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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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210/212

24-2 伊勢 田丸城12

 病室から出てきた長野殿の顔色は、こちらが病人だと言われても納得できるほどに悪かった。

 待ち構えていたわけではないが、廊下で行きあい、長野殿がはっとしたように足を止める。

 お互いに無言のまま向き合った。

 しばらくして孫九郎が頷くと、長野殿はぐっと唇を引き締めてから頭を下げた。

「すぐには動かぬことだ」

 一礼してすれ違おうとした長野殿に、つい余計なことを言ってしまった。

 双方ともに立ち止まり、たっぷり数十秒間の沈黙が続く。

 孫九郎はすぐに視線を逸らせたが、長野殿は強い視線でこちらを見据え、やがて苦渋を飲み込んだような皺枯れ声で聞いてきた。

「……辛抱しろと?」

 長野家の内々の事情はわからない。だが、古くから側にいた下男による裏切りは、その向こうにある何かを明らかにしたのだろう。

 だがそれは珍しい事ではない。裏切りも、陰謀も、誰かの野心も。

 生き残った方が正義。それがこの時代だ。

 孫九郎は、庭先に向けていた視線を戻した。

 そして歩をすすめ、こわばった表情の長野殿の顔を下から覗き込んだ。

「何を耐え、何を信じ、何を選ぶかは……己で決めろ」

 長野殿は、衝撃を受けたように息を飲んだ。そして、よろりと後ずさった。

 孫九郎は気にせず、そのまま廊下を進んだ。

 後ろから長野殿の凝視を感じたが、振り返らなかった。

 厠から戻り、再びその廊下に通りかかった時、すでに長野殿の姿はなかった。

 代わりに、藤波屋敷に使いに出した次郎三郎が立っていた。

 色黒の青年がこちらを見て、頭を下げる。

「土井殿が、握り飯を用意してくれるそうです」

 次郎三郎は腹をこすりながら、道中の足元の悪さに文句を言う。

 時刻は丁度昼時だ。この時代は朝晩の二食が普通だが、途中に軽食を挟むのもよくあることだ。

 帰還の報告より先に、空腹の訴えをされて、笑ってしまった。

「二の丸での話し合いは、いかがですか。まとまりそうですか」

 居室に戻る途中、ついでのように尋ねられたのにも笑った。

 空腹よりも足元の悪さよりも、その話を聞きたかったのが丸わかりだ。

 孫九郎はちらりと、もと来た廊下を振り返った。

 そこに立っていた長野殿は、すでに二の丸に戻っている。

「じきにまとまるだろう」

 それは確信だった。


「藤波屋敷のほうはどうだった」

 歩きながら尋ねると、次郎三郎は少し鼻頭に皺を寄せた。

「よくはありません」

 解釈に困る返答だ。

「よくないとは、どのように」

「大声で話せない程度には、ひどいものでした」

 次郎三郎の声はよく通るので、聞き耳を立てていたら誰かに聞かれるかもしれない。

 その警戒が必要なことがあったのか。

 居室に戻り、まだ側付きたちが全員あつまっていないうちに、こそこそと小声で話を聞いた。

 なんでも、北畠家の使者を内宮の禰宜のひとりが受け入れようとして、その件が大きな問題になっているのだそうだ。

 祭主様は、卒中を起こしそうな勢いで激怒し、先生はそれをなだめながら内宮と藤波屋敷を往復し、“秘密の場所”にいる北畠殿はちょっとだけ調子が悪いそうだ。

 さらりと聞かされたら、眉間に小さな皺を寄せる程度の内容かもしれない。

 だが最後の北畠殿については、かなり重要だった。

「鶸が尋問をしているのだろう」

 体調を考えずに拷問などということはないと思うが。

「実際に見てはおりませんので、尋問といってもどの程度かはわかりません。ただ、御屋形様には断じて会いたくないと言うているそうです」

「……それもどうなんだ」

「おそらくですが、恭一郎殿が恐ろしいのではないでしょうか」

 孫九郎は唇を閉じ、コテリと首を傾けた童顔の小姓を横目に見た。

 鶸に引き渡す前に、急ぎで尋問をさせたのは確かだ。

 だが川から引き上げ、命を救ったのもこいつだぞ。

「恭一郎殿がいないと言えば、会うことを了承するかもしれません」

 そこまではっきり言うということは、確信があるのだろう。

 恭一郎は、心底わからないといった表情をしている。

「御屋形様が譲歩する必要があるのですか?」

「ありません」

 次郎三郎はあっさりとそう言って、ようやく思い出したように懐を探った。

 取り出したのは、いくらかくたっとした書簡だ。

「申し上げました通り、またも北畠が交渉の糸口を辿って祭主様に会おうとしています。その事について岩出様から書簡を預かってまいりました」

 先生は内宮と藤波屋敷を行き来して、お忙しいという。

 東雲は外宮を回って目を光らせている。

 この二人が協力して北畠家の介入を防ごうとしているが、それでも、長年この地に根付いた関係性は解けないのか。

 孫九郎は、渡された書状を開いた。

 見覚えのある先生の文字が、優雅に綴られている。

 多少急いで書き記した様子ではあるが、崩れたところのない美しい手だ。

 一読して、顔をしかめた。

 禰宜たちが、なおも北畠家との縁を手放さない理由がわかった。

 神宮に奉納されたうちのいくらかが、恒常的に禰宜家の懐にはいっており、その弱みを北畠に握られていたのだ。

 神に仕える者とて、俗世の欲からは逃れられないらしい。

 ……祭主様の血管が心配になってきた。

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― 新着の感想 ―
長野どの・・・おいたわしや。 せめて良い方向に向かうと良いですが。
槐さんご快復おめでとうございます! そして更新していただき、ありがとうございます♪ 生活の潤いが戻って来た!嬉しい!! 「何を耐え、何を信じ、何を選ぶかは・・・・・・己で決めろ」 孫九郎くんカッコい…
恭一郎くんは何をしたんでしょうか…恐ろしい子w 寺も神社も人が運営している以上、欲から切り離すのは難しいのでしょうね 祭主様はこの間倒れたばっかりなのに大丈夫なんでしょうか
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