11-9 三河 伊良湖5
カツリと小さな音がして、孫九郎は向かいに座っている寒月様に目を向けた。
音は腕組みした手の爪をはじく音だ。
目を閉じて、じっと耐えるような表情で、たった一度、内心を吐露するように爪を鳴らした。
しばらくその表情を見つめてから、孫九郎もまた瞼を下ろした。
もちろんだが、この時代にリアルタイムで情報を知る方法はない。
たとえば今この時に、取り返しがつかない何かが起こっていたとしても、それを知ることはできないのだ。
そんなわかり切ったことが、もどかしい。
すでにことは起こっている。
今川に頭をさげようとする勢力と、銭を奪おうとする勢力での対立が激化し、和具のひとり占めが面白くない者たちが刀を取った。
おおむね予想していた通りの状況の推移だが、一条家のお二人がどうしているかの知らせはまだない。
できるなら今すぐにでも、船に飛び乗って志摩に向かいたかった。
孫九郎が乗り込めば事は済むという感覚がどこかにある。
だが志摩は他国だ。今川の勢力下ではない。
いや、いざとなったらそれも辞さないが、まずお二人の無事の確認が先だった。
孫九郎が出向けば、志摩衆同士が対立しているこの構造は崩れるだろう。
争っている場合ではないと団結し、人質の存在を思い出す者も出てくるだろう。
不用意な動きが、お二方にどんな影響をもたらすかわからない。
今はただ、無事の知らせを待つしかないのだ。
まだか、まだかと、気持ちが急く。
知らせが遅くはないかと、いやな想像ばかりをしてしまう。
どれぐらい待っていただろう。永遠にも感じられる数刻だった。
「御屋形様!」
静まり返った屋内に、土井の大きな声が響いた。
その声がまだ部屋の前に来るよりも先に、孫九郎は腰を浮かせていた。
ダダダッと荒い足音がして、庭先から走ってくる数名。
孫九郎は縁側まで出迎え、息を荒げる土井の言葉を待った。
「申し上げます! 神島に船が」
神島というのは、渥美半島と志摩との丁度中ほどにある島だ。ほとんど人は住んでおらず、神事に使うお社と小さな船着き場があるだけと聞いている。
孫九郎は唾を飲んで呼吸を整えた。
何を聞いても取り乱すまいと、手を拳にして震えを隠す。
「どこの船だ」
心臓が激しく脈打ち、その先の報告を聞くのを恐れてもいたが、声は普段通りに出た。
「島の陰になっており、こちらからははっきりとわからないようです。興津殿が調べに向かっております」
孫九郎は何も言わず、そのまま庭先に降りた。
揃えておいてあった草履に、無言のまま足を突っ込む。
「お勝」
背後から寒月様に呼び止められた。
「馬を回す」
静かな声だった。
だが、振り返って見たそのお顔には、言葉にはしがたい覚悟のようなものがあった。
伊良湖の湊から少し過ぎたあたりで、岩の浜になった。
足元が怪しいので下馬して、更にその先に進む。
半島の先端は低い丘のようになっていて、それが視界から切れたところで、眼前に一気に海が広がった。
はっきりと、外洋と湾の水の色が違う。いや色ではなく、波の種類が違うのかもしれない。
初夏の日差しに照らされた、キラキラと輝く海は広大で、目がくらみそうなほどだった。
孫九郎は、海の上にぽっかりと浮かぶ島に目を凝らした。
神島だ。
味方の複数の船が、帆を張って近づこうとしている。
「土井」
荒い息をつきながら膝に手を置いていた土井が、顔を上げた。
「見えるか?」
土井は目を細めて神島を見て、首を振った。
「この場所からは島の様子はわかりません」
くるりと丘を見上げて、「ですがあの上からなら」と。
孫九郎が頷くと、土井はひとつ息を整えてから、なだらかな崖に向かって行った。
「お勝」
しばらく無言で神島を見つめていた寒月様が、呟いた。
規則正しい波の音と、ばたばたと袖を揺らす風の音に、かき消されそうな声だった。
「愛の親はのうなったのやもしれぬ」
その呟きを、聞かなかったことにはできなかった。
神島を見つめる寒月様の顔は血の気が薄く、疲れ切って見えた。
出会った頃にはすでにもう髪も真っ白で、結構な高齢だったが、年齢を感じさせない力強さをお持ちの方だった。
それが三河の片隅のこんな辺鄙な場所で、一気に老け込み、苦渋にそまった顔をなさっている。
「まだ、わかりませぬ」
孫九郎は腹に力を込めて言った。
「中納言様も北の方も、末の姫君も……安否を確かめるまではわかりませぬ」
きっと無事だとは、言えなかった。安易に言っていいと思えなかった。
ただ、忘れて欲しくないことがある。
「愛姫様と万千代君は、生きておられます」
必ず助ける。無事に保護する。
「まずはそこからです」
遠くを見ていた寒月様が、孫九郎を見下ろした。
どこか焦点を失ったようだった目が、次第に力を取り戻す。
「……そうやな」
寒月様は頷き、囁くような声でそう呟いた。
しばらくして、「おーい」と遠い声がした。
戦場で鍛えた土井の声は、波風の音にも負けずはっきり孫九郎の耳に届いた。
寒月様とふたりで振り仰いだ丘に、土井だけではなく複数の人影が見える。
見晴らしが良い高台なので、誰かがそこで状況を見ていたのかもしれない。
「島の向こう側から、三隻の船が近づいています!」
孫九郎ははっと息を飲んだ。
再び目を海に戻すが、ここから見えるのはキラキラした穏やかな海と、神島に近づく味方の船だけだった。
三隻の船。間違いなく志摩の水軍だ。
だがどこの者だ? 九鬼か? 身代金を取りに来た和具か?
陸にいては細かなことがわからない。どうするかの意図を味方の船に伝えることもできない。
もどかしさに、苛々と歯噛みした。




