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夏颯記  作者:
駿河編2

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11-5 三河 伊良湖1

 正直、一生分の胃液を吐き出した気がする。

 清水九兵衛の、「風も波も穏やかです」の言葉に騙された。

 穏やかな日でも、太平洋の波は高いのだ。

「御屋形様は、海に好かれておられます」

 元気にそう言った九兵衛のわき腹を、興津佐兵衛がさりげなく突いている。

 九兵衛はたちまち不安そうな表情になって、桶を抱きしめている孫九郎に気づかわし気な目を向けた。

「だ、大丈夫ですか」

 九兵衛はもう一度強く肘で突かれて、「うっ」とうめき声を漏らした。

 佐兵衛が正しい。これで大丈夫に見えるなら目がおかしい。

 孫九郎は桶を抱く腕に力を込めた。

 船には乗らない。二度と乗らない。

 固く強く自身にそう言い聞かせても、この時代の唯一のショートカット手段だ。またすぐそんな機会が来てしまう気がする。

 やがて船が、渥美半島の先端をぐるりと旋回する。

 その瞬間、三半規管が混乱し、酸っぱい匂いのする桶に顔を突っ込む。

 だが、半島の横を通り過ぎたところで、素人でもわかるほどに波が変わった。

 孫九郎は桶から顔を上げた。

 鮮やかな夕日に照らされた海が、美しく輝いている。

 全体的にオレンジ色に染まった世界に、目的地の三河湾が見えた。


 沖で錨を下ろした船を降り、小舟で伊良湖の入り江へ漕ぎつけた。

 這うようにして桟橋に降り立った瞬間、膝が砕けて座り込んでしまった。

「はははは、随分とやられましたな!」

 ほぼ半年ぶりに見る井伊殿の顔は、ものすごく日焼けしていた。

 城に籠るより外で働くことが好きな男の顔だ。

 大声で笑われて、ため息を返す。親友の桶を抱きしめたまだ。

「これも慣れにございますよ」

 皆が言うが、本当だろうか。

「……慣れる気がしない」

 乗馬に慣れたように、いつか船にも慣れる日が来るといいのだが。

「話しておいた方が良いことがございます」

 波止場で座り込んでいた孫九郎は、黙って井伊殿を見上げた。

 沈む夕日が影を増し、日焼けした井伊殿の顔から歯と目だけが白く浮いて見えた。

 優しくない。少しは休ませてくれてもと思うと同時に、それでいいとも思う。

 孫九郎は桶を脇に置いて、立ち上がった。

 ぐらり……と、軽い回転性の眩暈がする。

 それは一瞬で、すっと収まった。

 

 ここは渥美半島の先端、伊良湖の湊だ。清水よりもかなりコンパクトな入り江だった。

「それほど多く船を置くことはできないな」

「ええ、西の浜をずっと行った先に、渥美湾があります。船団の本隊はそちらに置くのがよろしいかと」

 孫九郎はゆっくりと波止場を歩いた。一応木の板を打ち付け、荷を置くことができるようになっているが、簡易なものだ。

 宿などという立派なものはなく、漁師の小屋が点在している程度。聞くところによるとこの辺りは風のあたりが強いので、見えている山の反対側に集落があるらしい。

 井伊殿は相変わらず、孫九郎の歩幅に合わせて歩いてくれる。

 優しくはないが、気は使う男だ。

「話というのは」

「少し先に浦の長の屋敷があります。そちらで」

 孫九郎は頷き、まだ酸っぱい匂いのする息を吐いた。

 歩きながら、夜になりつつある海辺の風景を眺める。

 遠くに幾つもの島影が見える。いや三河湾の対岸かもしれない。波は太平洋よりもずっと小さく、静かだった。

 ふと、入り江の向こうに見えた白浜に、いくつもの小舟が乗り上げているのが見えた。

 孫九郎が来るから船をそちらに移したのだろうか。

 だとすれば申し訳ないと思いつつ、頭の片隅に、志摩の海賊衆のことが過った。

「……浦の長というのは、漁師の長か?」

 井伊殿がちらりと孫九郎を見て、肩をすくめた。

 肯定も否定もしないことが、答えだった。

 どうやら孫九郎の支配下には、まだ知らないことがあるようだ。


 しばらく歩いているうちに、気分が良くなってきた。

 夜風が心地よく頬を打つ。

 潮の匂いと波の音とが、独特の静けさを生み出している。

 やがて篝火のあかりが見えてきて、次いで小規模な集落があるのがわかった。

 案内されたのは、屋敷というには小さいが、庄屋というには大きな構えの建物だった。

 入り口にもまた篝火が焚かれている。

 そしてその簡易な門の前に、十数人の男たちが平伏していた。背後には、家族とみられる女子供もいる。

 立っているのは武士だけで、それは井伊殿の家臣のようだった。

 孫九郎は平伏する家人たちの前で足を止めた。

「面倒をかける」

「……はっ」

 先頭で平伏しているのが浦の長だろうか。額を土につけたまま、くぐもった声で答えた。

 孫九郎らが来たことによって、彼らはしばらく家を明け渡さなければならない。

 迷惑をかけている自覚がある。

 だがこういう時に、武士が民家を借り受けるのは、この時代ではごく当たり前のことなのだ。

「ここの女房殿がうまい魚をさばいてくれましたよ」

 井伊殿はウキウキした口調でそう言って、皆を中に導いた。

 お前の家じゃないだろう。

 孫九郎はそんな突っ込みをしかけたが、黙ってその案内に従った。

 足を踏み入れて、すぐに気づいた。

 入り口にも、奥のほうにも、武士には見えない者たちが複数名いる。

 全員がその場で膝をつき、頭を低く下げている。

 警戒した谷ら護衛たちを、孫九郎は手の一振りで押さえた。

「この者たちは?」

「三河の海賊衆です」

 暗がりで、井伊殿の声が低く響いた。

 見えなくても、にやりと笑っているのがわかった。

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― 新着の感想 ―
九兵衛さんの悪意ゼロの無邪気さが(笑) 乗り物酔いの原因 1.揺れに対する脳の処理が追いつかない 2.空腹時or満腹時の時に乗り物に乗る。 3.寝不足 4.ストレス その他色々 孫九郎くんほとんど当…
井伊殿が出てくるとすごく安心感がある 軍師2人のように勝手なことをしない腹黒タイプ
孫九郎の消極性のおかげで動いていなかった西方面、特に駿河、伊豆では一定の統率が進んだ海賊たちが水軍衆としてまとまっていく流れになっていくのかな。 三河は当然(勢力下と言い切れるか微妙だが)として志摩の…
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