがそれすら許さぬようにディアナはその推測を、半ば確信して言う。それが荒療治だと分かっていても、ここで元奴隷商が過去から解放される為だと語気を強くする。


「そいつ。食った人間の物真似してるだけなんじゃないのか」


 ディアナは冗談でもないでもないと、強く強くこちらを睨んでくる。どうにかそれを否定したくなる元奴隷商だが、ディアナに凄まれ適当な事を言えなくなる。


 そして更に言い訳の余地をなくすようにディアナは、元奴隷商をしっかりと離さず鼓膜へと言葉を届かせる。


「……クラウディアを喰って。で、多分アリシアってのも喰った子供の名前なんだろ。それで今度はラウラを喰ってその髪色になった」


 そう言いながらディアナの手は元奴隷商から離れ、迷いなく自身のナイフの柄を握る。


「え……お前……」


 元奴隷商はまさかと止めようとするが、ディアナはその抜き身の刀身をそのままランタンの灯に反射させる。


「殺すべきだ。次顔と声が奪われるのはアンタかもしれないし私かもしれない」


 元奴隷商の背中ではこの騒ぎにやっと意識が上がってきたのか、喉を鳴らすように声を漏らすその存在。


「……ん」


 元奴隷商は振り返る。その顔はやはり見覚えがある様でない。言われて見ればラウラやクラウディアにアリシアの顔の特徴が合わさったような、平均されたようにも見えなくもない。


「でもだからって……」


 殺すなんて出来るのか。元奴隷商自身これを殺す選択肢が取れる気がしなかった。だがその背中を押すように、ディアナはナイフを元奴隷商の首横を滑らせ、その少女の眼前に向ける。


「だってクラウディアの仇だよ。そいつ」


 頭の中が熱くなる。これ以上放っておいたらディアナが勝手に殺してしまいそうな勢い。それはあまりに不可逆で、でもそれを否定するだけの材料はない。だから元奴隷商は先延ばしするように膝を折り、その少女を壁に寝かせる。


「……一旦起きてから。話を聞いた上で判断しても良いか」


 それは確かに元奴隷商の弱さ。それこそディアナの言うように、クラウディアがそこにいるように感じられるせいで、全く踏ん切りが付かないからの行動。そして背後ではディアナが聞こえるように舌打ちをして、かすれた声で言う。


「何のためにここに来たんだよ」


 振り返ってディアナの顔を見る事が出来ない。援護してくれないかと情けなく、シエナを見るがディアナの明らか怒りの籠った雰囲気に気圧され、口を噤んで俯いてしまっている。


 元奴隷商は悔しさと多少の怒りが湧く感覚を覚えながら、そっとその少女から離れ立ち上がる。


「……だから少し待ってくれって言ってるだろ」


 ディアナはまた、ため息を零しナイフを抜いたまま壁にもたれ掛かる。返事は無く目を瞑っているのは、一応元奴隷商の要望を受け入れてくれるらしい。元奴隷商は気まずくなりながらも、シエナを見て言う。


「シエナは休んでおけ。この子には近寄るなよ」


 コクっと小さく頷いて少し下がって体育座りをしジッと蹲る。視線はチラチラとその少女へと向くが、何かアクションをする訳でもない。


 誰も何も言わず視線すら合わない重苦しい空気が流れる。元奴隷商はどうにかディアナに分かってもらおうと言葉を考えるが、どうしてもそれが出てこない。


 そうして時間だけが流れていき、その少女はやっと長い銀色のまつ毛を上げる。


「……」

 

 この場の全員の視線がその少女へと集まる。ある者は敵意を、ある者は怯えを、そしてある者は定まらない感情を向ける。それらを一身に受けた少女は、周りを見渡すと怪訝そうにして眉を曲げる。


「……え。誰ですか貴方達」

 

 それは誰の声でも無かった。低く落ち着いたような強いて言えばラウラにも近いが、それよりも大人びているよう。見た目も変わらず銀色と麦色の髪が互いに混じり合い、顔立ちもそれなりに成人に近い。


