第3話 迷子の足音
レイラは奴隷だった。
ただ何でもないような都市市民の家庭に産まれ、いつかは結婚して子供に囲まれて死ぬ。そんな普通の人生を送れるものばかりだと勘違いしていた一人の奴隷。
「もう5年」
気付けばあっという間だった。わけも分からないまま連れてこられ、あの奴隷商で過ごしたこの5年。それももう終わり最悪な門出を私達は迎えている。
「結局奴隷のまんま死んでいく」
いつかは自由に。そんな事も思った時期はあったにしても、どこにも希望は無かった。この首の紋がある以上、何をどうしても生きていけない世の中。
すぅっと息を吐く。それは白く紫色になりつつある夜空へと上がっていく。
「嫌な事しか思い出せない」
ガラガラと回る車輪と、馬を鞭打つ音。それを背景にレイラは、走馬灯かのようにその5年間を思い出す。
ーーーー
鐘の音が響き渡り、外が少しだけ騒がしい日だった。赤色に反射するその母の顔を忘れられない。
「レイラ。ここで大人しくしてて」
レイラにはその母の様子が不思議でならなかった。いつものように髪を結んでくれるのかと、思い込んでいたからだ。
「……?なんで?今日学校じゃないの?」
その国は帝国との戦争に負けた。そしてその余波は、困惑するばかりのレイラにも及んでいた。
部屋に現れた母は、焦りを隠そうともせずレイラの肩を掴む。
「ちょっとお客さんが来たからさ」
戦争は終わっていた。だが市民にとって戦争は、軍隊が生活から居なくなるまで終わらない。
街は戦勝者による略奪の最中。いつもは一般人として生活している農民や市民が、今日この日は自身の欲望を解放するように暴れまわる。そして今では、レイラの家の戸を激しく叩く音が響く。
だがそんなよそ見しがちなレイラの顔を抑え、母は少しだけ語気を強めた。
「大丈夫だからね。絶対私達が呼ぶまで出ちゃダメだからね」
母の爪が肩に強く食い込む。レイラ自身今何が起こっているのかは分からないままだった。だが母の様子からその不安は伝播し、我儘が通せる状況では無いと子供ながらにも分かる。
「……うん……大丈夫なの?」
母は割れ物を扱うかのように、自分に似た娘の黒髪を撫でる。それが最後になるかもしれない、そんな予感があったからだ。
「大丈夫だから。レイラはここで静かにしてるんだよ?」
母の手がレイラの頭を撫でる。すると、それと同時に父の叫び声と、何かが倒れる音がする。それを聞いた母は、一瞬だけ視線を泳がし苦しそうな表情を滲ませる。
「……ッ」
だがすぐ視線を娘へと戻し、笑みを作る。そしてクローゼットの中へと我が子を押し込む。
「レイラ。愛してるから」
最後にまた黒髪から頬を撫で、母の顔がレイラへと近づく。そしてレイラの額には少しだけ暖かく柔らかい感覚と、嗅ぎ慣れた母の匂いが体を包む。
だが対照的にレイラの手のひらには、冷たい感覚が何粒かがあった。
「大丈夫だからね」
子供でも分かる無理のした笑みを浮かべた母。それがレイラの最後に見た母の姿だった。
そうしてレイラは衣服に包まれ、真っ暗な空間にただ1人になってしまう。聞こえてくる叫び声と剣戟に、怯える時間だけが過ぎていく。
「いやいやいや……もうなんなの……」
だからレイラは耳を塞ぎ目を瞑った。嫌な現実を、あの母の心情を知りたくなかったからだ。だが嫌な現実というのは、逃げてもいつかは目の前に否応なくやってくる。
数時間経ったような数分だったような。扉が開けられ差し込む光にレイラは目を細める。その光で、やっと母と父が戻ってきたと、笑みを取り戻し暗闇から飛び出そうとする。
だがレイラの目には知らない誰かの瞳が2つ。
「お母さ……ん?」
光に目が慣れていく。だがそこにいるはずの、いて欲しい顔は無く。ただ気持ち悪く笑う知らない男の顔。そしてその手には母のそれと同じ、長い黒い髪が巻き付いていた。
そんなレイラの視線を追って、目の前の男は右手をグッと持ち上げる。
「お母さんってこれかァ?」
レイラの呼吸が浅くなる。呼吸音と心臓の音が異様に響き、頭の中が熱くなる感覚。
体が硬直するレイラに伸びるのは、薄汚い緑色の長髪の男の手。その笑みはまるで、おもちゃを見つけた子供の様な無邪気さすら感じる。
