第55話 君と魔法
ランタンだけがカラカラと腰で鳴り、疎らに辺りの岩壁を照らす。そしてそこに写る走る影は息も絶え絶えに、なんとか手に抱えた少女を落とさないよう歯を食いしばる。
「クソッ!!いつまでついてくんだよッ!!」
後ろからは体を壁に擦り天井を崩しながらも追いかけて来る大蛇の牙と長い舌だった。どんな脇道に入っても視界から逃れても、いつまで経ってもその大蛇の大きく開かれた薄ピンクの口内は背後にある。それを覗き込むよう、クラウディアは亮太の外套を強く握り首を伸ばす。
「あれ匂いで追いかけてきて来てるんじゃ……」
そんな呟きに亮太は近くの地底湖を視界に入れ声を張る。
「ほんと!?」
すると何か尖がった岩に刺さったらしく、背後では大蛇が甲高い叫び声を上げる。振り返れば片目に鍾乳石らしきものが刺さり赤い血を流している。それを幸運に思いつつも、クラウディアは亮太の言葉に頷く。
「たぶん。大蛇は鼻が良いから匂い付けて避けれるってクリス君が……」
そんな物があるなら早く出してくれ。そう言いかけるが亮太もすぐに察しがつき、気まずそうにクラウディアを見る。
「もしかしてあの鞄……?」
コクっとクラウディアが申し訳なさそうに頷く。あの時もう少し落ち着いていたらと、そう後悔してしまいそうになるが、今はそんな暇では無いととにかく足を動かす。
「辺りに鞄無いか見ててッ!!」
戻る道を覚えているわけない。そもそも今どこに居るかも分からないのだ。だからとにかく大蛇から距離を置いて逃げながらそれを探すしかない。だが大蛇も怪我をしたとはいえ諦めてくれる訳なく、片目から血を流しながらもまたこちらを捉え追いかけて来る。
「無い……どこにもない」
ランタンの灯では限界がある。亮太も辺りを見渡すがどこにも鞄は見当たらない。それでも走って走って探し続ける。だが今走っているのは全く見覚えのない場所。鞄から遠ざかってしまっているのではと思ってしまう。
そんな中クラウディアは胸元でか細く言う。
「私が……囮になる」
するとそれと同時に大蛇が大きく首を伸ばして、こちらの足元目掛けて牙を立てる。それは地面を抉り土煙を上げながらやって来て、半ば山勘で亮太は左側へと転がる。亮太は体全身を岩肌に擦り痛めるがクラウディアだけはずっと抱え、すぐに体勢を戻して胸元へと声を張る。
「絶対にやらないからな!!そんな事ッ!!」
そうクラウディアの献身を却下してすぐに走り出す。すぐそこではむくっと頭を上げて、ランタンの灯を疎らに反射する土煙から、覗くようにこちらを見つめる水色の眼球。それは間違いなく捉え、逃げる獲物を離さない。それで咄嗟に逃げ込んだ先は、蓮状に広がる小さな水溜まりがいくつもある空間。どれも底は浅いが起伏があり足が取られる。
「……鞄は」
視界が広がってもどこにも鞄は見えない。そもそもランタンの灯も限界があり、奥まではしっかりと探す事は出来ない。それでも見つけねばどうにもならないと、足元を水に濡らして走るのだが、背後で聞こえる大きく水の弾ける音と何かが崩れる音。
そして亮太に提案を却下され、何かを考え込んでいたクラウディア。それは亮太の腕からするりと抜けて、その小さな体を水浸しにしてしまう。
「ちょっと何して━━」
この時の亮太は自分が力を抜いてしまって、クラウディアを落としてしまったと思い込んでいた。だからすぐに抱え直してまた逃げようとするのだが、クラウディアはそっとナイフを抜く。
「私は奴隷だから。ここで死んでも誰も悲しまない」
酷く冷たい声。これまでの子供らしいクラウディアでは無い何か諦めたような雰囲気を漂わせる。だが亮太からすれば奴隷がどうのなんて知った事では無く、ただ1人の子供を置いて逃げるには、あまりに罪悪感が大きすぎる。そう亮太はクラウディアの肩を叩いて下げさせる。
