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奴隷商の男  作者: ねこのけ
第三章
44/48

第44話 遠く届かない


 奴隷商は昼食を作る為、今日買い出しに集めた紙袋を開き食材を取り出す。この所かなり食事が質素になり、奴隷達の反発が強かった。


 だからこそ少しだけ良い飯にしようと、魚に干し肉、野菜を取り出す。


「あ、そうだこれは猫か」


 砂まみれの肉串を思い出し、それを取り分ける。あとで黒猫にやって処理をさせよう。そして次はとネギ類の野菜を取り出すと、ふと入り口に気配がある。


「あ、あのだな……ちょっと頼みが……」

 

 コンラートが眉を曲げながらこちらを見ていた。だが奴隷商は一瞥すらせず、野菜を水で一杯になった桶へと入れる。


「無理だ。諦めろ」


 端的にそう伝えてやり野菜一つ一つを洗う。だがそう簡単に引く男ではなく、コンラートは奴隷商の肩を叩く。


「要件だけでも聞いてから……」


 どうせコンラートのお願いなど面倒なものに違いない。そう思いつつも奴隷商は、ため息と共に振り返る。


「じゃあ言ってみろ」


 すると自分から絡んできたくせに、あたふたと何を言おうか迷いだすコンラート。それに呆れてまた作業に戻ろうとすると、コンラートは焦りどうにか要件を伝える。


「あ、えっと……あっ!飯と薬が欲しくて……」


 案外普通の要求で奴隷商は呆気にとられる。姫と会わせろだとか鎧を買い戻せとか、そんな辺りの要求だとばかり考えていたから余計にだった。


 ただだからと言ってその要求を受け入れるかどうかは別で。


「飯は今日から多少マシになる。薬は誰か病気に罹ったのか?」


 するとまた何を言うのか決めてなかったのかコンラートは混乱し、天井を見上げて目を回しながらも、なんとか答える。


「えっ……とぉ……あー最近俺が調子悪くて……子供たちに移すとあれだろ……?だからさ」


 バカは風邪を引かないと思っていたがどうやら違うらしい。どうりで様子がおかしいと納得できると、奴隷商は紙袋から粉末状のそれを取り出す。


「熱があるならこれ。咳ならこれ。あと腹痛ならこれだな」


 するとコンラートは迷いなく発熱用の薬を手に取る。そしてこれでは飽き足りずまだ要求をしてくる。


「飯も……いいか?」


 風邪の時に食欲が増す奴がいるのかと思いつつも、いつまでも病気になられては困る。それに悪化すれば命に関わる事もある。今日は運が良く少し機嫌のいい奴隷商は、気前が良かった。


「分かった分かった。やるから部屋に安静にしておけ」


 奴隷商は口元を多い汚いものを見るようにコンラートを追い払う。それでなぜか不服そうにされるが、要求が通ったからなのか大人しく炊事場を後にするコンラート。


「……あいつも風邪引くんだな」


 そうボソッと呟き奴隷商は調理に戻る。ただ凝った物を作る訳でも無く、とりあえず野菜を一口大に切り分けていく。


 トントンと包丁が切り分け奴隷商の肩が揺れる。責任追及も終わりこの所の不安要素も消え、どこか晴れ晴れとした気分。思わず鼻歌が漏れる。


「~♪」


 こういう単純作業をしていると普段の思考を占める悩み事も、自分を責める思考もどこかへと消えてくれる。この時だけは少しだけ気が楽なる。


 だが、ふと背後にある気配。それはまな板から落ちかけた人参を拾う。


「機嫌良いじゃん」


 振り返れば先ほどまで1人木刀を振るっていたハンナがいる。また奴隷達の輪に入らずこちらに来てしまったらしい。


 それで何度目か分からないが、奴隷商はハンナを諭すように。


「お前はいつになったら割り切るんだ。クロエが自白したんだから意地を張っても仕方ないだろ」


 奴隷商にあまり懐かれても困る。だから最近はよく引き離すように言っているのだが、ハンナは懲りずに。


「あんたが嘘は貫けって言ったんじゃん。なのに今更?」


 ハンナは頼んでも無いのに奴隷商の切り分けた野菜を、沸騰した鍋へと放っていく。

 

「たからその嘘が意味無くなったからだとな……」


 レオンの一件は仕方ない。それにしてもクロエの一件は、全てバレたうえハンナは全く悪く無いのだからいい加減素直にすればいいものを。奴隷商の言葉が上手く伝わらず、ハンナに悪い影響を与えてしまっただろうか。