「い、いや………っあぁ」
その手から逃れようと後ずさる。だがゴツンと、レイラの頭が壁に当たる。そして男の手がレイラの黒髪へと追いつく。
「親子だねぇ。ガキの趣味はねぇけどたまには味変もいいかぁ」
男の手が体を撫でる。そこでレイラの本能か、咄嗟に左手が動き男の頬を叩く。
パチン
だがそれは乾いた音を響かせただけ。その妖しく光り、薔薇の刻印のされたナイフが暗闇を照らす。
「あんまり泣くなよ。殺したくなるからァな」
額にツーっと痛みが走り熱い何かが、滴っていく。レイラの体に残された母の残影が、ことごとく掻き消えていく。
「じゃアいただこうかな」
そしてそこでレイラの記憶は終わっている。というより終わらせようと、記憶の奥にひた隠し押し込まれている。だが彼女に暗闇に対する消えない恐怖を抱かせたのは事実だった。
それからのレイラの記憶は真っ暗闇なままだった。次に気付けば汚い檻の中に一人ぼっち。夜中に終わることの無い泣き声とそれを怒鳴る声。
そして次太陽が見れたと思えば、あの奴隷商の元だった。
「お前らはここで5年間過ごす。その後どうなるかはお前ら次第だな」
疲れ切ったような眼に低い響く声。ただただ不気味な人間という印象だった。だがレイラら奴隷にとっては、目に見えて分かる親や同郷達の仇。厳しい訓練なども相まって、奴隷商を好む奴隷なんてただの一人もいなかった。
「振りが遅せぇぞッ!!!そんなんじゃあすぐ死んでしまうぞ!!!」
男だろうが女だろうが構わず走らせ、腕が棒になるまで剣を振らせる。子供相手に異常ともとれる厳しさ。それは奴隷達にとって、奴隷商の鬱憤晴らしに使われていると怒りを溜める一方だった。
「おらそこ!!膝に手ェつくな!!!さっき休憩したばっかだろ!!!」
体に痣が出来ても1日中剣を振り走らされ、かと思えば夜遅くまでひたすらに知識と教養を押し込めてくる。まさに物扱いと表現しても差し支えないやり方だった。それこそ奴隷商が、商品の価値を上げる為なのは明白。
だがレイラは目を開けていた。また瞼の裏にある暗闇に逃げて、何も見ないふりをするのが怖かった。それになにより、自分の周りの子達が傷つくのが怖い。そんな気持ちで、震える声を押して立ち向かっていた。
「やりすぎです。これ以上やったら体を壊します」
自分は正しい。自分しかここの皆を守れない。そんなある意味、子供じみた正義感だったかもしれない。だがレイラはこの選択を後悔することは生涯ないと言い切る。
「それは俺が判断する事だ。最悪治癒魔法もある」
「でも治癒魔法だって万能じゃないです。何事にも限度が━━」
そうレイラが言いかけた所で、奴隷商はその手に持った木刀を喉元に向けてくる。奴隷商にとっては、レイラの勇気はただの邪魔でしか無かったからだ。
「俺が判断する事だ。黙って従え」
だがレイラは強く睨み返し、その向けられた木刀を握ってしまう。
「嫌です。従いません」
無言のまま奴隷商はレイラを見つめる。疲れてきっていた眼が、ゆっくりと細くなる。
が、それ以上何か表情を見せることなく、奴隷商は木刀を下ろし、背を向けてしまう。そして近くで膝をつく同期の奴隷のシエナを無理やり立たせながら言う。
「強情な奴だな」
この後、奴隷商は私を横目にして言ったこと。奴隷商は覚えていないのだろうが、レイラだけは良くそれを覚えている。
「だが、その心構えだけは無くすなよ」
私達を高く売る為に、ひたすらに私達の人間性を無視する。冷酷で善性の見えない真っ暗な大人。それが皆の総意。だがこの時の言葉にレイラが引っ掛かりを覚えたのも事実だった。
だがそれが些細な事に感じる程、苦しく暗かった5年間。今思い出しても、良いものとは到底思えない。
そしてその5年をやっと乗り越えた先。淡々と事務作業のようにレイラ達は馬車に詰め込まれる。そしてレイラは目を開けば、同期の5人との最後の時間を馬車の荷台で過ごしていた。
「あいつに最後何言われてた?」
同期の奴隷であるカールが拳を握る。沈黙の中、特定の誰かにではなく、荷台の中に響かせるように声を発していた。
