23-3 伊勢 田丸城3
湿った畳は床に敷いてあるだけのものだったので、小姓らが数人がかりで脇へ避けようと持ち上げた。するとぼたぼたと黒い水が滴り落ちた。墨汁に見えるほど真っ黒な水だ。
ちょっと白湯をこぼしたとか、そんなかわいらしい量ではない。
あのまま気づかず座っていたら、ひょっとすると漏らしたように尻だけを濡らす羽目になっていたのではないか。
孫九郎は無意識のうちに笑っていた。
……いや、笑うしかないだろう? 初対面の伊勢衆らの前で、粗相をしたと笑いものにしたかったのだろうか。
「これはどういうことでしょうか」
真っ先に口を開いたのは承菊だった。
穏やかで優し気な口調だ。知らない者なら、温和な僧侶だと勘違いしてしまいそうなほど。
「城内は、我が殿がおいでになる前に、隅々まで改めております。どういう意味かおわかりか」
それは嘘だ。城内のすべてを調べるには、人手も時間も足りないはずだ。
だが承菊はしれっとそのあたりを流した。
「この中に、仕掛けた者がいるということです」
「待ってくだされ」
長野殿が強張った表情で声を上げた。
「此度の不始末は必ずや雪ぎます故、なにとぞ」
本人は、承菊のザルすぎる罠に引っ掛かったことに気づいていない。
必死になって頭を下げ、この場をおさめようとしている。
承菊の唇の端がわずかに上がった。
「雪ぐとは、どのように?」
その言い方を聞いて、今川勢の幾人かは察しただろう。
この野郎。わざと嫌がらせを見過ごしたな。
何人かが目を逸らせたが、目線を下げている伊勢衆は気づかなかった。
「そ、それは」
長野殿は口ごもった。それはそうだろう。ここにいる者たちは長野家の家臣ではない。勝手に処罰できるわけがなく、口を突いて出た言葉をひっこめることもできない。
「……わかりました」
狼狽している長野殿をしばらく眺めた末に、承菊は穏やかな口調で言った。
「そういえば先だって、我が名、九英承菊を騙った者がおりまして、大変迷惑を致しました。下手人は捕えたそうにございますが、この中にお仲間がいると聞いております」
「それは違います、その者は」
長野殿は言いかけて黙った。
その先を言ってしまえば、「北畠家が策略した」と公言することになる。
北畠家と敵対し、それについてはとうに腹をくくっているはずなのに、やはり国司である北畠家には遠慮があるのだろうか。
「その者は? ……長野殿はよくご存じのようだ」
承菊の声色は穏やかで、だからこそ真綿で首を絞められているように感じるだろう。
だがな、長野よ。こんなもんじゃないぞ。
孫九郎は、まだまだ優しいと思いながらため息をついた。
「承菊」
孫九郎の仕事は、この暴れ馬の手綱を引くことだ。
「それについては改めて」
孫九郎がそう言うと、ちらり、と坊主頭がこちらを向いた。振り向いただけだが、とんだ流し目だ。見る角度によって、鋭利な刃物に見える。
「はい。ではそれについては、いずれまた改めまして」
思っていたよりも穏やかに頷かれ、内心でほっとする。
「ですが、撒き菱などは質が悪うございます。万が一御屋形様が怪我などをされようものなら、ここにいる今川兵だけではなく、三河遠江駿河、伊豆相模からも兵を起こし……」
「承菊」
もう一度、孫九郎は承菊の名を呼んだ。
居並ぶ伊勢衆が震えているじゃないか。もうやめてやれ。
「子供を相手に子供じみた悪戯を仕掛けただけだ。益体もない」
実際に撒き菱を踏んだわけでも、尻を濡らしたわけでもない。あるいはもっと恥をかくような仕掛けをされていたのかもしれないが、掛からなかったのだから見逃してやれ。
そんな孫九郎の心の声が聞こえたのか、承菊はわざわざこちらに向き直り、丁寧な所作でつるつる頭を下げた。
「御屋形様におかれましては、もっと御身を大切になさっていただきませんと」
歌うような奇妙な抑揚のある声だった。
「三歩先にある石とて、お命に障るやもしれませぬ」
孫九郎は頬を引きつらせた。
承菊がやろうとしていることが、わかってしまったからだ。
「待て」と言おうとした言葉は、喉の奥に引っ掛かって、すぐには出てこなかった。
「邪魔な石の排除は、我らにお任せください」
にこやかな、あまりにもにこやかな宣言だった。
孫九郎は目を覆いたいのを必死でこらえた。いや、仮にそうしたとしても、誰もこちらをみていないし、気にもしないだろう。
大広間の視線はすべて承菊に集まっていた。
伊勢衆はようやく何かを理解したように息を飲み、更に顔色を悪くした。
邪魔な石。
承菊がそう呼んだのは、ここまで行軍をともにしてきたのであろう、彼らの事だ。
そしてここで仕組まれた悪戯は、面子を重んじる武士にとって、開戦の口実になっても文句が言えないものだった。あくまでも、まともに引っ掛かっていたら……だが。
だが未遂だ。怪我もなく、恥もかいていない。
……あるいはこいつ、撒き菱を踏んだらよかったのに、と思っているのか?
それを伊勢侵攻の口実にするつもりだったとか……言わないよな?
「承菊」
さすがに微妙な気持ちになってきたので、自然と声が渋くなった。
「邪魔な石ならば己の足で遠くに蹴る」
「もちろんでございます」
ぱっと、承菊の声のトーンが上がった。
孫九郎ははっとして、満面の笑みを浮かべた坊主頭を見返した。
同時に、その向こう側に座っている伊勢衆の顔色の悪さも。
いや違う。違うんだ。
言い訳したかったが、そんなことを言える空気ではなかった。




