11-4 駿河 清水湊3
「奥平様がいらっしゃいました」
与平の病室の前で立ち尽くしていた孫九郎は、土井にそう声を掛けられはっとした。
「御屋形様」
廊下を曲がってきた見慣れた男が、少し離れた場所で立ち止まり一礼する。
「甲斐と相模に兵を裂いております故、多くは動かせませぬ」
挨拶もない唐突なその物言いは、奥平らしくない早急さだった。
孫九郎はその時になってようやく、周囲からの凝視を浴びていたことに気づいた。
握りしめていた拳を解き、詰めていた息をひとつ吐く。
「わかっている」
返した声は固かった。
奥平の目がちらりと、与平の病室のほうを見る。
「ずいぶんと早い御戻りでしたので、まだ支度が整っておりませぬ」
「……待て」
孫九郎は軽く手を上げ、先走るなと押しとどめた。
天王寺屋と話をして、もう少し考えてから次の一手を決めるつもりだった。
だが奥平は、早々に戦支度をはじめようとしている。……こんなに好戦的な男だったか?
孫九郎はまじまじと、奥平の顔を見返した。
寒月様は烏帽子親だし、孫九郎と一条家とのかかわりが大きいのは事実だ。だがそれは、兵を動かす理由には浅い。今川家にも、支配する国にも、直接の関係はないからだ。
奥平なら、様子を見るべきと言うだろうと予想していた。
そこまで考えたところで、孫九郎は己が、兵を動かす言い訳を考えていることに気づいた。
「井伊殿に、支度を急がせております」
折り目正しく一礼した奥平は、孫九郎の思考のはるか先をいっていた。
「兵糧などは予備の備蓄をあて……」
「待て、いいから待て」
もう一度止めると、奥平は素直に「はい」と頷いて黙った。
孫九郎は気持ちの整理のために、数度深呼吸をしてから口を開く。
「志摩に攻め込むのは合理的ではない」
それは理性だった。間違ってはいないと思う。
同時に、本音ではないと自分でも気づいていた。
「道中に幾つの国があると思う」
「御屋形様にしては珍しく気弱な」
孫九郎の、かろうじてかき集めた理性を揺さぶったのは、温和で優し気な声だった。
「水軍には水軍を当てればよろしいのでは」
皆が一斉に見た先には、緊張した表情の天王寺屋とともに、墨色の法衣の承菊がいた。
場所を変え、天王寺屋が棟借りしている宿の一番広い部屋に落ち着いた。
恭しく頭を下げられ、上座を進められて座る。
そこで語られた承菊の策は、陸路を攻め込む方法ではない。
孫九郎が水軍と聞いてパッと思い浮かぶのは、興津水軍であり、九兵衛の清水水軍のことだが、承菊が言っているのは、志摩にあるほかの勢力のことだった。
「今川側の湊への入港を許すと言えば、喜んで姫君を取り戻してくれましょう」
「若君もだ」
「ええはい、もちろん」
承菊は、意味ありげにニコリとほほ笑んだ。
奥平が大げさにうんうんと頷いているのを見て、なんとなく、この男が張り切っている理由がわかってしまった。
愛姫は孫九郎と年頃もあい、摂家の姫君というレア中のレアな存在だ。
丁度破談になったというし、孫九郎も気にかけているようだし、願ってもない正妻候補だと考えたのだろう。
とんでもない。
愛姫は帝の皇子に嫁ぐはずだったお方だぞ。孫九郎では到底身分が足りない。あまりにも失礼だ。
孫九郎の頭の中では、愛姫はまだ四年前の頑是ない姫君のままで、婚姻相手というよりも守るべき妹分だった。
万千代君もそうだ。あのお子も孫九郎をたいそう慕ってくれていた。
どちらも、なんとしてでも無事に保護しなければ。
「……入港を許す? いや、商船を襲う輩にいい顔をするつもりはない」
「入港を許すだけで、湊を渡すわけではありませぬ。今までは近づくことも許しておりませんでした」
「そんな連中に寄港を許せば、こちら側でも仕事をしようとするに違いない」
「複数の水軍がまとまる前に、まずは綱を引いてみるべきです」
志摩は小さな国だ。農耕可能な土地はほとんどなく、海とともに生きていくしかない。
武士の多くが船を持ち、そんな小勢力の集団がいくつかある。
一条家の姉弟を身代金目的で拘束しているのは、そのうちのひとつだそうだ。
確かに、まとまりのない集団なら分裂させるのは悪くない手かもしれない。
下手に強い力で攻め込むと、本来ライバルであるはずの海賊衆が、一致団結してこちらに向かってくる可能性もあった。
孫九郎は腕組みをした手をトントンと指で叩いた。
どうするのが最善だ? 迷っている時間はない。
だが、誤った選択をすれば取り返しがつかないことになる。
「……まとまればどれほどになる?」
しばらくして孫九郎は尋ねた。
志摩水軍についての情報は、ほとんどない。気を配るほどの勢力ではなかったからだ。
「……興津でも手を焼くのでは」
奥平の返答は自身なさ気で、承菊も詳しいことはわからないようだった。
「弥太郎」
「はい」
「志摩の内情を探るのにどれぐらいかかる」
「人は既に向かわせました。五日もあれば」
「おおよそでよい。勢力、人物、特にお二方がいる場所だ」
部屋の隅にいた弥太郎が、両手を床についた。
「奥平」
「はい」
「志摩のことは、井伊殿が詳しいのではないか」
普通の顔をして部屋を出て行った弥太郎を見送ってから、思いついて聞いてみる。
奥平は今更、「ああ!」と声を上げた。
「そう言えばそうかもしれませぬ。志摩の水軍衆にも、伝手があるやも」
思考が滑らかに回り始める。
パタパタと、頭の中で状況が折りたたまれていく。
孫九郎はしばらく宙を見て考えて、うなすいた。
「水軍を渥美へ」
「いかほど」
奥平がすっと背筋を伸ばして問う。
「興津にあるだけの船を」
周囲の空気が引き締まった。
いよいよ海戦かと思ったのだろうが違う。
「伊良湖あたりに船団を置き、交渉に入る」
「交渉ですか」
承菊が、綺麗に剃り上がった頭を斜めに傾けた。
孫九郎は、にっと唇の両端を持ち上げた。
「天王寺屋、相手は身代金を欲しがっているのだろう?」
「……はい」
急に声を掛けられた天王寺屋が、随分と警戒した表情でこちらを見ている。
「払ってやろうではないか」
孫九郎はそう言って、小さく息だけで笑った。