そしてその問いに答えるのは同期の男の子であるジョン。男は2人いるが、両名とも戦争で獲得した領地に飛ばされるらしかった。
「地元の民衆とは仲良くしておけ、だとさ。いい生活が出来るかもって」
すると質問したカールが、「あぁ」と声を漏らし頭の後ろに手を組む。
「俺も同じ事言われたな。長く俺らが生きればまた奴隷を高く売れるからって」
「最後まで癪に障る奴だったな。あいつ」
その男2人の会話にレイラ以外の女が頷く。だが売れなければ農奴として、酷使される未来もあったと思えば、まだ最悪の結末では無いのも事実。
そしてまだ不満は止まる事無く、ある女奴隷が信じられないと言いたげに語気を強くする。
「私なんて。体売る事になるから貴族とか軍人に気に入られろだって。身請けしてもらえるからって」
怒りが収まらないのか強く、こちらも拳を握っている。この5年間ずっと奴隷商に反発し続けていた鬱憤が溜まっているのだろう。そしてその怒りは収まることは無く。
「ほんとっ最低。あいつが私達を売ったせいなのに、なんでそんなに他人事にさ!!」
ドンと馬車の床に拳を叩きつける。近くにいたシエナが肩を震わせ怯える。
だが女の奴隷は貴族の所で給仕するか、あとは殆ど公営売春街か従軍するのが殆ど。レイラのように貴族に売られるのがまだ良い選択肢なのも事実だった。
「地獄の中でもマシな地獄を選べるように。か」
カールがそう呟く。レイラ達が馬車に乗り込む時に、あの奴隷商が最後に言った言葉だ。それも、どのような意図での言葉か、皆分からない。
だが、結局過去のこと。これ以上この会話をしても仕方がない。レイラはそう判断して、この最後の時間を大事にすることにした。
「……でもこれから皆別々だから」
奴隷商に怒りが湧く皆を抑えるようにレイラは呟く。本心からの言葉。5年間辛苦を共にした仲間に何も思わないような人間はいない。
「またいつか会えるように頑張ろう。またこうしてあいつの悪口言えるように」
そんな未来は殆どない。それは直感でも理屈でも分かっていたが、それでも今は明るい未来を信じてレイラは皆の目を見る。そして5人各々が顔を上げその視線がレイラへと集まる。すると意外にも皆不安だろうに笑顔を作っている。
「じゃあまた会えたらさ━━」
誰かがそう言いかけた。だがその続きを聞く前に、レイラ達の最後の時間は終わりを告げてしまったらしい。
「きゃぁっ!!!」
腸が揺らぐような浮遊感の後、全身に衝撃が襲い掛かる。視界はぐちゃぐちゃに回転をしていた。
何が何だか分からない。だが全身の痛みに視界を広げれば、視界の左半分は地面を写し、レイラ達は外へと放り出されたらしかった。
「……なにが」
辺りを見回すが、どうやら馬車が転倒したらしい。今分かる事実はそれぐらいで、レイラは必死に周囲の様子を伺いなんとか立ち上がろうとする。
すると無事だったジョンが、レイラに駆け寄り手を差し出す。
「レイラ!大丈夫!?」
その皮の厚い手を握り返し立ちあがる。他の皆も怪我はしていても意識はあるらしい。そんな事を考えるレイラだが、誰かの叫び声と、風にのってくる血の生臭い匂いに眉を顰める。
「あれは……」
転がった馬車から地面へと血が流れ出ている。御者が馬車か馬に押しつぶされたのだろうか。そんな推測をしたが、御者の体の傍にいくつもの影が見える。
「……ジョン。逃げるよ」
「え?」
馬車の向こうから現れるのは身なりからして盗賊。ナイフには血がべっとりと張り付き、まともな人間らで無いのは分かる。
そしてその盗賊が見える範囲では5人、レイラ達の元へと歩いてきている。馬車を転ばせたのもあの盗賊達の仕業なのは考えるまでも無いらしい。
「とにかく逃げないと。皆を起こして」
だが逃げようと言ったレイラの足は、その盗賊の顔を見てピクリとも動かなくなってしまっていた。
「お、見たことある顔かと思ったら。いつの日かのガキかァ」
盗賊の1人が一歩また一歩と、嫌な笑みを浮かべ近づいてくる。風に乗っていつの日か嫌なほど体にこびりついた、その悪臭が漂う。
「あら?覚えてない?俺とあんなにアツい夜を過ごしたのにィ?」