「奴隷だろうがなんだろうか子供は守られるべき存在だと……俺は思うから。そんな物騒なの持ってちゃダメだ」
ポカンとこちら見上げて来るクラウディア。そしてそんな彼女の震える手からナイフを取り上げてしまう。
「……なんで」
なんで分かってくれないのか、そう問われている気がした。だがそんな2人に会話をする時間は残されていないらしく、その大蛇が水の上を滑り、体を起こしてこちらを見下ろしてくる。影になる2人で、今逃げ出しても間に合わないと悟る。
「ずっと一緒だって言ったでしょ。なら死ぬ時も一緒だよ」
不格好にナイフを構える。たかだか数年剣道をやっていたぐらいで才能も無く惰性で続けていただけ。それに加えて、大蛇と対峙する方法など教わっている訳ない。
だがそれでも震える足と手を抑えて見栄だけで強く踏ん張る。そしてクラウディアを後ろに少しだけのお願いをする。
「でもちょっとだけ手伝って欲しい」
出来るだけクラウディアが危険にならないよう、それであの大蛇と相打ちになれるかもしれない作戦。と言っても思い付きでしかないが、これぐらいしか経験の浅い俺では考えつかない。
そしてそれを端的に伝えるとクラウディアは、迷い口を開いては閉じる。だが迫る大蛇にチラリと視線をやると、こうしている時間が無いと気付く。
「……ずっと一緒だからね」
そう言ってクラウディアは顔を伏せ水面を蹴って走り去っていく。その小さな背中を見送り亮太はカチャカチャと震えるナイフをもう片手で抑え、息をゆっくりと吸う。
「これで最悪クラウディアは逃げれる」
予防策は張ったと亮太は水を蹴り体を沈める。水色に輝く大蛇は体をうねらせ、その牙をこちらに突き刺さんと向かて来る。一度の瞬きで死んでしまいそうな勢い、咄嗟に体を捻り横っ飛びする。するとさっきまでいた場所を大蛇の顎が水と地面ごとかき上げ、その勢いで出来た風圧が空中に浮いた亮太の背中を押す。そのせいで思った以上に体が飛ばされ、岩壁に背中を打ち付けられる。
「━━ンガッ」
パラパラと石ころが落ち、眩暈と血反吐が襲う。それでも休む暇を与えないと、あんぐりとあけた口と細長い舌がこちらに向く。
「蛇とか小さくても怖いってのに……」
体のあちこちが痛くて息をするだけでも激痛がある。それでも迫る死の実感から逃げるように足を動かす。クラウディアを横目に確認するが、ちゃんと物陰に隠れこちらの様子を伺っている。
「……あとは場所さえあれば」
天井をしきりに見る。この辺りは鍾乳石が垂れ比較的天井が低い。作戦と言ってもこの天井を魔法で崩して大蛇を押しつぶしてしまおうと言う物。クラウディアの魔法が頼りではあるが、囮を俺がすれば危ないのは1人だけで済む。
そう思い付きの作戦を達成するために、辺りの様子を確かめながらも岩柱を回り攪乱して、大蛇から逃げる。
「ほらほらこっちだ」
大蛇の巨躯が岩柱に絡みつきながらも、亮太を食い殺さんとこちらを追いかけて来る。全長で言ったらどれだけ長いのかと思うが、とにかく辺りの様子を視界に場所を探し、クラウディアの安全を確かめる。
だが、そんな注意が散漫していては、一番警戒すべきそれを見逃してしまう。ふと振り返った時にはすぐ眼前に真っ白に伸びた牙がある。
「……あ」
視界に広がる薄ピンク色の大口。なんだかんだ避け切れると思っていたが、そんな甘い事は無かった。ナイフを咄嗟に構えるがそれも意味なく、その牙の切先が肩に触れ肌を食い込んでいく。
直感的に感じる死
