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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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209/212

24-1 伊勢 田丸城11

 梅戸が保々西城に攻め込んだという一報は、丸一日経った夜明け頃に届いた。

 肩を揺すられてそのことを聞いた孫九郎は、小さく唸り、顔を伏せる。

 すぐに知らせるようにと言ってあったので、叩き起こされたと文句は言えない。

 薄目をあけた先には藤次郎がいた。すでに上から下まで。しっかりと身支度を整えている。

「朝倉領から急使が来たようです」

 孫九郎は一度目を閉じて、小さく息を吐いてから起き上がった。

 保々西城があるのは朝明(あさけ)郡、朝倉家の主城だ。朝倉といっても、越前の朝倉家とも、父の亡き正室の生家とも、たぶん関係ない。いや、先祖をさかのぼれば親戚なのかもしれないけど。

 聞いたところによるとなかなか堅牢な城だそうで、攻めきれなかったというよりも、攻めあぐねた、という感じのようだ。

 一度は引きあげた梅戸軍だが、次は落としにかかるだろう。より多くの兵を率いてか、あるいは降伏宣告をしてくるかもしれない。

 承菊は六角の兵もまじっているのではと言っていた。

 すでに今川の忍びが現地に入っているので、じきに詳細な戦況がわかるだろう。

「……承菊は」

「井伊様と話されています」

 あいつらも元気だな。もう起きているのか。

 孫九郎はあくびを噛み殺し、もう一度寝床に戻りたい気持ちと戦った。

 この時代の人間は早起きで、日が昇る前から働きはじめる者は珍しくないが、孫九郎は眠れる時には寝たい派だ。

 もちろん、そんな状況ではないのはわかっている。

 弥太郎が普段通りの表情で部屋に入ってきた。盆の上にあるのは、薬湯の入った湯呑。いつものやつだ。

「二の丸はどうなっている」

「知らせが届いたところです。朝倉様が他の方々に声を掛け、広間に集まるようです」

 孫九郎は苦い薬湯を飲み干して、青臭い息を吐いた。

 その騒ぎに加わるつもりはない。

 彼らにできることは、今すぐ国元に引き返して守りを固めるか、ここに集まっている者たちで協力して敵を押し返すか、あるいは……今川に助けを求めるかだ。

 少し前なら、北畠家を旗頭にして対抗しようとしただろう。

 だが今は、それはできない。

 孫九郎が身支度を整えていると、井伊殿と承菊がやってきた。

「気になることがございます」

 挨拶もそこそこに、井伊殿が言った。

「城の周辺に、農民とは思えぬ者が、こちらの様子を伺っております」

 今川と、北伊勢衆が入った田丸城の状況は、周辺の者なら誰もが知りたいはずだ。孫九郎なら忍びを出しただろうし、忍びがいなくても誰かにこっそり見に行かせただろう。

 たとえば梅戸側だとしてもそうだ。

 いつ北伊勢衆が戻るかの情報は、重要だ。

「排除しますか」

 空の湯呑を受け取った弥太郎が、口元を温和にほころばせながら言った。

 孫九郎は少し考えて、「放っておけ」と返した。

 きっとネズミは一匹二匹ではない。いちいち相手をする暇はない。

「申し上げます!」

 幸松の元気な声がした。

 孫九郎はっとして、そちらに顔を向けた。

「山下殿がお目覚めです、御屋形様にお目にかかりたいと」

 山下が? 何故?

 孫九郎の疑問はそのまま顔に出ていたのだろう。

「長野様は二の丸に向かわれており、不在です」

 幸松はそう言って、キラキラと光る目で孫九郎を見た。


 幸松の様子から、それほど深刻だとは思っていなかった。

 あんなに目を輝かせて、うれしそうだったじゃないか。

 だが孫九郎が見たのは、死相を浮かべ細い息をつく男の顔だった。

 土気色の顔に、血走った目。命の瀬戸際にいるのだと、ひと目でわかった。

 孫九郎は静かに息を吸った。

 鼻に、覚えのある臭いを感じる。良くない怪我の、良くない臭いだ。

「……じ」

 山下がこちらを見て、孫九郎を呼ぼうとしたのがわかった。

 気を取り直して、枕元まで歩を進める。

「すぐに長野殿を呼ぶ」

 山下は首を横に振った。

「……ど、どうか」

 今わの際の懇願は、心に響いた。

 震える手が伸びてきて、孫九郎はそれを握り返そうとしたのだが、先にその手を取ったのは幸松だった。

 仮に死にゆく者であろうとも、孫九郎に不用意に近づけまいとしているのだ。

「きこえておりますよ」

 幸松の声は大きく力強かった。ささやかにともる命の火など、吹き飛ばしそうなほどに。

 山下の青白い唇が震える。

 途切れ途切れの声を聞き取ろうと、孫九郎は身を乗り出した。

 何度か聞き返したくなったが、そうすれば山下はまた声を絞り出さねばならない。

 誰一人口を挟むことはなかった。


 バタバタと走ってくる音がする。

 勢いよく障子が開けられ、肩で息をする長野殿が姿を見せる。

 その時にはまだ、幸松が手を握っていた。

「っ、 団十郎!」

 幸松は一礼して、握っていた手を身体の上に戻した。

 山下の血走った目が長野殿を見て、フッと緩む。

「どうしても話したいことがあると、呼ばれた」

 孫九郎の説明に、はっと長野殿の顔がこちらを向く。

「どうか頼むと言われたぞ」

 それ以外も聞いたが、今はいい。

「生き延びたあとに、笑い話にしてやれ」

 長野殿は山下を見つめていた。何か言おうとしているのか、唇がわずかに動いたが、声にはならなかった。

 ふらり……と、その足が前に出た。

 孫九郎は周囲を促して、席を立った。


 元の部屋に戻ると、承菊がまるで主人のようにくつろいで白湯を飲んでいた。

 孫九郎は廊下で立ち止まり、ひとつ溜息をついてから敷居を跨ぐ。

 あの部屋に充満していた死の臭いはここにはない。

 それに安堵している自身に、顔をしかめたくなる。

「死にましたか」

「……まだだ」

 承菊は湯呑を横に置いた。そこでの様子を聞きたいようだ。

 この男にも、人の生死に対しての感傷はあるはずだ。だがそれは、常人とは温度が違う。

 ……いや、そう見えるからと言って、そう感じていると断じるべきではない。

 孫九郎は空けられていた脇息の隣に腰を下ろした。

「田丸城の内情が、外に漏れていたそうだ。あの下男からな」

「それはそれは」

 承菊はたいして驚いた様子もなく、薄く笑った。

 問題は、情報を渡していた相手だ。長野殿の正室の実家に仕える男だという。

 山下は己が見たものが、まさか命を狙われるほどのことだとは思っていなかったそうだ。

「……ご実家はどこでしたか?」

 そこまでは聞けなかった。だが、きな臭い。

 断定できることではないが、長野家の内側にも火種があるのかもしれない。

 長野家は、北伊勢における最大派閥のひとつだ。そこを崩そうというのは、戦略として理にかなっている。

 ただそのやり方が、気に食わなかった。

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体調を崩されていたとのこと、こちらの感想で知りました。 更新ありがとうございます。冷え込んでおりますので、無理せずご自愛ください。 どんなペースでもお待ちしています。 戦国イフ物が好きで色々読ませて…
 ご回復おめでとうございます。待ちわびておりました。  無理のないペースで近江の巨魁・管領代六角定頼との大バトルを期待しております。  俗に言う六角六人衆のひとりには三雲氏がいて、甲賀五十三家のひとつ…
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