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夏颯記  作者:
駿河編2

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12-1 三河 伊良湖岬~神島1

 興津の水軍の動きが止まった。

 海の上の停止というのは表現が難しいところだが、錨を下ろしたわけではなく、櫓を漕ぎ、帆の向きを変えて、神島との距離を保っている。

 もちろん波がある。風もある。

 それでもなお、静止したように見えるのは、彼らの卓越した操船技術によるものなのだろう。

 ああ、何故自分はあの場所にいないのだ。

 孫九郎は身を乗り出した。

 足もとで静かな引き潮の波が弾ける。

 踏み出した足が濡れ、袴にしぶきが飛んだ。

「小舟が来るぞ!」

 岬の高台のほうから声が聞こえた。

 孫九郎は我に返り、同じように波打ち際ギリギリに立つ寒月様に手を伸ばした。

 今にも海に飛び込みそうに見えたからだ。

 お互い支え合うようにその場で踏ん張り、高台の者の言う「小舟」はどこかと目を凝らす。

 小舟というからには、あの船よりも小さいのだろうと海面を探してしばらく。

 見つけたのは想像していたよりずっと小さな船だった。

 しかも波間にまぎれるように、見えたり見えなかったりする。

 目を凝らしたが、どこの所属かもわからない。本来なら幟か旗指物のようなものを掲げているはずだが、孫九郎の目では判別できなかった。

 寒月様の腕に、ぐっと力がこもった。

 可能ならば今すぐあの場所に行きたい。そう思っているのが、手に取るように伝わってくる。

 遠くはない。せいぜい数キロだ。見えている。見えるところにある。

 それなのに、届かない。


 どれぐらい見守っていただろう。

 伊良湖岬と神島との間に、目に見えて船が増える。どんどん増える。

 興津と三河衆の関船が、波に揺れながら隊列を変え、神島を囲うような位置取りをしている。

 小舟も増える。波間を早い速度で行きかい、見え隠れするので数えるのが難しいが、十艘はいそうだ。

 海の上の戦いについては、興津家に任せている。実際に水軍を率いているのは古参の何と言ったかな、興津の傍系の男だ。当主佐兵衛と承菊もあの船のどれかにいるはずだ。

 戦略的な方針は承菊に任せているから、間違いはないだろう。

 わかっている。孫九郎や寒月様がいても邪魔なだけだ。

 わかっている。わかっている。

 噛み締めた唇が破れ、血がにじんだ。

 孫九郎は、まばたきすら最小限に海上を見据え、ピリリと痛みを感じる場所を、舌でなぞった。

 鉄さびの味がする。不快な味だ。

 その時、頬にあたる風の向きが変わった。

 同時に、何かが始まった。

 

 実際には、戦いは始まると同時に終わったそうだ。

 あまりにも圧倒的な戦力差だったのと、相手に戦うつもりがなかったからでもある。

 孫九郎は伊良湖の湊から小舟に乗り、沖の清水九兵衛が待つ船に乗り換え、神島に向かった。

 あんなに近くに見えるのに、実際にたどり着くには一刻近い時間が必要だった。

 そしてこんな時にも、舟酔いは容赦なく襲ってきた。

 寒月様は平気な顔をなさっておられる。

 ひどい。ずるい。

 恨みがましく睨んで、困った顔をされてしまった。

 神島の湊は、伊良湖の湊よりも整備されていて、湊から続く道には石が敷かれていた。

 よろよろしながら上陸し、もう駄目だとその場でへたり込みながら道の先を見上げる。

 鳥居が見えた。その奥に、社らしき屋根もあった。

 まだ到底立ち上がることなどできないうちに、同行していた土井が、さっと視界を塞いだ。その背中越しに、こちらを見ている男と目が合う。

「……鶸」

 相変わらずのきちんとした身なりに烏帽子もかぶっているが、この男は東雲の忍びだ。

 鶸がいるということは、東雲もいるのか?

 鶸は孫九郎へは一瞥を投げかけただけで、寒月様に向かって丁寧に頭を下げた。

「こちらでお二方を保護しております」

 隠すつもりもない京訛りを聞いて、寒月様の表情がみるみる間に歪んだ。

 安堵と、喜びと、もっと複雑な何かだ。

「書簡を受け取ってすぐに、英虞へ向かおうとしたのですが、すでに姫様は若君を連れ脱しておられました」

 鶸によると、それは今川による救出とはまた別の、おそらく鈴主導によるものだったらしい。

 おかげで、今川の忍びと鶸らとのブッキングが発生し、鈴ら三人との三つ巴、いや和具の追手がかかったらしいので四つ巴の逃走劇が繰り広げられ、最終的には九鬼の海賊衆に見つかったところで終わった。

 九鬼は万千代君とその“お付きの二人”を保護し、丁重に扱ったという。

 九鬼の本拠地は和具と近すぎるので、拠点には留め置かず神島までおくってくれたのだとか。

 つまり、最初に神島に入った船が九鬼のもので、続く三隻は九鬼と同盟を組んだ的矢の海賊衆だそうだ。

 そうか。英虞衆でないなら敵対する必要はない。

 孫九郎は、こちらも顔色が悪い次郎三郎に助け起こされながら立ち上がった。

 駄目だ、まだ眩暈と吐き気がする。

 なんとか吐くのを堪えて俯いていると、沖合でカンカンと鳴り物を激しく叩く音がした。

はっと顔を上げる。

「英虞衆だ!」

 誰が言ったのか、どこから聞こえたのか。

 孫九郎のいる神島の湊からは見えない場所に、どうやら敵の海賊衆が迫っているらしい。

 今川の水軍に気づいていないのか?

 神島の陰になって、見えないのかもしれない。

 孫九郎はへっぴり腰で木箱に両手をついた。

 こんな時なのに……駄目だ、吐きそう。

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― 新着の感想 ―
断章でここらへんの詳しいところは絶対読みたい できれば鈴視点で
車酔いでもそうですが、酔いそう、酔ってしまう、と自己暗示みたいに思っているほど、実際に気持ち悪くなってしまうんですよね(笑) 闘いの最中になったら船酔いも忘れてしまいそう。そして一度平気になると自信が…
焦らしすぎ
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