吹き上がる自身の血しぶきを見てゆっくりとなる視界でそんな事を感じてしまう。だが、ふと僅かに残った薄ピンク以外の視界には、小さな手のひらを向けるクラウディアの姿。
「……ッ」
辞めさせようと声を張ろうとするが、遅れてやってくる痛みに脳が警鐘を鳴らす。そしてクラウディアの手のひらから放たれたその石柱は、空気を切り裂き一直線にこちらに向かってくる。それは亮太の肩に牙が食い込み切るまでに、大蛇の首裏を大きくえぐる。そして大きく血しぶきが上がるのが見え、肩からは牙が抜け大蛇の叫び声を目の前から浴びる。
「……っるさ」
鼓膜が破れるかと思う程の音圧と甲高さ。そのまま亮太は水面に力なくへたり込むが、目の前では痛みに耐えるように頭を振り回し擦る大蛇の姿。それもやがて辺りの水面を赤く染めた事で大人しくなるが、未だ水面はその大蛇の吐息で揺れる。
だからと巻き込まれないよう肩を抑えつつナイフを構えて後ずさるのだが、そこに駆け寄る小さな足音。
「リョータ!!」
それは大蛇を一瞥もせず涙目になってこちらに駆け寄ってくる。だが亮太の視界には確かに見開かれた大蛇の細長い瞳が見える。
「来るなッ!!!!」
目いっぱい叫ぶ。だがその意図が伝わらないのか、クラウディアはそこで足を止めて不思議そうに眉を曲げてしまう。
「……え?だって倒したじゃん……?」
大蛇もバカじゃない。自分を傷つけた奴が誰かぐらい分かっている。その細い爬虫類の眼はクラウディアを捉える。その首は半分がどこかへ行き今にも千切れそうだが、大蛇の口は唖然とするクラウディアを飲みこもうと大きく開く。
「━━あぁなんでこうッ」
血が流れ過ぎて意識は朦朧としている。今すぐにでも眠ってしまいたいが、それでも必死に足を動かし、飛び跳ねそのクラウディアの小さな体を押す。そこでクラウディアの銀色の瞳がこちらを見るが、未だ状況が分からないらしい。ただ突然の事に喜びが抜けきれず恐怖や困惑が混じった顔をしている。
「あれ……え……リョータ……?」
そんな彼女を思いっきり突き飛ばす。それを拒もうとクラウディアがこちらをに手を伸ばそうとするが、大蛇の口からは逃れる事が出来る。そして亮太の体には生暖かい吐息が包み、腹には牙の鋭さが襲う。視界には尻餅を付くクラウディア。それはすぐに大蛇の口に覆われて何も見えなくなってしまった。
「━━ッア゛ァ゛!!」
大蛇の口からは手足だけが飛び出しくぐもった叫びが聞こえる。それを何も出来ずに小さな手足を震わせるクラウディア。
「え、あ、え………なんで……だって……」
あんな首を抉ったのに未だ生きている。そして今はリョータを飲みこもうと口を動かし、段々とその手足が口の奥へと消えようとしている。
「ちがっ………ちがうって……私のせいじゃ……」
そうしている内に亮太のいた痕跡は全て大蛇の口の中に消えてしまう。それは酷く弱っているようだが、それでもそのままこちらを見向きもせず去ろうとする。それはクラウディアにとって耐えられる物では無く、残った魔力を込めて手のひらに石塊を浮かべる。
「……返して」
尻餅を付き震えた声と共に歪に成形された石塊。それはどんどんと送り込まれる魔力に大きくなり、自分の体の大きさを超える。すると大蛇は避けようともせずこちらを見て逆に襲い掛かろうとするのか、のそりと動き出す。
「……私のだからっ!!」
見下ろしてくるその大蛇。まるで撃ってこいと言わんばかりの態度。それを感じる余裕はクラウディアには無く、ただただ感情に身を任せて髪の毛を逆立てる。
「返してよッ!!」
だがその石塊は砕け宙に舞ってパラパラと落ちる。魔力を込めすぎて石塊自身が圧に耐えきれなかったのだ。これによってクラウディアの魔力は空になり、それをただ見上げ脱力したようにその場にへたり込む。