 そう様子を確かめ一歩を踏み出せない元奴隷商の代わりに、ディアナが乱暴な足音で間に入り、その少女を見下ろす。


「まず自分が名乗ってからじゃないか?」


 そんなディアナを元奴隷商は止めようと手を伸ばすが、すぐに睨まれ引っ込めさせざる負えない。そしてその少女は、当たり前に答えれる事だと、その名を言おうとするのだが。


「そりゃ名前って……アリ……違う………ラウ……?んん……?あれ…………?」


 要領の得ない様にぼそぼそとした呟きは、尻すぼみに小さくなり、結局何も答えれないのか沈黙してしまう。そして酷く困惑したようにディアナを見上げる。


「……貴女私の名前知ってる?」


 ディアナはそれが演技かどうか悩む。人の見た目を真似れるバケモノなら、それぐらいしてもおかしくないからだと考えていたからだ。だからと探る様に返す。


「今言いかけた名前なんじゃないのか」


 ぼそぼそと聞こえずらかったが、最初はアリシアと言いかけたのはディアナにも聞こえていた。そこがわざとらしく感じたから聞くのだが、その少女は困り顔のまま。


「いや…‥‥なんか……違うというか……モヤがかかるというか……あれ……てか私なんて名前言いかけたんだっけ……?」


 ディアナはどうするのかと言いたげに元奴隷商に振り返る。その手にはまだしっかりと抜身のナイフが握られている。元奴隷商は迷いながらも、その手を掴みディアナに並んで少女を見下ろす。


「……記憶はあるのか」


 名前を覚えてないのに聞く意味があるのかと思ってしまうが、僅かな可能性に賭け聞いてみる。だが、その少女は相変わらず要領の得ない返答ばかりで。


「……あるような……ないような……?」


 もしかしたら。ディアナの言うように食った人間の外見や見た目を真似れるのだとしたら。この子の本当の姿はなんなのだろう。そして食った人間を返してもらう事は出来るのだろうか。ならば殺さない選択肢もあるのではと。


 だがディアナの結論は変わらないのか、元奴隷商の握ったその手を振りほどく。


「……分からないならやるべき」


 アリシアの時とほぼ同じ。ならまた龍化する可能性もある。それに既に三人は食ってる可能性がある。だからこの子を処分するのが安全策。それぐらいは分かっている。


「だけど……っ」


 本当にこの子に記憶が無いのなら、それはただの殺人ではないのか。なにも罪のない子供を殺すのが正しい事なのか。普段の自分なら決断できそうなことでも、その見た目のせいで踏ん切りがつけれない。


 だが、そう悩んでいても、ディアナの言うようにクラウディアの仇である可能性は高いのは分かっていた。それは恐らくラウラやアリシアに関しても。感情とは別にそれを理解してしまうこの思考が憎らしい。


「……ッ」


 元奴隷商は理屈だけで、感情をどうにか抑え込み懐のナイフを抜こうとする。だがそれは力が入らず、カタカタと刀身を揺らすだけ。それを見て代わりにとディアナは、ナイフを持ち直し構えようとする。


 だがそこで元奴隷商の震えからか、ボロボロになった外套から、その石が転がり落ちカラカラと回る。


 すると、それを目で追った少女はゆっくりと手を伸ばす。


「……あ、この石」


 その手に握ったのは薄く板の様に伸びた円形の石。それを指を絡ませじっと見つめると、こちらを見上げて問いかけてくる。


「……川とか無い?」


 その面影に元奴隷商はナイフの柄から手を外し、ディアナの手首を掴む。ディアナが睨んでくるが、元奴隷商の顔を見ると、迷いまた色の違う諦めに近いため息を零す。


「……相変わらず甘い奴。また私がこうやって折れないとけない」


 ディアナはナイフを下ろして鞘に仕舞う。そんな突然の妥協に戸惑う元奴隷商を置いて、胸元をまさぐるとある紙を取り出す。


「国外に出るためにアンタの身分を作ったんだけど。こんな使い方になるなんて」


 その手渡された紙を見ると、それはひどく懐かしい物。ただ一度しか見たことなく、もう縁のないと思っていたもの。


「なんでこれを……」


 するとディアナは肩をすぼめ軽く微笑む。まるで仕方ないと子供の我儘を聞くようだった。


「馴染んた職の方がボロが出ないと思ってな。プレヴァルの所からかっぱらってきた」


 その紙の上部には確かに任命書とかかれ、誓約文の下にはプレヴァルの押印がある。


「それでこいつをアンタの所有物にするなら良い。それなら下手に暴れれないだろうし」


 ディアナの白い指は元奴隷商の手にある書類の署名欄を指差す。仕方ないと不承不承という雰囲気だが、そう言ってくれる。


 そしてそれに署名をすれば、元奴隷商が何に任命され、またそれの名で呼ばれるようになるのか。震える手に魔力を込め、その署名欄を撫でる。


「……また俺は奴隷商になるのか」


 元奴隷商の手の甲にはまた紋が浮かび上がり、その少女の首には赤い紋がまた刻まれるのだった。

 

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