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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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208/208

23-10 伊勢 田丸城10

 酒なしの膳を、数人で囲む。

 遠くから聞こえる酒宴の賑やかさに比べると、寂しいものだ。

 パイの取り分が決まったので、二の丸曲輪では祝いの場が設けられている。

 孫九郎は参加しなかった。一応、伺いはたててきたようだが、藤次郎が勝手に断りやがった。

 山下の襲撃の件が調べ終わっていないので、仕方がないとは思う。

 うちからの参加は井伊殿だ。飲みすぎないよう見張り役も同行する。もちろん、井伊殿の身に何かが起こらないよう、護衛もつけている。

「賑やかですね」

 白湯を手に、承菊がつぶやく。

「酒が入れば、あんなものだろう」

 孫九郎は川魚の焼き物に箸をつけながら言った。

 承菊はこちらを見て、首を傾けた。

「ずいぶんと油断しているようです」

 やめろ。意味ありげにこっちを見るな。

 確かに今なら一網打尽にできるな、とは思った。……思っただけだ。実際にするつもりはない。

 再び遠くで、陽気なざわめきが聞こえる。酒宴が盛り上がっているようだ。

 孫九郎は、こぼれそうになる溜息を飲み込んだ。

 彼らはまだ、保々西城の状況を知らない。

 急使が来るまで二日、早ければ明日の遅くだろうか。

「今は喜ばせておけばよろしいのでは」

 承菊は当たり前のようにそう言う。

 教えたとしても、動くのは明日の朝からなので、言っていることは間違っていない。

 孫九郎は無言で汁物に口をつけた。

「北伊勢衆の士気はいかがですか」

 場を取りなすように、藤次郎が次の話題を出す。

 皆の視線が渋沢に向いた。

「奇襲なら今夜かと」

 イケボで何を真面目に言っているんだ。

 そう考えた直後、孫九郎は顔をしかめた。

 違う。渋沢は敵襲を危惧しているだけだ。奇襲をかける提言をしたわけではない。

 勘違いそのものよりも、自分が即座にその考えに至ったことのほうが恥ずかしかった。

「では、周辺の警戒を強めるように」

 孫九郎の声は無意識のうちに小さくなった。


 そのまま、酒の入らない食事会は続いた。

 遠くの宴席の声を聞きながらの、なんとも微妙な膳だった。

 しばらくして、警備の一員ではなく、側近として同じ膳を囲んでいた谷が、勢いよく飯を掻きこみ、音を立てて椀を置いた。

 その目が部屋の外を凝視している。

 簾が揺れている。昼間よりは涼しい風が吹き込んでくる。

「……御免」

 椀を置く音に驚いていた者たちも、少し離れた場所からその声が聞こえると、はっと身構えた。

 敷居の傍に座っていた小姓が腰を浮かせる。

 立ち上がった谷が、ずかずかと廊下に向かった。

 廊下にいた護衛と何やら小声で話をしていた小姓が、谷を振り返って慌てて場所を譲る。

「お客人のようですね」

 きれいに膳のものを平らげた承菊が、最後にもう一度、白湯をひと口。

 孫九郎は、まだ半分ほど残った魚を見下ろして、これを食べきる時間はあるかと考えた。

 結論を出す前に、他の者たちの膳が片されて行く。

 小小姓が膳を下げるのをためらっているので、下げてよいと手を振った。


 長野殿が、申し訳なさそうに頭を下げている。

 部屋に入るまで、食事の邪魔をしたことに気づいていなかったようだ。

 一般的には、夕食は、もっと明るいうちに食べる。

 だが、今の田丸城は人員が足りておらず、大量の膳を用意するのは簡単ではなかった。人数分の川魚を焼くことを想像してくれるとわかると思う。

「長野殿のせいではない。そのように頭を下げずともよい」

 孫九郎は気やすい口調でそう言ったのだが、長野殿は両手を前についたままだった。

 しばらくの間、沈黙が続く。

 孫九郎は上座で身動きせず、長野殿は下座で額を床に押し当てんばかりに頭を下げている。

 承菊の目配せを受けて、小姓たちが簾を下ろし、燭台の位置を変える。

 その間も、長野殿はずっと平伏したままだった。

 場が整うのを待って、孫九郎は小さく息を吐いた。

「人払いをした」

 びくり、と長野殿の肩が動く。

「話があるのだろう」

 やがてゆっくり上げられた顔は、ひどく青ざめ、こわばっていた。

 その表情を読み解くのは難しかった。

 山下の容体が悪化したのか。他になにかあるのか。

「北伊勢衆は、治部大輔殿に従うつもりはござらぬ」

 意を決したように落とされた言葉に、孫九郎は表情を変えなかった。

 もとより、日和見をするだろうという予想は立てていた。今は味方のような顔をしているが、北畠が優勢になれば「あの時はやむを得なかった」などと言い訳をして関係改善を図るだろう。六角が来てもそうだ。

 弱小の国人は、どんな手を使ってでも生き残ろうとする。

 状況が移ろえば、関係の浅い今川を切り捨てるのも早いだろう。

「こちらが優勢なうちは、裏切らぬはずだ」

 孫九郎がひとつ頷きそう言うと、長野殿のほうがショックを受けたような顔をした。

 出会ったばかりの他国の者を、単純に味方だと考えるわけがないだろう。

「……それでよいのですか」

 困惑した長野殿の様子に、孫九郎は小さく笑った。

「よい」

 北伊勢衆の本音よりも、生真面目にそのことを話しに来た長野殿のほうが興味深かった。

 本丸曲輪で守られていることだけが理由ではないだろう。

「言いにくいことがあるのなら、無理に聞こうとは思わぬ。いざというときに、長野殿が今川に敵対することになろうとかまわぬ」

 「ふっ」とどこかで誰かが笑った。たぶん承菊だ。孫九郎はそちらを見たい衝動をこらえて、目を大きく見開いている長野殿と視線を合わせた。

 そもそも北伊勢衆は今川の家臣ではない。従って当然だとは思わないし、裏切られるなら、それだけの理由があるはずだ。

「ただ覚えておけ。敵になれば容赦はせぬ。食われる覚悟はしておくことだ」

 いや本当はそんなことは思っていない。戦などないに越したことはなく、できるだけ避けて通りたい。

 だが同時に、それを公に口にした場合、今川家が甘く見られるのもわかっていた。

 勝てない戦はしない。

 勝てるようにもっていく。

 それが孫九郎の、今川家の戦い方だ。

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― 新着の感想 ―
「裏切られてもよろしいので?」 「私が強ければ良いだけだ。仮に裏切るなら潰せば良い」 覇王様かな? 怖いけど、大器を感じさせる言動ですね。怖いけど。
先祖が代々谷さんのように、とある大身旗本家の御殿様の護衛(馬廻り)をしていたので、谷さんにどうしても感情移入してしまいます。是非、谷さんの活躍が見たいです。
谷さんとの対比で承菊さんの謎の落ち着きようとか少し笑いました(笑) 奇襲の件は、草がいっぱい出て来そう!! 弥太郎さんの活躍に期待!! 弥太郎さんのカッコいい勇姿を読みたいです!!
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