11-8 三河 伊良湖4
沖合での話し合いは夜半にまで及び、やがて九鬼は志摩に戻って行った。
報告によると、井伊殿が出る杭をぐいぐいと押し込み、承菊が高圧的なその態度をなだめ、ふたりでタッグを組んで、若い九鬼を掌の上で転がしていたそうだ。
こちらは人質の身代金を払うつもりはあるが、摂家の若君を(ここで姫のことは言わなかったそうだ)さらったことで、孫九郎の不興を買っていると告げた。
血気盛んな孫九郎がうっかり志摩に攻め込む前に、揉め事をなんとかした方がいいと忠告したところ、若い九鬼は真剣な顔で頷いていたそうだ。
井伊殿も承菊も、具体的な指示を出したわけではない。約定を結んだわけでもない。
だが、先走って九鬼が今川と交渉を始めたという話は、志摩に伝わっているだろう。
このまま何事もなく終わるわけがない。
早ければ今夜中。遅くとも明日には、事態が動くだろう。
弱小の九鬼がどうやって事態をおさめるのか、乞うご期待だ。
まだ夜が明けきらぬ早朝、浅い眠りから覚めたのは、馬の嘶きが聞こえてきたからだ。
「御屋形様」
宿直の南に促され、身体を起こす。
襖の外はうっすらと白み始めているが、室内はかろうじてものの形がわかる程度。
ここが浦の長の家だと思い出すまでしばらくかかり、ぐいと目元をこすって眠気を追い払った。
よく眠れなかった。浅くウトウトした程度だ。
愛姫と万千代君がどうされているかと想像すると、いてもたってもいられなくて、寝たというより目を閉じていただけの夜だった。
身支度を整え、門まで出たところで、見事な葦毛の馬の傍に立つ寒月様のお姿が見えた。
「お勝」
変わらず公家には見えない見事な体躯の寒月様は、孫九郎を見つけて常にない険しい口調で言った。
「まことか」
そのあまりにも切迫したお声に、孫九郎もまたぐっと歯を食いしばって頷いた。
「……はい」
「まことに愛と万千代が」
「すぐに取り戻します」
寒月様は探るような目でこちらを見て、最悪の事態ではないのかと問うのを我慢するかのように唇を噛んだ。
その顔は青白く、急な知らせに動揺しているのが伝わってくる。
「囚われている場所は見つけました。和具です」
孫九郎はそう言って、力づけるように頷いた。
姫君たちの所在を教えてくれたのは九鬼だ。その情報を受けて、弥太郎の配下がそれらしき見張りのいる建物を探り当てた。
あとは本当にそこにいるかを確認してから、救助のタイミングを計ることになる。
「今日中に片をつけます」
孫九郎の普段より強い口調のその言葉に、寒月様は唇を引き結び、頷いた。
納得した表情ではなかったが、任せるのが一番いいと信じてくれたのだろう。
「参議に知らせずともよいか」
次に問われたことに、数秒間だけ理解が遅れた。
伊勢の国司、北畠参議様のことだ。北畠家も一条家と同じで、武家寄りの力をもつ公家だ。
孫九郎は、そちら側のアプローチをまったく考えていなかった。海賊などという無法者集団を相手にするのだから……と。
だが志摩は確か、北畠様の影響下にあると聞いている。もちろんそれは陸地だけのことで、海での活動については支配も及ばないのだろうが。
素直に考えていなかったとは口にせず、朝焼けにほのかに染まった寒月様の顔を見上げる。
この方は最高位といってもいい公家だが、“戦う”ことを知っているお方だ。愛する孫の危機に、何もしないで待つだけというのは耐えがたいのだろう。
孫九郎は、ぜひ話を通して欲しい……と言いかけて、言葉を飲みこんだ。
いや、それはまずい。
愛姫は、皇子と破談になったとはいえ、適齢期の姫君だ。海賊にかどわかされたなど、噂が広がると今後の縁談に障る。だが……
脳裏に、ひとりの男の存在が過った。
「東雲様はどちらにおいででしょうか」
あの男なら。一条中納言様のご友人で、愛姫のこともよく知っている東雲なら、不要な噂を広げたりはしないだろうし、率先して力になってくれるだろう。
何より、彼には忍びが大量についている。
「東雲か」
寒月様もたった今思いついた様子で、大きく首を上下させた。
「伊勢におるかはわからぬが、藤波の屋敷に聞いてみよう」
「文を書かれるのでしたら、中へ。大湊まで船で届けさせます」
急げば、昼までに届くのではないか。
建屋の中に案内すると、浦の長の奥方がひっくり返りそうな目でこちらを見つめた。
「すまぬが、奥を借りる」
「はっ、はいぃ」
孫九郎の言葉に、奥方はそのまま後ろ向きに倒れそうになった。
寒月様が文を書かれている間、孫九郎はおとなしく待っていた。
たいして長い時間でもなかったが、その間もずっと考えていた。
「……京で何が」
やがて書き終わり、墨を乾かしている間にそう尋ねると、寒月様は暗い目をして孫九郎を見た。
「終わったことや」
それは、口にしたくないという意味か、孫九郎には言えないことか。
寒月様は続く沈黙をどうとらえたのか、自嘲するように唇をゆがめた。
「よかれと思うてしたことが、上手く行かなんだ」
破談になったことだろうか。皇子が出家したことだろうか。
「愛姫さまは、万千代君をどうしても土佐にとおっしゃっていたそうです」
「……土佐に?」
寒月様の視線が、考えるように宙を動く。
孫九郎は静かに息を吐き、目を伏せた。
子供二人……まだ怪我も癒えぬ姫君と幼い若君が下向する。
よくない理由しか思い浮かばない。
寒月様もおそらく、同じ予想をしたはずだ。




