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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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23-9 伊勢 田丸城9

 怪我人の枕元で、長野殿がうなだれている。

 山下が殺されかけて、もしかしたら、いやおそらくは己も狙われていたのだ。

 しかも犯行に及んだのは、長年身の回りの世話を任せていた下男だった。その妻や子供のことも、よく知っているそうだ。

「草というのはそういうものです」

 長野殿に聞こえないように、弥太郎が言う。

「指示が届くその時まで、疑われるような行動はとりません」

 その声は、普段よりも冷たく聞こえた。

 孫九郎はちらりとその顔を見た。相変わらず、何を考えているのかわからない顔だ。だが、普段通りの薄い笑みが、貼り付いたように見えた。

 そういう忍び働きを、世の中が忌避するのは理解できる。

 だがそれは、よく切れる刃物理論と同じだ。刃物に罪があるのではなく、責められるべきはそれを使った者だ。

 実際に瀕死なのは山下で、長野殿は無傷。そのあたりに、下男の躊躇がある気もする。

 ちなみに、山下を狙った下男はすでに死んでいる。自死だった。

 今となっては、どこからの刺客だったのかも、わからない。

 孫九郎はポンと弥太郎の腕を叩いた。

「疑わしいのは北畠家だが、確定はできない。まだいるかもしれぬ」

 弥太郎は静かに頭を下げた。

「身近にお仕えする下男だったそうです。その気になれば、いつでも事を起こせました。殺すよう指示があったのは最近でしょう」

 もともとは刺客ではなく、諜報が目標だったと思われる。事情が変わったのがここ数日なのは、伊勢の状況を見れば納得がいく。

 たとえば今、田丸城で長野殿が死ねば、非難はどこに向く?

 北畠か。今川か。……少なからず疑心が湧き起こるだろう。

 下男に指示を出した何者かは、田丸城で集まる者たちを、分断させようとしたのだ。

「北伊勢衆を長く田丸に引き留めておくべきではないな。話し合いは早々に終わらせる」

 弥太郎は黙ったままだ。

 孫九郎はもう一度、その腕を叩いた。

「御屋形様」

 承菊が近づいてくる。

 孫九郎が直接指揮をとり、二の丸御殿から本丸御殿に山下を移した。こちらのほうが安全だし、更なる襲撃を防ぐこともできるからだ。

 承菊はその間に、北伊勢衆との折衝に入っていた。

 肝心の長野殿が不参加なので、最終的なところまではいかないだろうが。

「北伊勢衆が刀を預けることを拒んでおります。直接お話をするのは難しいかと」

 面倒なことになるのなら、刀を持ったままでもいいのだが……この状況でそれを言えば、幸松からさえ怒られそうだ。

「ならばそのほうが話をまとめよ」

 約定は早急に結んでおくべきだ。

 これから何が起こるのだとしても、北伊勢衆と今川は一蓮托生。

 ……いや、それは言い過ぎだな。今川はいつでも田丸を手放せる。ただ、彼らはこの地を離れることはできない。

「お任せください」

 承菊が、さわやかな笑顔で言った。

 孫九郎は鳥肌が立った腕を軽く擦った。


 昼を回り、更に数刻。

 山下の熱がますます上がり、容体はいいとは言えない。

 様子を見ようと、部屋の前を通りかかった孫九郎は、長野殿に呼び止められた。

 直接部屋に入ったわけではなく、廊下での立ち話だ。

「申し訳ござらぬ。面倒をおかけする」

 長野殿は強張った表情で頭を下げた。

 孫九郎は軽く手を振って、病室で横たわる山下を見た。

「きっと生き延びる」

「……はい」

 返ってくる声は頼りなかった。こういう顔をされると、励ましたくなる。

 だが長野殿は孫九郎の家臣ではなく、親しい仲でもない。

「話し合いは大詰めにはいっている。山下はこちらで見ている故、行ってきてはどうだ」

 長野殿は迷った。だがもうすぐ夕刻なので、この日の会合はじきに終わるだろう。

「……下男の助八は、某が生まれる前から長野家にいたのです」

 ぽつり、と長野殿が言った。

「ともに魚を釣ったこともあります」

 つまり信頼していた相手なのだ。疑ったことすらない、家族のような存在だったのだろう。

 孫九郎にとっての、弥太郎のようなものか。

 ……確かに弥太郎に裏切られたら辛いな。

 そう思った瞬間に、先ほどの貼りついた表情を思い出した。

 弥太郎も、同じことを考えたのかもしれない。

「山下は死んでおらぬ。長野殿は生きている」

 孫九郎の言葉に、長野殿ははっとしたように顔を上げた。

 そして、助八とやらは死んだ。真実がどうだったかなど、答えは出ない。だったら、これ以上考えても仕方がない。悪い方ではなく、いい方で納得するほうがいい。

 長野殿は深々と頭を下げた。

 孫九郎は頷き、廊下を通り過ぎた。


 話し合いは、その日のうちにはまとまらなかった。

 承菊は遅くまで戻らず、孫九郎は暗い空を眺めているだけの時間を過ごした。

 状況が動いたのは、亥の刻も半ばを過ぎたころだ。

 ――梅戸が動いた。

 それは、北伊勢を探らせていた弥太郎配下の忍びからの知らせだった。

 孫九郎はスッと息を吸い、心を落ち着けた。

 すでにもう事は起こった後だ。今更焦っても仕方がない。


 梅戸方の軍勢が、保々西城を急襲。

 保々西城は持ちこたえたものの、周囲の屋敷や集落にはかなりの被害が出た。

 攻め手には大きな損害もなく、いったん引き上げた。

 軍勢を整えて、再び攻めてくると思われる。


 孫九郎は広げた紙を丁寧に畳んだ。

 文字を読むために寄せられたろうそくが、ジリジリと燃える音がする。

「……始まったか」

 小さな呟きがこぼれ、夏の夜の音に紛れた。

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