 そんな奴隷商の悩みなど気付かずに、ハンナは奴隷商へと距離を詰め、わざわざ料理を手伝ってくる。


「別にあいつらが嫌いなのもあるから。どっちにしても慣れ合う気は無いから」


 捻くれた。そう言うにはあまりに無責任なのだろう。奴隷商がそう言う方向に立ち直らせてしまったのだから。だが同年代と関わらず年上とばかり関わる様になっては、成長上良くない。だから修正出来ないか思考するのだが。


(……奴隷相手にそこまでする義理は……無いか)


 結局そこに落ち着く。少し肩入れしすぎという物。どうせあと4年と少しで売るのだから、気をもむのもバカらしい。


 そう切り替えを奴隷商の中無理やりする。


「じゃあ鍋の様子頼む。俺は魚を捌いておく」


 奴隷商はハンナから距離を取る様に離れ、別の机の上で魚の腹を捌く。ハンナは何かを言おうと振り返ってくるが、奴隷商が一瞥もしない事を気にしながらも、そのまま鍋へと視線を戻してしまう。


「……」


 少しだけ心が痛む。中途半端な事をしている自覚はあるが、これ以上踏み込むべきではない。そんな考え事をしていたせいだろうか。


 チクリと指先が痛み、赤い血が流れる。


「……痛いな」


 これ程度なら止血の効能がある葉を擦ればいいだろうか。そう紙袋を漁ろうかと手を伸ばすと、また1人来客がある。


「この木串。どこに捨てればいい」


 その言葉の主はシレアだった。どうやらエリックに服を着せられたらしく、奴隷商が目のやり場に困る事はない。奴隷商は指を葉で擦りながら、そこだとゴミ箱を小指で差す。


「そこでいい」


 シレアは何も言わずその木串を投げ、綺麗に箱に放り込む。そして興味を示したように奴隷商の手元を覗いてくる。


「その薬草。すり潰して酒と混ぜると良いぞ」


 シレアはそう言って勝手に、切り分けている途中の魚の切り身を口に放り込む。だがその顔は酷く歪む。


「まずいな。所詮人間の漁師か」


 なんなんだこいつはと思いながらも、奴隷商は更に伸びるシレアの手から守る様魚を離す。


「勝手に食わないで貰って良いか」


 どうにも奴隷商はこの女に強く出れない。単純に気が強そうというか、フィジカル的に勝てそうな未来が見えない。一々見える肌は筋肉質で種の違いを見せつけられている様。


 だが敵意以外表情を見せないシレアは、ただ真顔のまま一歩引く。


「そうか」

 

