24-2 伊勢 田丸城12
病室から出てきた長野殿の顔色は、こちらが病人だと言われても納得できるほどに悪かった。
待ち構えていたわけではないが、廊下で行きあい、長野殿がはっとしたように足を止める。
お互いに無言のまま向き合った。
しばらくして孫九郎が頷くと、長野殿はぐっと唇を引き締めてから頭を下げた。
「すぐには動かぬことだ」
一礼してすれ違おうとした長野殿に、つい余計なことを言ってしまった。
双方ともに立ち止まり、たっぷり数十秒間の沈黙が続く。
孫九郎はすぐに視線を逸らせたが、長野殿は強い視線でこちらを見据え、やがて苦渋を飲み込んだような皺枯れ声で聞いてきた。
「……辛抱しろと?」
長野家の内々の事情はわからない。だが、古くから側にいた下男による裏切りは、その向こうにある何かを明らかにしたのだろう。
だがそれは珍しい事ではない。裏切りも、陰謀も、誰かの野心も。
生き残った方が正義。それがこの時代だ。
孫九郎は、庭先に向けていた視線を戻した。
そして歩をすすめ、こわばった表情の長野殿の顔を下から覗き込んだ。
「何を耐え、何を信じ、何を選ぶかは……己で決めろ」
長野殿は、衝撃を受けたように息を飲んだ。そして、よろりと後ずさった。
孫九郎は気にせず、そのまま廊下を進んだ。
後ろから長野殿の凝視を感じたが、振り返らなかった。
厠から戻り、再びその廊下に通りかかった時、すでに長野殿の姿はなかった。
代わりに、藤波屋敷に使いに出した次郎三郎が立っていた。
色黒の青年がこちらを見て、頭を下げる。
「土井殿が、握り飯を用意してくれるそうです」
次郎三郎は腹をこすりながら、道中の足元の悪さに文句を言う。
時刻は丁度昼時だ。この時代は朝晩の二食が普通だが、途中に軽食を挟むのもよくあることだ。
帰還の報告より先に、空腹の訴えをされて、笑ってしまった。
「二の丸での話し合いは、いかがですか。まとまりそうですか」
居室に戻る途中、ついでのように尋ねられたのにも笑った。
空腹よりも足元の悪さよりも、その話を聞きたかったのが丸わかりだ。
孫九郎はちらりと、もと来た廊下を振り返った。
そこに立っていた長野殿は、すでに二の丸に戻っている。
「じきにまとまるだろう」
それは確信だった。
「藤波屋敷のほうはどうだった」
歩きながら尋ねると、次郎三郎は少し鼻頭に皺を寄せた。
「よくはありません」
解釈に困る返答だ。
「よくないとは、どのように」
「大声で話せない程度には、ひどいものでした」
次郎三郎の声はよく通るので、聞き耳を立てていたら誰かに聞かれるかもしれない。
その警戒が必要なことがあったのか。
居室に戻り、まだ側付きたちが全員あつまっていないうちに、こそこそと小声で話を聞いた。
なんでも、北畠家の使者を内宮の禰宜のひとりが受け入れようとして、その件が大きな問題になっているのだそうだ。
祭主様は、卒中を起こしそうな勢いで激怒し、先生はそれをなだめながら内宮と藤波屋敷を往復し、“秘密の場所”にいる北畠殿はちょっとだけ調子が悪いそうだ。
さらりと聞かされたら、眉間に小さな皺を寄せる程度の内容かもしれない。
だが最後の北畠殿については、かなり重要だった。
「鶸が尋問をしているのだろう」
体調を考えずに拷問などということはないと思うが。
「実際に見てはおりませんので、尋問といってもどの程度かはわかりません。ただ、御屋形様には断じて会いたくないと言うているそうです」
「……それもどうなんだ」
「おそらくですが、恭一郎殿が恐ろしいのではないでしょうか」
孫九郎は唇を閉じ、コテリと首を傾けた童顔の小姓を横目に見た。
鶸に引き渡す前に、急ぎで尋問をさせたのは確かだ。
だが川から引き上げ、命を救ったのもこいつだぞ。
「恭一郎殿がいないと言えば、会うことを了承するかもしれません」
そこまではっきり言うということは、確信があるのだろう。
恭一郎は、心底わからないといった表情をしている。
「御屋形様が譲歩する必要があるのですか?」
「ありません」
次郎三郎はあっさりとそう言って、ようやく思い出したように懐を探った。
取り出したのは、いくらかくたっとした書簡だ。
「申し上げました通り、またも北畠が交渉の糸口を辿って祭主様に会おうとしています。その事について岩出様から書簡を預かってまいりました」
先生は内宮と藤波屋敷を行き来して、お忙しいという。
東雲は外宮を回って目を光らせている。
この二人が協力して北畠家の介入を防ごうとしているが、それでも、長年この地に根付いた関係性は解けないのか。
孫九郎は、渡された書状を開いた。
見覚えのある先生の文字が、優雅に綴られている。
多少急いで書き記した様子ではあるが、崩れたところのない美しい手だ。
一読して、顔をしかめた。
禰宜たちが、なおも北畠家との縁を手放さない理由がわかった。
神宮に奉納されたうちのいくらかが、恒常的に禰宜家の懐にはいっており、その弱みを北畠に握られていたのだ。
神に仕える者とて、俗世の欲からは逃れられないらしい。
……祭主様の血管が心配になってきた。