盗賊がジョンを押しのけレイラを見下ろす。その目から視線を逸らし、レイラは思い出したくない記憶を必死に押し込もうとする。
だがそれも意味も無さず、呼吸が浅くなり胃の内容物と一緒に湧き上がってくる。
「また綺麗になってなぁ。今回は味見して良いんだっけ?」
目の前の盗賊は振り返り仲間へと確認をする。だがレイラの視界はますます狭まり、思考は纏まらず周囲の音すら聞き取れなくなっていた。
「ダメっすよ。雇い主厳しいんで、その辺」
「んだよヘンリー。ちょっともダメか?」
「店で我慢してくださいって。最近やりすぎっすよ」
「店は違うんだよ。分かってねぇなぁ」
押し込めても湧き出て抑えれなくなってしまう、その真っ暗な記憶。それを拒絶するように、レイラは胃の内容物を地面へとまき散らす。
「うわきたねぇ。ってか割と良い物食ってんのな。出荷前の最後の晩餐か?」
数歩先から盗賊の声が聞こえる。記憶の中にあるあの忌々しい小汚い声と一緒のそれが。だがレイラのそんな背に手を置き、優しく包むのはジョンだった。
「俺に任せろ」
地面を向いたレイラの視界では、ジョンの足が盗賊から守る様に立ちふさがる。その手には武器というにはあまりにお粗末な木の棒だけが握られている。足も震えているのが丸わかりだが、レイラにはその背をどこか頼もしく見てしまってもいた。
「お、君は剣術に自信あり?俺ナイフしか使った事無いからさァ教えてよ~」
盗賊がニヤニヤとしながらナイフを弄ぶ。緑色の長髪はベトベトし、見た目からして不快感の漂う男。記憶に蓋をしても消えなかった、私の上にいたあの頃と全く変わらないその顔だった。
「おい、一応言うが殺すなって」
「あ?別に1人ぐらい良いだろ。さっき我慢してやったんだからよ」
「あのなぁ……」
盗賊のヘンリーが止めに入る。
それを見てか一歩踏み出すジョン。そしてその隠した左手にはどこで拾ったのか、先の鋭い黒い石が握られている。
「お~正当防衛って奴だな」
盗賊が面白い物を見るかのようにヘンリーを突き放し、ジョンを視界に捉える。だが未だにジョンの持つ石に気付いていないのか、ナイフすら構えない。
「ガキの腹は柔ケェからなぁ」
必死の形相のジョンを盗賊は見下ろす。ヘンリーら他の盗賊も呆れたように距離を取っている。だがその瞬間、ジョンの右足が深く踏み込む。
「死ねッ!!」
ジョンが喉を張り裂けそうな程叫び、木の棒を盗賊へと振り上げる。
「ん~?それ本気?」
盗賊はたかが木の棒。そうとでも言いたげにナイフを持つ手をピクリとも動かさない。
だが盗賊の視線は木の棒へと向き、腹へと向かうジョンの石の切先には気づかない。
気付いていないはずと、カールもレイラもそう思っていた。
だけどそんなものは、すぐに盗賊の笑みでかき消される。
「もうちょっと手を捻らんとだなぁ。彼女の視線でバレバレ」
盗賊の視線がレイラを捉える。そして盗賊は木の棒を意にも返さず、ジョンの石を握る手をしっかりと掴んでいた。必死にジョンはそれから逃れようとするが、盗賊は石像のようにビクとも動かない。
「やっぱ力強いねー。普通に拳で来た方が勝率高かったんじゃないかな?」
そう言いながらジョンの腹に一発の拳を入れる盗賊。離れて見ているレイラでさえ痛みを感じそうな鈍い音だった。
そしてその音は一定間隔に真っ暗な森の中に響き続ける。
「ほらほら~。カッコよく出てきたんだから頑張らないと~」
2発3発と叩き込まれる拳。それを見てもなおレイラは動けない。そして地面にその血が垂れつつある中、目が覚めたのかカールが立ちあがる。
「舐めやがってッ!!」
手に持った石ころを盗賊へと投げ飛ばす。が、いとも簡単にそれは避けられ返ってくるのは盗賊の笑い声。
「ほらほら~早くしないとお友達死んじゃうよ~?」
鈍い衝撃音が響き続き、ジョンのうめき声が段々と小さくなっていく。全く手を止めようとしない盗賊に対して、カールは無鉄砲にも突っ込んでしまう様に見えたが。
「お、魔法かァ」
カールの構えた左手の先には、小さな火玉があった。魔力を使うから1日1回しか使えないけどと、いつの日か自信ありげに自慢していたその魔法だった。
