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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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24-3 伊勢 田丸城13

 北伊勢衆がどう動くかを、注意深く見守った。

 梅戸が保々西城に攻め込んだことが、彼らに大きな危機感を抱かせるのはわかっていた。

 もちろん、その背後に六角家を見ているからだ。

 梅戸に近い領地の者と、そうでない者とでも、意見は分かれる。北畠との和睦を考えるべきだという意見もあった。梅戸を協力して叩こうという意見もあった。

 そんな、紛糾した話し合いをまとめたのが、長野殿だ。

 腹が座った男は、言うことが思い切っている。

 長い話し合いの末、北伊勢衆は、今川家との協力関係を続けることを選んだ。

 それは、軍事協力を含んだものだった。

「……いいですね」

 報告を受けて、承菊が笑う。

 孫九郎は笑えない。井伊殿も笑っていない。

 何故なら、直前に北畠軍が動き始めたという知らせが入ったからだ。

 北へ戻る道を塞がれては、北伊勢衆は戻れなくなる。その前に、今川の協力を取り付け、雲出川より北に引き上げようとしているのは明白だった。

 彼らは北畠の領地のいくらかを切り取った。もちろんそれを手放すつもりはないだろう。

 断言できる。北伊勢衆は、取り返しに来た北畠家の相手を、今川に押し付けるつもりだ。

 軍事的な協力体制は、こちらも望むものだが、ただ盾になるだけでは、たいした旨味はない。

 そんなものに、配下の命を掛けさせるつもりはなかった。

「承菊」

 声を掛ける。

 こちらを見た墨色の法衣の男は、誰が見ても上機嫌だとわかる表情で笑っている。

「北畠と六角が、婚姻によって手を組むなら……」

「御屋形様」

 伊勢から手を引く。そう言おうとした言葉は遮られた。

「北畠家のご当主を、そろそろお返ししてもよろしいのでは」

 承菊と視線が重なった。

「交渉に丁度よい頃合いです」

 孫九郎は反射的に眉間にしわを寄せたが、承菊はにこやかなままだった。

 何を考えている……と、尋ねるべきタイミングだったと思う。

 だが、その目の奥に明らかな熱を感じ、とっさに言葉が出てこなかった。

 これまでは、庵原に対する深く暗い怨嗟があった。それと同じ場所に、別の何かがある。

 あまり触れたくない、熾火のような熱だ。

「……ずっと聞かねばと思うていた」

 孫九郎はゆっくりと口を開いた。

「何故、命じてもおらぬ田丸を落とした」

 承菊の大きな目が、三日月の形に細くなった。

「丸々と太った、食いでのある獲物だからか」

「それほど美味くはありませんが……食う意味はあります」

 承菊は孫九郎の前に、伊勢の国を転がした。さあ食えと。

 どこから狙っていたのだろう。伊勢で己の名を使われたことも、暴行を受けたことも、もしかするとその策のうちだったのか。

 すっと衣擦れの音がした。承菊が墨色の法衣の袖を軽く後ろに払ったのだ。

 その動きは小さいものだったが、意味があるもののように見えた。

「伊勢を抑えれば、畿内が見えます」

 声は大きくない。だがその声には艶があり、やわらかく湿っている。

「手が届きます」

 それはまるで、悪魔のささやきのようだった。

 ぐう、と誰かが唸った。

 それは井伊殿のようであり、藤次郎のようであり、他の側付きや護衛の誰かのようでもあった。

 ただ孫九郎は黙っていた。

 うっとりとほほ笑む承菊の顔を、見つめ続けた。

 余計なことをするなと叱責するべきだ。そう思うのに、できなかった。

「……畿内か」

「はい」

 孫九郎は深く息を吸って吐いた。

「まだ早い」

「はい」

 承菊は、当たり前のような顔をして頷いた。

「あと十年……あるいは二十年」

 そう言って、改まったように両手を前について頭を下げる。

 美しい所作だった。

「準備はしておきませんと」

 まさか何十年後かの上洛の日のために、伊勢が必要だというのか?

 昼下がりの陽光が、簾の向こうから差し込んでいる。

 風はあまりない。

 承菊のきれいに剃り上げられた頭頂部が、淡い日差しを斜めに浴びている。

 孫九郎の胸に去来したのは、戦国時代を終わらせるのは己ではない。そんな確信だ。

 織田信長。豊臣秀吉。徳川家康。

 日本人なら誰もが知る、長い戦国時代を終わらせた武将たちの名前を思い浮かべる。

 平和な時代が来るまで、おそらく五十年以上はかかる。百年近いかもしれない。

 孫九郎が生きているうちに、その日が来るのかも怪しいが、いずれ訪れる平和な時代に、今川家を、孫九郎が大切にする人々を、生かして連れて行きたいと思う。

 だがそれまで戦の世は続く。十年、二十年、三十年。

 戦乱の世がこれから激化していくのを、孫九郎は知っている。

 知っていて、ただ見ているだけか?

 ……本当にそれでいいのか?

 気持ちは波立たなかった。

 ただ、言語化できない何かが胸の奥にあるのを認めた。

 改めて、承菊のつるつるの頭を見る。何度見ても、見事な剃り具合だ。

 恐ろしいことを考えるなと、咎めはしなかった。

 言わずとも、こちらの思いなど見透かされているのだろう。

「承菊」

「はい」

「今すぐその頭を叩かれるのと、あと十年黙っているのと、どちらかを選べ」

 静まり返った室内に、微風で簾が揺れる音がする。

 顔を上げた承菊がかすかに笑った。

「叩くのですか」

 孫九郎はふっと視線を外し、手に持っていた扇子を口元に当てた。

 黙っていろという意味だったが、承菊はわかっているだろうにそれをスルーした。

「わかりました。十年ですね」

 ……余計なことを言ってしまった。

伊勢編で一番書きたかったところ

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― 新着の感想 ―
伊勢編で一番書きたかった所は此処なのですね。 >気持ちは波立たなかった。 >ただ、言語化できない何かが胸の奥にあるのを認めた。 意外でした。でも面白いですね。 もうこの時代の勝千代の人生を歩まれて…
既に武田信玄は舎弟も同然で 上杉謙信は村上殿経由で仲良くなれそう?で 徳川家康は生まれてもたぶん傍流で。 未知数なのは信長・秀吉かな。 義元ですら、桶狭間で不覚さえ取らなければ天下人だった可能性が高い…
承菊様、もしかして かなり、とっても、御屋形様大好き?? そうでなければ、この様な事しませんよね? 自慢の、大好きな御屋形様に天下を取って欲しい! その為ならいくらでも働きますと言っていますよね?
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