 そんな会話の中、興味を示したようにハンナが近付いてくる。そして意味の分からない事をシレアに問いかける。


「貴女の仲間にレイルベルって人。いた?」


 全く聞き覚えの無い名前。だがシレアは聞き覚えがあるらしく、目を見開きハンナへと一瞬で距離を詰める。


「何故その名を知っている」


 シレアの眼は明らかに殺気立っている。ハンナを逃がすまいと肩を掴み至近距離で、その眼球をぶつけようとしている。


 そんなシレアの変わり身に、ハンナは明らかに狼狽し奴隷商へと助けを求めるように視線を送ってくるが、奴隷商自身も気になるので。


「で、誰なんだ。そのレイル……なんとかって人は」


 そう言うとシレアの殺意の籠った眼球がギョロっと奴隷商を捉える。


「レイルベル様だ。名前もまともに言えないその舌を引き抜くぞ」


 一々脅しが生々しい。だがこの過剰な反応からある程度察する事が出来、シレアはハンナへと向き直る。


「それでなぜ私の主の名前を知っている。お前のようなガキが」


 殺しにかかってきそうな程の勢い。だがハンナは何度か奴隷商を見た後、何か決心したように息を吸うが、それと同時にまたコンラートが現れる。


「ちょ、ちょっと!ハンナちゃん!!」


 風邪にしては動き回っているコンラート。何が目的か分からないが、そのまま炊事場を進みレイルベルからハンナを引き離す。


 そして何か耳打ちをしているようだが、その声までは聞こえない。それでコンラートは代弁するかのように代わりに答える。


「さっきシレアさんが呟いてたんですよ。覚えてないんです?」


 そうなのかと奴隷商はシレアを見る。だが本人は心当たりが無いらしく首を傾げる。


「……言ったか?そんな事」


 コンラートは食い気味にシレアへと詰めかかる。その勢いに流石にシレアも引き気味になってしまっている。


「言いました言いました!!こんな小さい子脅さないでくださいって!」


 どうにもコンラートの様子がおかしいが、わざわざこんな意味の分からない嘘を付く訳も思いつかない。何かしらのすれ違いがあるのだろう。


 そう静観をする奴隷商だが、シレアは汚い物を払うようにコンラートの手から逃れる。


「分かった。分かったから離れてくれ……」


 コンラートの暑苦しさはどの種族にも通じるらしい。シレアはそれ以上の詰問を諦め、さっさと炊事場から出て行ってしまう。


 そして奴隷商はその病人にしてはやけに元気なコンラートの頭を掴む。


「お前本当に体調悪いんだよな?」


 屈んでコンラートと視線を合わせる。そのコンラートは焦ったように目を泳がせ、笑顔を張り付ける。


「こ、子供の為ならこれぐらい…や、やるさっ!!」


 奴隷商は怪しむが、鍋から沸騰した泡が溢れそうになるのを見て、優先順位をつけコンラートから手を離し立ち上がる。


「病人が歩き回るなよ。次見たらベットに括り付けるからな」


「あ、あぁ……」


 コンラートの気の抜けたような返事。それを聞き流し尻餅を付くハンナの脇を通り抜け、奴隷商は鍋を一旦火元から離す。


(しばらくはコンラートの様子注意しておくか)


 そう一応の警戒をする。コンラートの事だから曲がった事はしないだろうが、要らない事をしている可能性は大いにある。


 そう思考を巡らしながらも、背後でのそりと起き上がるコンラートを横目に、奴隷商は昼飯を作るのだった。


ーーーーー


 その日の夜。

 奴隷商には約束事があり、黒い外套を着こんで寒空の下歩き出す。今の様子のコンラートとシレアを一緒にするのは怖いが仕方ない。


「こっちも怖い奴だしなぁ」


 奴隷商が目の前にするのは大衆酒場。あちらが指定してきた時は伝達ミスとも思ったが、どうやら本当らしく困惑するだけ。


 そうして入店し自身の名前を伝えると、まさかあるのか個室へと案内される。店内を見渡しても客層的にもその辺の居酒屋と変わらない。落ち着かない奴隷商だが連れられるがままその暖簾を押すと、普段着に少し伸びた紺色の髪を結ぶクラリスの姿がある。


「貴族がこういう店使うんだな」


 奴隷商はそう言いながら席に座る。どうやら先に食事を始めていたらしく何皿か置かれ、クラリスの手には酒の注がれたコップが握られている。


「案外密談に使う貴族多いぞ。個室もあるし服装さえ気を付ければ目立たないしな」


 コップには薄く口紅の色が付いている。どうやらブドウ酒らしく酔いが回っているのか、クラリスの顔も少し赤い。


「俺も同じの飲むか」


 そう言って店員と目配せをし頼もうとするのだが、クラリスは酒をあおりながら。


「これ一本で1万はするぞ」


 その言葉に奴隷商は固まりクラリスを見る。だがクラリスは紙を揺らし面白がるように笑うだけで、冗談だと言いたげに。


「奢るから大丈夫だ。貧乏人から金を毟る趣味は無いから安心しろ」


 どうにも反応しずらい冗談。ただ今回の誘いはクラリスからの物で、奢ってくれるという話だった。だから一応頭を下げつつも。


「じ、じゃあ頼むからな」


「あぁ好きにしろ」


 クラリスは一口大になった肉をつまみにまた酒をあおる。今日はいつもよりは機嫌がいいらしいと思いつつ、奴隷商は一通り注文すると、早速本題だと切り出す。


「それでこうして会えたって事は、そっちも大丈夫だったって事だよな」


 するとクラリスは眉を顰める。


「せっかくの飯の場でいきなりそれか」


 その要件でお前が誘ったんだろうと言い返したくなるがそれを抑える。だが流石に答えてはくれるらしく、酒の注がれたコップを置き頬杖をつく。


「あいつの気まぐれだろうがな。極めて腹は立つが」


 これで互いに命の危機と明日の飯に困る事は無さそうだった。クラリスはただただ不服そうで、それになによりだと、爪でカツカツと机を叩く。それは言いたくてたまらなかったことなのだろう。


