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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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23-7 伊勢 田丸城7

 早朝に目が覚めた。

 いや、ぼんやりと意識が現実に戻ってきたといってもいい。

 小姓が盥の水は必要かと問うてきたので、いつもの通り、厠の帰りに井戸へ向かうと返した。

 日が昇ってまだそれほど経っていないのに、すでに蝉の声が聞こえる。

 今日も暑い一日になりそうだ。

 井戸は寝泊まりしている部屋から少し遠く、本丸曲輪の端の方にある。

 そこへ向かって歩いているうちに、じわじわと汗がにじんできた。

 孫九郎は冷えた井戸水で顔を洗い、下を向いたまま「はあぁ」と嘆息した。

 長く息を吐いたのち、もう一度、土井が掬う柄杓の水を両手で受ける。

 バシャりと顔に水をかけ、手のひらを顔に当てたまま数秒。

 考えることが多すぎて、夕べはろくに眠れなかった。まだ頭の芯が重い。

 北畠だけなら相手にできる。だが同時に、六角が総力あげてかかってきた場合は?

 しばらくしてから、差し出された手ぬぐいで濡れた顔を拭いた。

 それを返そうと顔を上げて、「ああ」とも「うん」ともつかない中途半端な声がこぼれた。

「……早いな」

「御屋形様も」

 にこやかな口調でそう返してきたのは土井ではなく、見慣れた墨色の法衣を着た僧侶だ。

 ずいぶん顔色が良い。つやつやしている。……きっと昨日は楽しくてたまらなかったのだろう。

 孫九郎はひと息ついてから、続けた。

「聞いたか」

 北畠と六角の婚姻同盟の件だ。

 だが承菊に目立った反応はなかった。

 もしかして寝ていてまだ聞けていないのかとも思ったが、しばらく視線を合わせて察した。

「まさか、お前」

 にこり、と満面の笑みが返ってきた。

 基本的ににこやかな表情がデフォルトな男だが、この笑顔には背筋が冷えた。

 恭一郎の報告がある前から、知っていた。あるいはそうなるかもしれないと思っていたのだ。

 どうして言わなかったと問うより先に、それも既に織り込み済みなのだとわかって空恐ろしくなった。

 これが味方だからまだいい。敵に回ったらどうなる?

 想像してしまうのは、仕方がないと思う。

「ご心配なさることにはなりませぬ」

 承菊は濡れた手ぬぐいを受け取って、にこやかに言った。

 だが孫九郎は、承菊ほどに楽観できなかった。

「総力を挙げては難しいだろう。だが一万……あるいは五千の兵を送って来るやもしれぬ」

「ありませぬ」

 穏やかで、力強い否定だった。

「あのあたりには敵が多い。国元を手薄にすれば食われます」

 それは希望的観測に過ぎないのではないか。

 孫九郎は表情を変えないよう気を付けて、背の高い僧形の男を見上げた。

 もし承菊が今川家を滅ぼそうと考えたら。いや孫九郎の排除でもいい。

 湧き起こった疑念は初めてのものではない。だが常よりももっと強烈だった。

「……朝倉か」

「あるいは」

 返ってくる言葉は穏やかだ。

 だがこの男の本質は、深く暗い場所で研ぎ澄まされた、鋭い刃(やいば)だ。

 それがいつか、敵として喉元につきつけられるかもしれない。

 恐ろしくリアルに想像できてしまい、鳥肌が立った。

「承菊」

「はい」

「たらればの憶測で、兵の命は掛けられぬ」

「もちろんでございます」

 如才ない返答を、表面だけ受け取るわけにはいかない。

 そう考えたところで、最も信頼すべき軍師に疑念を抱く自身が恥ずかしくなってきた。

 下を向く。顔を洗った水で土が跳ね、草履が汚れている。

「退くのは恥ではない」

 孫九郎は小さく息を吐いて、まだ湿っている頬のあたりを拭った。

「勝てぬ戦で兵を失うよりはよい」

「はい」

「……そのほうの命もだ、承菊」

 呟いた言葉は聞こえただろうか。

 孫九郎は、桶に突っ込まれた柄杓を手に取った。

 急に、ただの疑念に警告をしたことが馬鹿馬鹿しくなった。

「北伊勢衆を戦力のうちに考えているのなら、うまくまとめろ」

 承菊の顔は見ず、汚れた足元を水で流した。

「はい」

 城の周りにずっと軍勢を待機させておくのは現実的ではない。

 当初の想定通り、適度にパイの切れ端を分けて、北畠を抑える役割を果たしてもらわないと。

 もし六角が来るのであれば、彼らが第一に矢面に立つことにもなる。

「朝のうちに、もう一度集める予定です」

 孫九郎は行かなくていいそうだ。そう言われると逆に気になるが、言いたいことはわかる。

 折衝の段階から一番上が出るべきではない。

 パイ皿のパイは、いっそ全部投げてもいいぐらいなのだから、本気で詰めるなよ。

 そう言ってやりたいのをぐっとこらえた。

 そのあたりの匙加減は、承菊に任せよう。

「……はやく遠江に戻りたい」

「駿府ではないのですね」

 さらりと言われ、もう一度柄杓で水を掬おうとしていた手を止めた。

 身体を前に傾けたまま、ちらりと背の高い男を見上げる。

 承菊は、ニコニコと、胡散臭すぎるほどの笑顔を浮かべている。他意などありません。そう言いたそうな顔だが……他意しかないだろう、お前には!

 孫九郎は、聞こえなかった振りをした。

「身体を動かしたい故、そのあたりを散策してくる」

「お供してもよろしければ」

 体のいい追い払いだったのだが、ついてくるという。

 これはあれだ、まだ話したいことがあるという意味だろう。

 孫九郎は溜息を飲み込み、頷いた。

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― 新着の感想 ―
かつて勘助が承菊をよく切れる刀みたいに評した話がありましたが、承菊との緊張感のあるやりとりは読んでいて痺れます。 ただ、孫九郎が思っている以上に承菊からの評価や好感度は高そうですですが…
承菊さん天才だけど狂人でもあるから、何しでかすか分からないのが良いですね♪ 孫九郎くんの胃が心配ですけど(笑)
これだから親方様の配下はやめられない ご褒美ご褒美
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