24-1 伊勢 田丸城11
梅戸が保々西城に攻め込んだという一報は、丸一日経った夜明け頃に届いた。
肩を揺すられてそのことを聞いた孫九郎は、小さく唸り、顔を伏せる。
すぐに知らせるようにと言ってあったので、叩き起こされたと文句は言えない。
薄目をあけた先には藤次郎がいた。すでに上から下まで。しっかりと身支度を整えている。
「朝倉領から急使が来たようです」
孫九郎は一度目を閉じて、小さく息を吐いてから起き上がった。
保々西城があるのは朝明郡、朝倉家の主城だ。朝倉といっても、越前の朝倉家とも、父の亡き正室の生家とも、たぶん関係ない。いや、先祖をさかのぼれば親戚なのかもしれないけど。
聞いたところによるとなかなか堅牢な城だそうで、攻めきれなかったというよりも、攻めあぐねた、という感じのようだ。
一度は引きあげた梅戸軍だが、次は落としにかかるだろう。より多くの兵を率いてか、あるいは降伏宣告をしてくるかもしれない。
承菊は六角の兵もまじっているのではと言っていた。
すでに今川の忍びが現地に入っているので、じきに詳細な戦況がわかるだろう。
「……承菊は」
「井伊様と話されています」
あいつらも元気だな。もう起きているのか。
孫九郎はあくびを噛み殺し、もう一度寝床に戻りたい気持ちと戦った。
この時代の人間は早起きで、日が昇る前から働きはじめる者は珍しくないが、孫九郎は眠れる時には寝たい派だ。
もちろん、そんな状況ではないのはわかっている。
弥太郎が普段通りの表情で部屋に入ってきた。盆の上にあるのは、薬湯の入った湯呑。いつものやつだ。
「二の丸はどうなっている」
「知らせが届いたところです。朝倉様が他の方々に声を掛け、広間に集まるようです」
孫九郎は苦い薬湯を飲み干して、青臭い息を吐いた。
その騒ぎに加わるつもりはない。
彼らにできることは、今すぐ国元に引き返して守りを固めるか、ここに集まっている者たちで協力して敵を押し返すか、あるいは……今川に助けを求めるかだ。
少し前なら、北畠家を旗頭にして対抗しようとしただろう。
だが今は、それはできない。
孫九郎が身支度を整えていると、井伊殿と承菊がやってきた。
「気になることがございます」
挨拶もそこそこに、井伊殿が言った。
「城の周辺に、農民とは思えぬ者が、こちらの様子を伺っております」
今川と、北伊勢衆が入った田丸城の状況は、周辺の者なら誰もが知りたいはずだ。孫九郎なら忍びを出しただろうし、忍びがいなくても誰かにこっそり見に行かせただろう。
たとえば梅戸側だとしてもそうだ。
いつ北伊勢衆が戻るかの情報は、重要だ。
「排除しますか」
空の湯呑を受け取った弥太郎が、口元を温和にほころばせながら言った。
孫九郎は少し考えて、「放っておけ」と返した。
きっとネズミは一匹二匹ではない。いちいち相手をする暇はない。
「申し上げます!」
幸松の元気な声がした。
孫九郎はっとして、そちらに顔を向けた。
「山下殿がお目覚めです、御屋形様にお目にかかりたいと」
山下が? 何故?
孫九郎の疑問はそのまま顔に出ていたのだろう。
「長野様は二の丸に向かわれており、不在です」
幸松はそう言って、キラキラと光る目で孫九郎を見た。
幸松の様子から、それほど深刻だとは思っていなかった。
あんなに目を輝かせて、うれしそうだったじゃないか。
だが孫九郎が見たのは、死相を浮かべ細い息をつく男の顔だった。
土気色の顔に、血走った目。命の瀬戸際にいるのだと、ひと目でわかった。
孫九郎は静かに息を吸った。
鼻に、覚えのある臭いを感じる。良くない怪我の、良くない臭いだ。
「……じ」
山下がこちらを見て、孫九郎を呼ぼうとしたのがわかった。
気を取り直して、枕元まで歩を進める。
「すぐに長野殿を呼ぶ」
山下は首を横に振った。
「……ど、どうか」
今わの際の懇願は、心に響いた。
震える手が伸びてきて、孫九郎はそれを握り返そうとしたのだが、先にその手を取ったのは幸松だった。
仮に死にゆく者であろうとも、孫九郎に不用意に近づけまいとしているのだ。
「きこえておりますよ」
幸松の声は大きく力強かった。ささやかにともる命の火など、吹き飛ばしそうなほどに。
山下の青白い唇が震える。
途切れ途切れの声を聞き取ろうと、孫九郎は身を乗り出した。
何度か聞き返したくなったが、そうすれば山下はまた声を絞り出さねばならない。
誰一人口を挟むことはなかった。
バタバタと走ってくる音がする。
勢いよく障子が開けられ、肩で息をする長野殿が姿を見せる。
その時にはまだ、幸松が手を握っていた。
「っ、 団十郎!」
幸松は一礼して、握っていた手を身体の上に戻した。
山下の血走った目が長野殿を見て、フッと緩む。
「どうしても話したいことがあると、呼ばれた」
孫九郎の説明に、はっと長野殿の顔がこちらを向く。
「どうか頼むと言われたぞ」
それ以外も聞いたが、今はいい。
「生き延びたあとに、笑い話にしてやれ」
長野殿は山下を見つめていた。何か言おうとしているのか、唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。
ふらり……と、その足が前に出た。
孫九郎は周囲を促して、席を立った。
元の部屋に戻ると、承菊がまるで主人のようにくつろいで白湯を飲んでいた。
孫九郎は廊下で立ち止まり、ひとつ溜息をついてから敷居を跨ぐ。
あの部屋に充満していた死の臭いはここにはない。
それに安堵している自身に、顔をしかめたくなる。
「死にましたか」
「……まだだ」
承菊は湯呑を横に置いた。そこでの様子を聞きたいようだ。
この男にも、人の生死に対しての感傷はあるはずだ。だがそれは、常人とは温度が違う。
……いや、そう見えるからと言って、そう感じていると断じるべきではない。
孫九郎は空けられていた脇息の隣に腰を下ろした。
「田丸城の内情が、外に漏れていたそうだ。あの下男からな」
「それはそれは」
承菊はたいして驚いた様子もなく、薄く笑った。
問題は、情報を渡していた相手だ。長野殿の正室の実家に仕える男だという。
山下は己が見たものが、まさか命を狙われるほどのことだとは思っていなかったそうだ。
「……ご実家はどこでしたか?」
そこまでは聞けなかった。だが、きな臭い。
断定できることではないが、長野家の内側にも火種があるのかもしれない。
長野家は、北伊勢における最大派閥のひとつだ。そこを崩そうというのは、戦略として理にかなっている。
ただそのやり方が、気に食わなかった。




