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夏颯記  作者:
駿河編2

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11-6 三河 伊良湖2

 どっと声が上がる。

 歓声というには太いのは、宴に参加しているのが男ばかりだからだろう。

 飯と酒が入って、海の衆はあっという間に気を緩めた。

「いやいや、うまいのぅ」

 真横の酔っぱらい(井伊殿)が、はやし立てられるままに杯を空け、酒臭い息を吐いた。

「御屋形様も一献……そろそろ酒ぐらいよろしかろう」

 いいわけあるか。

 孫九郎は溜息を飲み込んで、武骨にぶつ切りにされた魚をつまんだ。

 うまいはうまいが、まだ船酔いが抜けきれないので、多くを腹には入れたくない。

「魚は如何か、夕刻に揚がったばかりの上物ですぞ」

「うちのカカア自慢の糠漬けを是非食ってくだされ」

 近い。距離が近い。しかもどいつもこいつも酒臭い。

 最初のうちは随分と緊張していたようだが、井伊殿はこんな風だし、孫九郎も文句は言わないので、場が盛り上がるのは早かった。

 雰囲気はさながら、どこかの町内会の飲み会だ。

 孫九郎は急かしたい気持ちを堪えて、黙ってぬか漬けをつまんだ。

 夜の間は動きはないだろうから、待つ時間だ。

 志摩の状況の把握もそうだが、こちらの態勢を整えるにもしばらくかかる。

 三河湾の海賊衆とよしみを通じておくのも大事なことだった。

 何回目かに、女衆のひとりが部屋に入ってきた。控えめな仕草で、大きめの徳利が乗った盆を運んでいる。

 彼女は、孫九郎の真向かいに座っていた男に、何やら耳打ちした。

 スッと、酒精に染まっていた男の顔が引き締まった。

 他に合図があったわけでも、何かを言ったわけでもない。

 だが一瞬で、場の空気が変わった。

 これまでは途切れず陽気に喋っていた飲んだくれどもが、黙って杯を置く。

 そのカツカツと固い音が、やけに規則正しく続いた。

「来たか」

 井伊殿がよく通る声でそう言った。

「へぇ」

 女に耳打ちされた男が、まだ赤く染まった顔のまま、ニイッと歯をむき出しにして笑う。

「さすがにまずいと思うたのでしょう」

 井伊殿は頷き、まだ手に持っていた盃を一気に煽った。

「龍の尾を踏んだことにようやく気付いたか」

 その声は低く重く、寸前までの陽気さは鳴りを潜め、正直ものすごく恐ろし気だった。

 何も知らぬ者なら、武士ではなく海賊衆の頭領だと思ったかもしれない。

 飲み干された盃は、叩きつけるように床に置かれた。

「では、言い訳を聞いてやろう」

 立ち上がった井伊殿は、勢いよく酒臭い息を吐いた。

「御屋形様はこちらでお待ちを」

 ひっくと小さなしゃっくりが聞こえて、孫九郎はたちまち不安になった。

 こいつ、酔ってるぞ。

「某が九鬼の若造に身の程をわからせてやります」

 ……本当に大丈夫なのか?


 不安だったので後ろから突いていったのだが、ずんずんと歩く井伊殿の足取りは意外としっかりしていた。泥酔状態ではないならいいとは言えないのだが。

 浦の長の家を出て、視界を遮る木立を迂回したところで、眼前が開けた。

 夜の三河湾だ。

 少し前までは静かに夜の色をまとっていた海に、幾つもの船の灯りが浮かんでいた。

 海という母体が大きいのでそれほどの数には見えない。だが、十や二十ではない。

 暗いのでよくわからないが、大きな船でもないと思う。

 それでも、これほどの数の灯が海にともっているのは、はじめて見る光景だった。

 まるで、夜空の星が落ちてきたような。

「……美しいな」

「はい」

 思わずこぼれたその言葉に、身構えるほど近くから返事があった。

 ぎょっとしたのは、それが承菊の声だったからだ。

「いたのか」

「はい」

 従順で折り目正しい返答だ。だが、下弦の月のほのかな明かりの下でもはっきりわかる、白い面の柔和な笑顔にぞわっと鳥肌が立った。

「志摩の海賊衆は、握った宝をなんとかうまく金にしようとしているそうです」

 承菊は、一歩後ずさった孫九郎にぐいと顔を寄せた。

 夜の風と波の音に紛れるような声だった。

「九鬼はそれを危ういと感じています」

「何故わかる」

「宝を握っているのは志摩の海賊衆です。真っ先に来たのが九鬼です。しかも夜のうちに」

 承菊は、孫九郎が陽気な酒盛りに強制参加させられている間に、情報収集をしたようだ。

 孫九郎は、星空の下に広がる灯りをともした船団に目を戻した。

「興津は」

「明日の朝になると聞いています」

「九鬼は話し合いにきたのか? 攻め込みに来たのではないか?」

「今川領にですか?」

 承菊はふっと笑った。承菊だけではない。その後ろにいた井伊殿の家臣も、孫九郎の配下の者たちも、皆が微妙な顔をして唇をゆがめている。

「興津の水軍はともかくとして、三河でもこれだけの数が待ち構えています。志摩の海賊ごときに何ができると?」

 だが愛姫がいる。万千代君がいる。

 今頃どんなに不安な思いをされているだろうと、ぎゅっと胸が詰まった。

「志摩の海賊衆が望むのは銭です」

 ひときわ大きな船が沖合に停まっていて、そこに小舟が集まってきている。孫九郎はそれをじっと眺めながら、頷いた。

「船の底が抜けるほどの銭をくれてやろう」

「ええはい。奥平様がひっくりかえりそうになっておられましたな」

 くすくすと笑う声が、悪魔的に聞こえるのは孫九郎だけだろうか。

「御屋形様もお人がお悪い。無事にお二方を連れてきたところだけに銭を渡せば、志摩は揉めます。……それを恐れて、九鬼が出てきたのでしょう」

 この男に“人が悪い”と言われるのは不本意だ。

 だが、狙いはまさに仲間割れだった。

「九鬼は、こちらの思惑に気づいたか」

「身代金を払うのが今川家だと聞いて、危ういと感じたのでしょう」

「……聞いて?」

 孫九郎が渥美に水軍を集めるように命じたのは二日前、清水湊でだ。身代金を払う先を九鬼が知るには早すぎる。

「井伊殿が、うまく噂をばらまいたようですよ」

 井伊殿が命じられたのは出兵の支度だ。

 奥平から知らせを受けて、井伊殿はすぐに情報収集をしてくれたのだろう。

 結果、水軍を動かすだろう、伊良湖に来るだろうと予測したのか。

「たいした狸です」

 孫九郎の内心の声のままに、承菊が呟いた。

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― 新着の感想 ―
真っ先に九鬼が来たか。志摩13地頭の中でも毛色が違う跳ねっ返りだから抜け駆け狙いか?
井伊殿が狸で、承菊がキツネ 勘助は、赤鬼かな?
「たいした狸です」←おまいう
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