「ジョンを離せッ!」
その叫びと共にカールは火球を放つ。
だが盗賊はニヤリと笑い、嫌味ったらしくジョンを片手で抱える。そしてその空いた手を、その飛んでくる火玉へとかざす。
「でも俺も魔法使えるんだよね」
その手の先には何もない空間に、水が湧き出し互いに寄り合い玉になっていく。そしてそれは飛んでくる火の玉へと正面から突っ込んでいく。
それらはそのままぶつかり合うと、シュゥと音を立てる。そしてそこには白い湯気を残し、何事も無かったように消え去ってしまう。
「遠距離で使うならもっと速度を意識しないとね。ほら、こうやって」
盗賊は意趣返しとでも言わんばかりに火の玉を手のひらに浮かばせる。それはカールのに比べ酷く眩しく、そのままカールへと向け飛ばす。
それを必死体を捻らせ避けようとするカール。だが、ふと何か思い出したかのように盗賊は呟いた。
「あ、2人殺したらまずいか」
盗賊はそう言いながら、手をクシャッと潰す。するとそれと同時に火の玉か跡形もなく、空中から消える。
そして欠伸をしながらも、盗賊は動かなくなってしまったジョンを投げ捨てる。
それは丁度レイラの元に転がり、レイラの手にはじんわりと生温かい感覚が広がる。
「え……あ、い……や」
良く笑う子だった。自分が苦しくても小さい子にご飯を分け、場を和ませてくれる心根の優しい子だった。少なくともこんな所で死ぬべきな人間ではないのは確かだった。
だがその瞳には色が無くなってしまっている。手には自分のではない血がべっとりと付き、服に染みが広がっていく。
「嫌嫌嫌……死んじゃダメ……ダメダメダメダメ」
震える手でジョンを揺らす。だが、ただ重く物体となってしまった体は動くことは無い。そして着実にその足音がレイラへと近づいてくる。
「おいクレート!叱られるのは俺なんだからな!」
「殺しちまったのはわりぃって!今回報酬3割引いて良いからよ!」
ヘンリーとクレートが話す声が辺りに響く。だがそんな声レイラに聞こえるはずも無く、ただひたすらにその体を揺らしていた。
それもむなしく、そのレイラの黒髪を掴む。そして無理やり曇天の空を見上げさせるのが、クレートと呼ばれた緑髪の盗賊だった。
「で、次は嬢ちゃんが俺の相手してくれるのかい?もちろん夜の方でも良いがな」
聞き心地の悪い笑いが辺りを支配する。無理やり視線を合わせられ、近距離からその異様に見開かれた盗賊の眼球が迫る。レイラはなんとか抵抗しようと暴れるが。
「お前なんて……ッ!」
「生意気だねェ。また泣きわめくつもりかな?」
髪を引っ張られ喉が伸び呼吸がしずらくなる。レイラは咄嗟に命を守る為、手当たり次第に手のひらを握りクレートへと向けるが。
「このッ!!」
「っと。ってただの土か」
「死ね!!!死ね死ね死ね!!!」
レイラが何度も投げた土は空中で分解しパラパラと地面へ落ちて行ってしまう。そして意にも返さない嫌な笑みを張り付けた顔がレイラへと近づく。乱雑にクレートの手が、レイラの白い頬を掴む。
「なんか感慨深いねぇ。娘の成長見た気分っての?」
段々と持ち上げられていくレイラの体。それを面白がるように見下ろすクレート。そして呆れたように眺める他の盗賊らに、ただ怯え見ることしか出来ない息のある他の奴隷達。
真っ暗闇な夜空を背景にした、そのクレートの顔がすぐそこまで迫った瞬間。レイラは、最後までなんとか保たせていた糸が切れてしまったような気がした。
「お、ほんとに泣いた。そこは5年前と変わらないなぁ」
クレートの手が私の肩に伸び、それが段々と降りてくる。これから何をされるのか、それは考えずとも、5年前の記憶をそれが教える。
「どうせ怒られるならな。勿体ないから良い思いしねェとだよな?」
鼻息が顔にかかる。胃が締め付けれるような感覚から吐きそうになるが、盗賊に無理やり顔を掴まれ押し込まれる。
「外は初めてか?」
そう盗賊がニィっと口角を上げた。
だがその時だった。地面を蹴る力強い足音と共に、見慣れたその子は現れる。そしてそれを認識したと同時に、レイラにかかる影は吹き飛ばされる。
「逃げるよッ!!」