「……え」
状況が理解出来なかった。だがそんな彼女を放っておく大蛇では無く、ジリジリとその距離を近づけて来る。それから逃げようと水面を揺らし、手足をばたつかせるクラウディア。
「……やめてっ……こないで……ッ」
近づく大蛇の鼻先。それは臭いを嗅ぐようにゆっくりと迫ってくる。
「いやっ………いやぁ……!!」
必死に足を動かして水を蹴る。だがそれも意味も無く蛇の生臭い吐息が届く距離まで届く。ただただ涙に何もかも溢れ、恐怖だけで手足をばたつかせるが大蛇に何かする事が出来ない。
「こないで……っ」
大蛇が口を開こうとゆっくりと上あごが開く。唾液が糸を引き生臭ささがクラウディアを包む。それを唖然と見上げる事しか出来ず、クラウディアは声がか細くなる。
「……ごめんなさい……私のせいで」
クラウディアが最後に選んだ言葉は懇願でも後悔でも無く謝罪だった。自分がはぐれたせいで迷惑をかけたパーティ。そして自分の不注意のせいで殺してしまったリョータ。ただただ胸が苦しくなりながら、その広がる真っ暗な口を見るしか出来ない。
出来なかったのだが、ふとその口の中に煌めく銀色の反射。
「……え」
こちらを見下ろしていた大蛇の眼が白目を剥く。そして開かれかけた上あごを腕で抑え出てて来るのは、ナイフを片手に血まみれになったリョータだった。
「食われるかと思ったよ」
そうボロボロに笑いながら大蛇の口から出て来る彼。大蛇の口内はナイフで斬り刻まれズタズタに血を流す。だがそんな事クラウディアにとってはどうでもよく、出てきたリョータに必死に腕を伸ばす。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
手を伸ばして届かない。そしてその両手は10数センチほどの水面に浸かり、頭を下げて呪文のように謝罪を繰り返す。それを血まみれに今にも倒れそうになる亮太が、大蛇の口から出て来て優しく抱き寄せる。
「良かった……無事で……」
それだけ言葉を残し俺は安堵と共に、プツリと意識を落としてしまうのだった。
ーーーーー
腹と肩に広がるじんわりと温かい感覚に、 ふと目が覚める。視界の右半分は水に埋まり左半分は薄暗い石壁が広がる。そして意識が覚めると同時に全身にある痛みを思い出し、起き上がるのだが。
「……クラウディアか」
腹と肩にああるはずの牙の切り傷は消えている。他の小さな傷はまだ残っているが、致命傷だけはあんな様子でも治してくれたらしい。だが全身の痛みと自分のいた水面にじんわりと広がる血。そして見上げた所にある大蛇の死骸と、壁に突き刺さる石柱。
「こんな小さな子が━━」
そこには蹲るクラウディア。その背中にはどこから落ちたのか鋭い石片が突き刺さり、今もなお赤い血が辺りの水面へと流れ出る。それを見た瞬間に自身の痛みなど忘れ、クラウディアに駆け寄る。
「だ、大丈夫!?今どうにか……!!」
ベトッと手に張り付く血液。未だ心拍は動いているが呼吸は酷く浅く顔色も真っ青になってしまっている。そして亮太の手には何もない。消毒液も包帯も何もない。
それになにより。
「なんで自分を優先して治さないんだよッ」
自分の怪我を治さずになぜこっちの治療を優先したのか。ただただ怒りが湧いてくるが、それは誰に向く訳でもない。今はクラウディアを治せないかとあたふたとしてしまう。
「……これ抜いたらダメだし……じゃあどうやって……」
この石片を下手に抜いたら出血多量になってしまうかもしれない。でも放置し続けても血は流れ出るし、感染症の可能性だってある。だがそう考え続けている内にも、クラウディアの顔はどんどんと色を無くしていく。
「どうすれば……」
