24-4 伊勢 田丸城14
長野の軍勢が勇ましく鬨の声を上げる。
それにつられるようにして、他の北伊勢衆も足を鳴らす。
孫九郎は小さな頷きを返した。
長野殿が最後に一礼をして、馬にまたがった。
まだ山下の容体は安定しない。危篤に近い状態だと思う。体力がなければ、とっくにあの世に行っているだろう。
それでも長野殿は、動くことを決めた。
北伊勢の事を考えてというよりも、梅戸の動きを警戒してだ。
直接約定を結んだわけではない。山下はまだ田丸城で預かっているが、それが人質になっているわけでもない。
だが、言わずともわかる。
あの目は、同じ北伊勢衆を信頼していない。腹に何かを秘めている顔だ。
「……行きましたね」
傍らで、次郎三郎がつぶやいた。
「そうだな」
孫九郎も、似たような温度で頷いた。
北伊勢の国人領主たちは、賑やかで気のいい男たちだった。
酔っぱらって騒ぎ、大声で笑い、だが腹の中では違うことを考えている。
「信濃の国人衆も、似たような感じでした」
次郎三郎はぽつりと言って、城から遠ざかっていく軍勢を見送った。
「昨日までは肩を汲んで酒を酌み交わしていた相手を、隠した衣の下で刺そうとするのです」
随分と教育に悪そうな考えだ。そう思って振り返ると、次郎三郎は横目で幸松を見ていた。
幸松は首を傾け、よくわからないという顔をしている。
山下に肩入れするなという忠告だろうか。
「そんな奴ばかりではない」
「はい、もちろんそうです」
孫九郎の言葉に、次郎三郎は真顔で頷いた。
「常にその心づもりをしておくべきだと思うだけです」
「御屋形様」
幸松が明朗な声で言った。
「御屋形様への裏切りは、この幸松が許しませぬ故、ご安心を」
孫九郎はまじまじと、ひとつ年下の弟を見上げた。
身体だけは、その辺の大人よりも大きいが、顔立ちはまだ幼い。だが、その邪気のないニコニコとした笑顔は、きっと見た通りのものではない。
「……そうだな」
孫九郎は、頭を撫でようとした手をひっこめた。すでにもう、手を伸ばさなければ届かない身長差だ。
この子が衣の下に反逆の刃を持っているとは思わない。
それは信頼ではなく、火が燃え川の水は流れるのと同様の、世の摂理だ。
ざっざと規則正しい足音がして、そちらを見ると、黒衣の渋沢隊が足並みをそろえて近づいていた。先頭にいるのは、完全武装の見慣れた男前だ。
「城の門を閉ざしました」
孫九郎は頷きを返す。
これで、城内にいるのは今川軍だけだ。
田丸城は戦時の態勢に入る。
「防衛は井伊殿の指揮に従え。そのほうは大手門の守りに専念しろ」
「……はっ」
渋沢の顎の下で、黒い組紐が揺れる。それですら美しく見えるのは、この世のバグだな。
今の季節、誰もが汗臭いのに、あの男の周りだけ薫風が吹いている気がする。
……気がするだけだが。
「風呂に入りたい」
渋沢隊を見送りながら、孫九郎がポツリとそうこぼすと、小姓たちが下を向いて笑った。
たぶん、気持ちはわかってくれたと思う。
北畠家との交渉が始まった。
こちらの交渉人は承菊。相手方は、北畠家家老の坂内右近将監殿だ。
坂内殿は、北畠家の一門衆だそうだ。
田丸殿の政敵だとか、そんな話も小耳に挟んだが、正確なところはわからない。
交渉の場には、外宮にほど近い光明寺が選ばれた。
臨済宗の寺で、承菊とは宗派が同じだ。しかも、古くから北畠家とも縁があるという。
互いに兵を近づけず、供回りの人数を限ることで話がまとまった。
孫九郎が加わることは、全方向から却下された。光明寺なら、危険は少ないと思うのだが。
「いいえ。不用心でございます」
そう言ったのは弥太郎だ。
「忍びが複数、紛れ込んでおります」
いつものことだろうと返したのだが、弥太郎の表情は珍しく険しかった。
「おそらく、甲賀衆です」
甲賀? ……それはつまり、六角か?
六角家が甲賀を支配領域に治めていて、忍びをよく使うというのは、京にいた頃に聞いた。
「承菊は大丈夫なのか?」
「影共を増やしました」
承菊は僧侶なので、あの男自身が刀や槍を持って身を守るというイメージはない。交渉は井伊殿に任せた方がよかっただろうか。
コツコツと、脇息を指で叩く。
孫九郎が考え込んでいると、弥太郎がスッと飲み干した薬湯の湯呑を回収した。
「こちらも増援を呼びたいのですが」
「呼べる増援があるのか。どこかを手薄にはしなくない」
「ここが最も手厚くするべき場所です」
あまりにも静かな口調だったので、気づかなかった。
弥太郎の顔に、いつもの笑みがない。
「……それほど多いのか」
「はい。隠す気もないほどに」
風魔衆は優秀だが、数がいない。いや、一国を守るぐらいなら十分なのだろう。だが、三河遠江駿府に加えて、伊豆相模。そこからさらに甲斐に伊勢志摩。
人員には限りがある。ない袖は振れない。
ふと、常に側にいるこの男が、いつ休んでいるんだろうといういつもの疑問に行き当たった。
ますます忙しくなれば、いつか過労死するのではないか。
いや弥太郎がいないのは困る。
「甲賀といえば伊賀だな」
ぽつり、と言葉がこぼれた。
孫九郎の視線は、揺れる簾の方に向いていたが、弥太郎が無言で固まったのが見えた。
「……何故そうお思いになられたのか、お伺いしても?」
しばらくして、おそるおそるといった風に尋ねられて、はっと我に返る。
未来の記憶でそう思った、とは言えない。
孫九郎は軽く首を振った。
「佐吉を呼べるか」
まだ清水にいるだろうか。
あの男は伊賀の忍びだ。立派な伝手だろう。