手を差し出して来たのはカールだった。綺麗なブロンドの髪は乱れ顔も泥だらけ。だがその目は真っすぐレイラを見て、差し出された手。
レイラは久々に冷たい空気を吸い込み、上ずりながら返事をする。
「う、うん!!」
そうして怒号を背に逃げ出すレイラ達。今は自分たちが生き残るのに必死で、ひたすらに逃げる。途中雪が降り出したのにも、すぐに気づかない程だった。
「帝都まで行けばまだなんとかなるかも」
私は息切れをしながら考える。今ここにはジョン以外の4人がいる。だが戦えるのは私とカールぐらい。
そしてそのカールは空元気に答える。
「おう!また俺が魔法使っておっぱらってやる!!」
だが結局それらは何も意味が無かった。所詮子供の楽観的な希望でしか無く、無理に作り上げた有り得ない未来でしか無かった。
そうして数分後。ここにはジョンもカールもいない。いつの間にか仲間の女の子もいない。足裏の皮は破れ血にまみれているが、痛みはとうにどこかへ行ってしまっている。
「……あーあ」
そして残った私とシエナは、何もかも滅茶苦茶になって終わりを迎えようとしている。
目を瞑り、冷たい外気を感じる。諦めの感情が過る。ざっざっと雪を踏む足音が周囲を囲むように近づいてくる。
だが逃げるように私は空想する。
「……そうだ」
私の認めたくない事実を教えようと、鼻を通り頭へと届こうとする。それを拒否しようと吐き出そうとしても、つばの様な透明な何かしか出ない。が、それでも受け入れられないと、私は夢想する
「そう全部夢。そう夢だからこんなの━━」
胸を抑え何かを吐き出そうとする。だが夢にしては異様な悪臭と、汚らしい手が私の肩を叩く。
「ざんねぇん。全部現実なんだわ」
目を開いてしまった。現実を認めたく無くて、諦めたくて、目を閉じたのに現実を見てしまった。そこには取り押さえられ、真っ白な地面に伏せられるシエナの姿がある。
「……もう………なんなの」
シエナは叫ぶ気力も無いのか、茫然と手錠をかけられている。それは私も大差なく、壊れたように笑いが白い息になっていくだけ。
「なんでいつも私ばっかり……」
「俺はァまたお前で良かったけどなァ?」
クレートの手が私の体にまとわりつく。段々と私の体の芯が冷めていくのを感じる。
「いくら頑張っても意味ないじゃん……」
いつまでもいつまでも私は真っ暗な中で、一人ぼっちがお似合いな人生。ずっと今が一番暗いと思っても更に下が待っている。それに気付かず上を見て光があると信じ続けて、転げ落ち続けたバカで間抜けな奴。
「報酬3割分は楽しませてもらうぜェ?」
そしてクレートの手が下ると共に、レイラは肌寒さを覚える。視界のシエナは既に麻袋に包まれ、物のように扱われている。
「……」
押し倒され背中に雪の冷たい感覚が広がる。そして見上げた夜空には、僅かに見えそうで見えない月明り。それもわずかに雲から顔を出すかと思えば、クレートの顔がそれを遮る。
その汚らしい顔を見たく無くて、もう現実なんて見たく無くて、私は瞼を閉じる。
「……ッ」
歯を食いしばる。だがいつになってもそれは来ない。5年前拒絶してもしきれなかったそれは、一向に来ない。
そして数秒だろうか。数十秒だろうか。数を数えるのさえ嫌になっていた私だったが、この沈黙に違和感を覚える。そして段々と瞼の裏でも分かる程、月明りが顔に当たる。
そこにまた、新しい足音がする。そしてこの5年間。嫌という程聞いたその声が響く。
「こんな寒いのにバカだろ。あんた」
何故かその声に安心をしてしまい、私は目を開ける。開ければ変わらず盗賊の顔があるが、それは私を見ずどこかを見て固まっている。
そしてそれを追うように私の視線も動く。
「……あんたは結局なんなんだよ」
擦れた声だが気付けば出ていた。だがその声でさえ届く程静まり返っていた辺り。そしてその黒い外套に身を包んだ奴隷商は答える。
「お前の奴隷商だな。今は元だが」
そして奴隷商が杖を構える。傍には騎士がいた。
それが私にとって救世主なのか、それとも地獄へと引きずる悪魔なのか。それは分からない。
だが月明りに反射して、それが眩しかったように、そう私は感じた。