「そもそもあいつはなんなんだ。皇帝陛下を殺しておいて今度は自分が後見人だぁ?国を簒奪する気というか既に簒奪してるじゃないか。あれでは」


 またいつものが始まった。この一か月会うたびにプレヴァルの悪口。奴隷商としても思う所はあるが、どこで誰が聞いているのか分からない以上、笑って受け流すしかない。


「いやぁ……どうなんでしょうね」


 ただクラリスは壁打ち相手が居れば良いのか、こんな反応でも酒が入っている事も相まって、饒舌に愚痴を零す。


「しっかも父上がせっかく味方に取り込んだ近衛も、責任取らされて地方に飛ばすしよ。明らかに私らを排除しようとしているようにしか見えん」


 奴隷商が一杯飲み干す内に、クラリスは2杯3杯と空にしていく。そして会話が進んでいく内に呂律も回らなくなっていく。


「そんで私を左遷できるチャンスでお咎めなしなしときた。怪しすぎんだろがよぉ」


 この所のストレスを全て酒と愚痴で流そうとしているのだろう。それこそ奴隷商も庇って貰っていたので感謝もあり、その愚痴をうんうんと頷く。


「何考えているか分からないからな。警戒するに越したことはって奴か


 クラリスの髪が揺れ、ダンっとコップの尻が机に叩かれる。


「そう!あいつは警戒しにゃならんのっ!!」


 酔っても面倒というか声が大きくなるタイプらしい。奴隷商も多少の酔いが回るのを覚えながらも、塩辛いツマミに口をつける。


「まぁもうこれで俺は関わる事は無くなりますから。力になれるかは」


 定例会議ももうすぐメンバー交代。奴隷商も外されるだろうし、そもそも下っ端の官吏。今までこうやって政争に巻き込まれていたのが異常なぐらい。これからはまたいつものように奴隷を買って育てて売る日々。


 そう当たり前の事実を伝えただけなのだが、クラリスはキッと睨み上げて来る。


「私から逃げれると思うなよ」


 酒臭い。というか脅しにしか聞こえないその言葉。冗談だと思いたいが、クラリスの眼はマジだった。


「……偶に話は聞きますから。私を頼らずとも他に仲間いるでしょう?」


 流石に一人ぐらいは。そんな言葉は怒りを誘発させるだけだと引っ込める。だがそのクラリスは赤くなった目元を抑え、顔を落としボソッと呟く。


「……あんた以外いない」


「いやいや御冗談を」


 奴隷商は不味い気配を覚えながらも無理に笑う。クラリスの性格的に敵は多そうに思っていたが、まさか仲間がこんな下っ端の官吏だけなはずがない。


 そう思いたいのだが、クラリスは何が悪いと言いたげに語気を強くする。


「別に仲間で群れなくとも実力で覆すつってんの!!プレヴァルみたいに裏でコソコソすんのがずりぃんだよ!!」


 プレヴァルの方が政治としては正しいのではと思うが、どうやらクラリスは違うらしい。別に悪い奴じゃないというか貸し借りは忘れない義理堅い所もあるから、奴隷商自身嫌いでは無いのだが。


(どうにも言葉を飾らないからなぁ)


 政治に向いていない。正論を言えば良いと思っている口の人間。あまりに真っすぐすぎて鋭利で周りを傷つける。


 そんな事を目の前で酔い半ば暴れるクラリスを見ながら思う。するとつい口にそれが出てしまう。


「もう少し気を遣えればなぁ。面は良いんだから」


 外見だけは良いんだから会話さえ気を付ければ、それなりに仲間が出来るはず。そう思っての思考だったが、つい口に出た事に気付き、奴隷商は咄嗟に口を塞ぐ。


 だがそれも遅くその言葉は酔うクラリスに届いてしまっている。そしてその顔は褒められたと得意げになったようにニヤニヤと笑う。


「お前私の事可愛いと思ってんだ?」


 また面倒になりそうな。つい口が滑ったが、俺自身も少し酔いが回りすぎだだろうか。


「……曲解しないでください」


 そう言うのだが、クラリスのこういう所が良くないと、嫌に腹の立つ口調でつっつていくる。


「そう思うのも仕方ないがなぁ!ただ貴賤の差がなぁ!?何せ私は公爵令嬢だからなぁ!!」


 どう考えても公爵令嬢には見えない立ち振る舞いと粗暴な言葉。酒が入っているとは言え、あまりにみっともない。


「公爵令嬢ならもっとお淑やかにした方がいいのでは?」


 そう奴隷商が言うが、都合の悪い事は聞こえないのか無視をされる。そうしてその後は仕事の愚痴ばかりで時間が過ぎていく。


 まぁただ。奴隷商自身久々にいい酒を飲んで、誰かと騒ぐ時間は悪い時間では無かった。


 そうして一応の打ち上げ会?は終わり奴隷商とクラリスは帰路を別々にする。流石にクラリスは帰りの馬車は用意してて安心した。


「……そーいやディアナ見ないな」


 1人夜空を見上げながらフラフラと帰る。この一か月ディアナの姿を見ておらず少しだけ不安。それこそ数か月顔を出さない事もあったはあったのだが、アリシアの一件後一度も顔を出さないのは違和感。


