23-4 伊勢 田丸城4
高座はすでに拭き清められているが、板の間にはまだ湿り気が残っている気がした。
孫九郎はもぞりと尻の位置を変え、片膝を立てた。
行儀が悪いように見えるが、そんなことはない。
この時代は基本的に胡坐で、くつろいだ時などには膝を立てることもある。
皆ひどく緊張しているから、場を緩めようとしたのだが、誰もこちらを見てくれなかった。
北伊勢衆は下座の方に並び、視線は床に据えている。
嫌になるほど重苦しい緊張が漂っている。
楽しそうなのは承菊だけだった。……いや、井伊殿の唇も歪んでいる。これは笑いをこらえているな。笑うぐらいなら取りなして欲しかった。
孫九郎は、これ以上余計なことは言うまいと、唇を引き締めた。
ここで話す内容について、承菊との打ち合わせは済んでいる。
基本的には北畠家への対応だが、伊勢衆にとっては細かくパイの配分を決める場でもあった。
それぞれが望むのは、これまでよりも大きな領地、大きな権限だろう。
だが誰も視線を下げたまま、口を開かない。
遠慮なく言ってくれてもいいのに。
もともと伊勢には興味がないので、二つ返事で受け入れるぞ。
どうせなら、田丸を含む広い範囲が欲しいと言って欲しいぐらいだ。
だがまだ北畠家は生きている。撤退した兵は本領に向かい、数も大きく減らしていない。
ここにいる国人領主たちだけでは、相手をするのは厳しいだろう。
「田丸の城代は」
誰も口を開こうとしないので、仕方なしに言う。
承菊が穏やかな表情でこちらを向いた。
「身柄を拘束し、御屋形様の沙汰を待っております」
承菊は交渉で開城させた。その決断をしたのが城代の永富二兵衛だ。
北畠殿を捕えていること。長野家を含む複数の北伊勢衆が南下していること。
宮川にいた本隊は、北畠家本領の多気へ通じる道を塞ぐために、田丸城を素通りした。
城を守るための援軍は来ない。抵抗すればここが戦場になる。
その上で、城を明け渡すなら、城兵にも町にも手を出さない……と。
それだけなら「ふざけるな!」で終わっただろう。北畠軍がすぐに取って返せば、戦って勝てないわけでもなかったからだ。
だが、北伊勢衆の動きが思いのほか早かった。あっという間に田丸城の近くまで迫り、城を囲める位置まで兵を進めた。
こうなると、本隊も田丸へは戻れない。戻れば、多気への道を空けることになる。
しかも宮川の対岸には今川の大軍がいる。北伊勢衆と合流した場合、城はひとたまりもない。
残存兵が少なすぎて、まともに迎え撃てる状況ではなかった田丸城は、籠城して城主の戻りを待つことすらできなかった。
承菊は約束通り、城に残っていた女子供を解放した。
その中には城主田丸殿の妻子もいた。永富が城を燃やすという判断ができなかった理由のひとつでもあるだろう。
「城代は腹を切ると申しております」
孫九郎は首を傾けて、承菊の返答を吟味した。
永富は、女子供を解放するときに、共に城を落ち延びることもできなくはなかった。
逃げなかったことは評価できる。だが無抵抗での降伏は、一般的にはあまり褒められない選択だ。……軽々しく撒き菱を仕掛ける連中よりは、ずっと好感が持てるけれども。
「お会いになられますか」
問われて、首を横に振った。
会う必要は感じない。責任を取りたいならそうすればいい。ただ……
「恭一郎」
「はいっ」
小姓として付き従っていた田所恭一郎が、元気な声を上げた。
「望むのであれば介錯を。だがその前に……囚われている北畠殿のご様子を教えてやるといい」
大広間で、誰かの沈黙に色がついた。それは驚愕と言うよりも、狼狽に近かった。
こちらが北畠殿の身柄を押さえているとは思っていなかったのだろう。
にっと、承菊の口角が上がった。
……楽しそうだな、坊主頭。だが楽はさせないぞ。
「田丸城は当面今川が預かる。城の備えの確認と、兵の配備を」
「兵糧は持ち出されております」
承菊の待ってましたと言いたげな返答に頷く。
「ならば大湊より運ぶ」
「今川領から兵を呼び寄せますか」
「いや」
孫九郎は扇子を手で弄び、承菊の反対側に座る井伊殿を見た。
「兵は足りておると思う。どうだ?」
「……は」
井伊殿が意味ありげな表情で頷いた。
「この城の防衛を任せていただけるのであれば」
やけに声を張っているなとは思った。
孫九郎の中のセンサーが、強い警戒を発した。
「仮に、ここにおいでの皆様が一斉に敵に回ったとて、なんということはございませぬ」
できれば飛びついて、その口ごと塞ぎたかった。
だが一度発せられた言葉は戻らない。
「これは頼もしい」
孫九郎の顔には、大きく“やめろ”と書いていたはずだが、承菊は知らぬげに続けた。
「では石けりを始めますか?」
「承菊殿、それは御屋形様のお楽しみにて」
「ああ、そうでした」
孫九郎の前に座る二人ともが笑う。
井伊殿の口元には白い歯が覗き、承菊は上品に手で口を押える。
もう喋るなよ、お前ら!
孫九郎はパシリと扇子を閉じた。慌てていたので、場違いに鋭い音が出てしまった。
対面する北伊勢衆は、無言のまま視線を伏せている。
声に出して笑っているのは、井伊殿と承菊だ。
孫九郎は真顔だし、壁際に座る小姓や側付きたちの顔には張り付いたような笑みが浮かんでいるだけだ。
きっとすぐにも誰かがいきり立つと思っていたのだが、続く長い間、やけに空々しく聞こえる笑い声だけが大広間に響いた。




