23-5 伊勢 田丸城5
本当は、もっと簡単に済むはずだった。
北伊勢衆は北畠からパイの切れ端を奪う気でいる。ならば協力して事にあたればいいと。
……まったくもって、思うようにはいかない。
北伊勢衆を下がらせた広間で、身内だけが車座を組んで、いつもの軍議が始まった。
大仰なものではないが、今後の動きを決める重要な場だ。
風が通るように簾は巻き上げられ、蔀も上げている。
本丸曲輪の中心部は、城というより公家屋敷風の造りで、必要ならば傍目を遮ることもできるが、その必要はない。
田丸の城には、いまや今川兵千五百が詰めている。
北伊勢衆の主だった者は二の丸曲輪の館に滞在しているが、連れてきた兵は城の外だ。
忍びの目もあり、ここでの会話を聞かれる恐れはない。
孫九郎は扇子を広げて緩く扇いだ。風通しを良くしても、肝心の風が入ってこないので、夏の夕刻の室内は暑い。
「不相応な望みは持つべきではありません」
承菊は、暑さなどまったく感じさせない表情で、機嫌よく言った。
「欲をかいてもろくなことはありませんからな」
井伊殿までそういって、ふたりして分かった風に頷いている。
今日の話し合いを粗くまとめた結論が、コレだ。
思わず重いため息が口を突いて出た。
孫九郎の望みは伊勢ではなく、一条家への余計な介入をやめさせることだったのに、いつのまにか南伊勢ど真ん中の田丸城を手に入れてしまった。
「伊勢のことは伊勢の国人衆に任せたいのだが」
最初に城に入ったのは北伊勢衆なのだから、遠慮せず名乗りを上げて欲しかった。
長野殿はどうして何も言わない?
「それができるなら、もっと早うに国がまとまっておりました」
承菊はにこやかに、だが背筋がひやりとするような口調で言った。
誰も聞いていないからいいが、伊勢の国人衆が耳にしたら激怒するぞ。
「最大勢力は長野家ですが、難しいでしょうね」
「……それはどういう」
次郎三郎が首を傾けながら質問した。
「安濃津です」
承菊はこういう、素直に教えを乞うてくる若者には意外と意地悪をしない。
そして敏い次郎三郎は、すぐに察した。
「ああ、なるほど」
そう、長野殿が大きく出なかった理由のひとつが、いまなお大湊に船団を置いている今川軍だ。
孫九郎は全軍を伊勢に上げなかった。つまり、まだいつでも動ける軍勢がそこにいる。
「派兵している最中に、安濃津に攻め込まれてはひとたまりもありませんね」
次郎三郎は小さく数回頷き、改めて孫九郎の方を見た。
そうなのだ。仮に長野殿が田丸城を持ったとしよう。真っ先に考えるべきなのは、奪還を防ぐことだ。北畠家は必ず取り返そうとする。
そして、それに備えるべく兵を割けば、本領が手薄になるだろう。
そんなことはしないと言えるほど、長野家との信頼関係は構築されていない。
孫九郎は軽くかぶりを振って、扇子で顔を扇いだ。
「誰が田丸を手に入れたとて、不服が出たでしょう」
だからこれでいいのだと、承菊が満足そうに頷く。
今川とて制約は多い。神宮との兼ね合いや、本領からの距離もある。もろ手を挙げて欲しいわけでもなかった。
だが田丸に今川軍がいることは、それなりの意味がある。
これで、軍勢が無防備のまま野営をせずに済む。
「だが……敵が増えるぞ」
孫九郎は扇子の動きを止めて言った。
急に、広間が静まり返った。
井伊殿が真顔になる。側付きたちも小姓たちも、口を閉ざしてこちらを見る。
ただひとり、承菊だけが笑った。
ずっと笑っていたのだが、ひと際晴れやかで、まがまがしい笑みだった。
お前まさか……それが狙いじゃないだろうな。
今川家への包囲網は、未完成だ。だが確実に存在する。幕府にとって、細川家にとって目障りな東国。今後ますますその包囲を狭めようとしてくるだろう。
「伊勢に兵を集めれば、他の場所で戦が起こる」
「はい」
承菊が平然と頷いた。
「すべての戦線に万全の態勢を敷くことはできない」
「その必要はございません」
孫九郎は、用心深く承菊の表情を伺った。
温和な僧侶の顔をして、平気で大量の血を浴びる奴だ。油断はできない。
「負けぬ戦をするのが当主の務めだ」
「はい」
わずかに声のトーンが上がった。
嫌な予感がした。
「この承菊がおります限り、目の前の敵に後れを取ることはございませぬ」
お前武士じゃないだろ! 坊主の分際で好戦的だな。
戦うことが前提のその物言いに、井伊殿が嬉しそうに手を叩き、小姓や側付きたちも興奮に頬を上気させている。
「敵は正面からくるとは限らない」
このままだと、ハーメルンの笛吹き男についていくように、いいように誘導されそうな気がして、孫九郎は冷静に指摘した。
「ええ、ですから方向を決めました」
承菊の口調はどこまでも穏やかで、まるで天気の話でもしているようだった。
だが騙されるな。この男が望むのは、そんな穏やかなものではない。
「……方向?」
十分に用心していたのに、孫九郎のその問いかけを待っていたかのような笑顔が返ってきた。
「六角」
孫九郎は息をつめた。きっと他の皆もだ。
しばらく考えて、孫九郎はぎゅっと眉間にしわを寄せた。
六角家が出てくる? 考えられない事ではない。伊勢がここまで乱れたら、それを口実に周辺国が出てくる可能性はある。
だが六角と断定したところをみると、根拠があるのだろう。
「すでに北伊勢の一部は、六角と手を結んでおります。今川の動きを黙って見てはおりますまい」
「北畠に手を貸すと?」
「いいえ」
ふふふ……と、湿った含み笑いが響いた。
「六角の狙いは伊勢です」
孫九郎はまじまじと承菊を見つめた。
「北畠が弱り、今川が田丸を獲った。六角が黙って見ているとは思えませぬ」
つまり、漁夫の利を得ようとしてくる?
「六角が出てくるのなら、兵を退くぞ。千や二千で何とかなる相手ではない」
「まあ、聞いてください」
駄目だ。どうしてもうまく乗せられようとしているとしか思えない。
孫九郎は聞かないふりをしたかったが、どうやらそんな自由はなさそうだった。
説明臭く感じないように説明するのは難しい