「まぁその内顔出しに来るか」


 1人そう呟き奴隷商は施設へと戻る。と、玄関を開ける手前。屋根の上で夜空を見つめるその奴隷を見上げる。


「シレア。そんな所でどうした」


 屋根の上。真っ白な髪を揺らして月明りに照らされるダークエルフ。それがゆっくりと首を回し、その琥珀の瞳で見下ろしてくる。


「お前に関係ないことだ」


 そう言って足音少なく地面へと降り立つ。相変わらずの軽い身のこなしで、その戦闘経験を推察させる。


「……お前の主は今どうしてるんだ」


 コンラートの事が脳裏にチラつきながら奴隷商はそう尋ねる。するとシレアは、奴隷商の前に割り込み扉をあけながら答える。


「今も生きている。私はそう信じて生きるしかない」


 バタンと扉が締められる。


 別に開けて置いてくれてもいいのにと、あまりシレアの反応を真に受けずに扉に手をかける奴隷商。そうして施設に戻るが、すでにどこにもシレアの姿はない。


「顔洗って寝るか」


 酒の酔いもある。それに明日も早いからと、さっさと中庭へと赴き井戸水を汲もうかと足を動かす。


 すると中庭に入ると同時に聞こえる木刀が空を切る音。それはどうやらハンナの物らしかった。


「消灯時間過ぎてるぞ。早く部屋に戻れ」


 奴隷商はそう言いながらくみ上げた水で顔を洗う。そして聞こえていた素振りの音は消え、それの代わりに芝を踏む音が近付く。


「酒臭い」


「付き合いがあってな」


 顔に付いた水滴をタオルでふき取る。そのさなかハンナの様子を伺うが、ずっと素振りをしていたのか汗まみれになって、黒髪は張り付いている。


「これ使え」


 奴隷商は水桶ともう一つのタオルを差し出す。それをハンナは大人しく受け取る。


「ども」


 どうにも互いに気まずく流れる沈黙。今日の昼の事もあって、奴隷商から何か言う事が出来ない。だが、ハンナはというと、水桶に写る自分の顔を見て何か決心したように言う。


「私はアンタに認めてもらいたい」


 奴隷商は頭を拭く手を止めハンナを見下ろす。一応続きを待つよう黙っておくと、ハンナは絞り出すように続ける。


「アンタに頑張ったって言って貰いたい」


 ハンナは確か13かそこら。大人にそうしてもらいたいと思うのは普通なのかもしれない。だが、それの相手が親や仲間では無く、奴隷商相手というのが異常なだけで。


「だからさ……」


 沈黙を続ける奴隷商に、怯えたように言葉が弱々しくなるハンナ。それを見て奴隷商は迷うが、やはりこの一線だけは守らないとダメだとキリを付ける。


「俺はお前の育て親じゃない。誰かと重ねるのを辞めろ」


 そんな気がした。誰かの代わりを求められているように感じた。だからそう伝えたのだが、それはハンナ自身思う所があったのか、唇を強く噛む。


「……別にそういう訳じゃ」


 その黒髪からは水滴が滴る。それでも苦しそうに助けを求めるように奴隷商を見上げて来る。だが、奴隷商はジッと見下ろして。


「前にも言ったが俺はお前の人生に責任を持てない。お前の人生を決めるのも認めるのもお前自身だ。それを奴隷商なんかの俺に委ねるな」


 そう言って奴隷商はタオルを畳み歩き出す。ハンナはそれ追いかける訳も出来ず、ただ月明りの照らされる地面に残される。


 その手は伸びかけては届かず、空を掴むだけ。13歳の少女には何をどうすれば良いか正解が分からない。いつの日かの決意も鈍り、ただただ迷ってしまう。


「……でも貫くって……言ったから」


 そう自分の吐いた言葉を自分の心を守る様に呟く。だがそれは届いてほしい人に届く事は無く、ただ青白い月明りに吸収され消えていくのだった。

 

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