ひたすらに焦ってしまう。無事でよかったと安堵する暇など無く、どうしようか思考を巡らすが何も思いつかない。
「俺だけ生き残ったって仕方ないだろッ」
ポケットを漁って何か無いか探すが、使えそうなものは何もない。その事実が精神を追い詰めるが、ふと自分の手のひらを見る。
「……確か」
自分には魔力があるという話。そしてこの世界には治癒魔法が存在するという事実。出来る自信などある訳がないが、それしか掴める藁は無かった。そしてクラウディアに刺さる石片握る。
「……これしか」
決意がいる。これを抜いたらもう後戻りはできない。自分がクラウディアの死を早める選択をしようとしているかもしれない。
だがこれしか治す方法は思いつかない。そう決意を後回しにするように目を瞑って思いっきりその石片を引き抜く。
「……ッ」
薄目で見たクラウディアの顔が苦悶に満ちる。意識は無くとも痛みは確実に体を蝕んでいる。そしてそれを表すように血がドロッと患部から流れ出る。そこで咄嗟に手をかざして力を込めるのだが。
「どうにかなれよ!!」
二の腕の筋肉が強張るだけ。何もできないままクラウディアの背中にぽっかりと空いた傷口から血が流れ出るばかり。そこに自分の傷から垂れる血も混ざり、辺りの水面は水色を失ってしまう。
「どうにかなってくれよ……」
必死に手をかざしているのがバカらしく感じてしまう。それでもこんなことしか出来ないと、手をかざし続けるしかない。
「こういう時都合良くいくもんだろがッ!!」
そう怒っても何も現状は変わらず、ただ赤く染まった水面が揺れるだけ。クラウディアの薄くなっていく顔色に比例するように亮太の心拍も早く、焦りが大きくなっていく。
そんな中ふと昨日の記憶がよみがえる。
「掌の真ん中に力を込めて……想像するんだっけか」
あまりあてにしてなかったクラウディアの言葉。それを辿り、自分の肩に感じた温かさを思い出す。そしてなんとなく破けた皮膚が接合されるような、元々の綺麗な肌を想像するよう目を瞑る。
「頼む頼む頼む」
目を瞑ると言うより瞼を押し付けるような感覚。ひたすらに想像を繰り返して、手のひらの真ん中に力を込める。
だが何かがすぐに起きる訳がない。ただただ目を瞑って手をかざしているだけで、水面は流れる血液に揺れ続けるだけ。
「……この子だけでも」
すると、何か手のひらに暖かい感覚が広がる。それを勘違いだと思うにはあまりに暖かく、いつの間にかその暖かさに集中するように息を止める。
その実感に歯を食いしばりこの暖かさを見失わないよう呟く。
「絶対に死なせない」
そして決意を込めて目を開く。すると明順応のせいか最初は白く視界が眩しい。だがすぐに慣れれば、淡い緑色の日暈が何重にも積み重なり、クラウディアの小さな背中を覆う。
「……あぁ」
そしてなによりあのグロテスクだったクラウディアの傷は、いつの間にかその真っ白な肌の裏に隠れてしまっている。それは何よりも求めた光景でまさかと嬉しさよりも驚愕が勝ってしまう。
「やった……」
段々と嬉しさが湧いてくる。だが、それと同時に湧き上がるのは鼻下にある暖かさ。それを撫でれば赤く指紋を浮かび上がらせる。
「あれ」
どうやらそれは鼻血というものらしかった。そしてそれを認識すると同時に視界が大きく歪んで揺れる。湧き上がる吐き気に掻き消える淡い緑色の日暈。パシャンという音と共にまた視界の半分を水面に埋めてしまう。
だがそれでも俺は最後まで微笑む事が出来た。なぜなら。
「良かった」
目の前では目を開いてこちらに何か呼びかけるクラウディアの姿。その柔らかい頬に震える手を当て、ただひたすらに意識が落ちる最後まで安堵が出来たからだった。




