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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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203/208

23-5 伊勢 田丸城5

 本当は、もっと簡単に済むはずだった。

 北伊勢衆は北畠からパイの切れ端を奪う気でいる。ならば協力して事にあたればいいと。

 ……まったくもって、思うようにはいかない。

 北伊勢衆を下がらせた広間で、身内だけが車座を組んで、いつもの軍議が始まった。

 大仰なものではないが、今後の動きを決める重要な場だ。

 風が通るように簾は巻き上げられ、蔀も上げている。

 本丸曲輪の中心部は、城というより公家屋敷風の造りで、必要ならば傍目を遮ることもできるが、その必要はない。

 田丸の城には、いまや今川兵千五百が詰めている。

 北伊勢衆の主だった者は二の丸曲輪の館に滞在しているが、連れてきた兵は城の外だ。

 忍びの目もあり、ここでの会話を聞かれる恐れはない。

 孫九郎は扇子を広げて緩く扇いだ。風通しを良くしても、肝心の風が入ってこないので、夏の夕刻の室内は暑い。

「不相応な望みは持つべきではありません」

 承菊は、暑さなどまったく感じさせない表情で、機嫌よく言った。

「欲をかいてもろくなことはありませんからな」

 井伊殿までそういって、ふたりして分かった風に頷いている。

 今日の話し合いを粗くまとめた結論が、コレだ。

 思わず重いため息が口を突いて出た。

 孫九郎の望みは伊勢ではなく、一条家への余計な介入をやめさせることだったのに、いつのまにか南伊勢ど真ん中の田丸城を手に入れてしまった。

「伊勢のことは伊勢の国人衆に任せたいのだが」

 最初に城に入ったのは北伊勢衆なのだから、遠慮せず名乗りを上げて欲しかった。

 長野殿はどうして何も言わない?

「それができるなら、もっと早うに国がまとまっておりました」

 承菊はにこやかに、だが背筋がひやりとするような口調で言った。

 誰も聞いていないからいいが、伊勢の国人衆が耳にしたら激怒するぞ。

「最大勢力は長野家ですが、難しいでしょうね」

「……それはどういう」

 次郎三郎が首を傾けながら質問した。

「安濃津です」

 承菊はこういう、素直に教えを乞うてくる若者には意外と意地悪をしない。

 そして敏い次郎三郎は、すぐに察した。

「ああ、なるほど」

 そう、長野殿が大きく出なかった理由のひとつが、いまなお大湊に船団を置いている今川軍だ。

 孫九郎は全軍を伊勢に上げなかった。つまり、まだいつでも動ける軍勢がそこにいる。

「派兵している最中(さなか)に、安濃津に攻め込まれてはひとたまりもありませんね」

 次郎三郎は小さく数回頷き、改めて孫九郎の方を見た。

 そうなのだ。仮に長野殿が田丸城を持ったとしよう。真っ先に考えるべきなのは、奪還を防ぐことだ。北畠家は必ず取り返そうとする。

 そして、それに備えるべく兵を割けば、本領が手薄になるだろう。

 そんなことはしないと言えるほど、長野家との信頼関係は構築されていない。

 孫九郎は軽くかぶりを振って、扇子で顔を扇いだ。

「誰が田丸を手に入れたとて、不服が出たでしょう」

 だからこれでいいのだと、承菊が満足そうに頷く。

 今川とて制約は多い。神宮との兼ね合いや、本領からの距離もある。もろ手を挙げて欲しいわけでもなかった。

 だが田丸に今川軍がいることは、それなりの意味がある。

 これで、軍勢が無防備のまま野営をせずに済む。

「だが……敵が増えるぞ」

 孫九郎は扇子の動きを止めて言った。

 急に、広間が静まり返った。

 井伊殿が真顔になる。側付きたちも小姓たちも、口を閉ざしてこちらを見る。

 ただひとり、承菊だけが笑った。

 ずっと笑っていたのだが、ひと際晴れやかで、まがまがしい笑みだった。

 お前まさか……それが狙いじゃないだろうな。

 今川家への包囲網は、未完成だ。だが確実に存在する。幕府にとって、細川家にとって目障りな東国。今後ますますその包囲を狭めようとしてくるだろう。

「伊勢に兵を集めれば、他の場所で戦が起こる」

「はい」

 承菊が平然と頷いた。

「すべての戦線に万全の態勢を敷くことはできない」

「その必要はございません」

 孫九郎は、用心深く承菊の表情を伺った。

 温和な僧侶の顔をして、平気で大量の血を浴びる奴だ。油断はできない。

「負けぬ戦をするのが当主の務めだ」

「はい」

 わずかに声のトーンが上がった。

 嫌な予感がした。

「この承菊がおります限り、目の前の敵に後れを取ることはございませぬ」

 お前武士じゃないだろ! 坊主の分際で好戦的だな。

 戦うことが前提のその物言いに、井伊殿が嬉しそうに手を叩き、小姓や側付きたちも興奮に頬を上気させている。

「敵は正面からくるとは限らない」

 このままだと、ハーメルンの笛吹き男についていくように、いいように誘導されそうな気がして、孫九郎は冷静に指摘した。

「ええ、ですから方向を決めました」

 承菊の口調はどこまでも穏やかで、まるで天気の話でもしているようだった。

 だが騙されるな。この男が望むのは、そんな穏やかなものではない。

「……方向?」

 十分に用心していたのに、孫九郎のその問いかけを待っていたかのような笑顔が返ってきた。

「六角」

 孫九郎は息をつめた。きっと他の皆もだ。

 しばらく考えて、孫九郎はぎゅっと眉間にしわを寄せた。

 六角家が出てくる? 考えられない事ではない。伊勢がここまで乱れたら、それを口実に周辺国が出てくる可能性はある。

 だが六角と断定したところをみると、根拠があるのだろう。

「すでに北伊勢の一部は、六角と手を結んでおります。今川の動きを黙って見てはおりますまい」

「北畠に手を貸すと?」

「いいえ」

 ふふふ……と、湿った含み笑いが響いた。

「六角の狙いは伊勢です」

 孫九郎はまじまじと承菊を見つめた。

「北畠が弱り、今川が田丸を獲った。六角が黙って見ているとは思えませぬ」

 つまり、漁夫の利を得ようとしてくる?

「六角が出てくるのなら、兵を退くぞ。千や二千で何とかなる相手ではない」

「まあ、聞いてください」

 駄目だ。どうしてもうまく乗せられようとしているとしか思えない。

 孫九郎は聞かないふりをしたかったが、どうやらそんな自由はなさそうだった。

説明臭く感じないように説明するのは難しい

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― 新着の感想 ―
 六角定頼が管領代になるのは両細川の乱を終わらせた功績を足利義晴に認められた恩賞(1546)ですね。この世界では両細川の乱は無いようなので、そのぶん定頼が中央政治に深く関わらず、伊勢(というか桑名港)…
そのうち、三日月の丸くなるまで今川領。と謂われるんですかね。
あーーー、そっか。 他の人の感想で気がつきましたが、そう言えば今川家の直轄領は有効勢力に囲まれていて拡張の余地がありませんでしたね。 穴熊を決め込むには大き過ぎる今川が今後生き残るには、拡張が必須と承…
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