23-2 伊勢 田丸城2
今川家の旗が、田丸城に翻っている。
孫九郎は大手門が見える位置で足を止め、目を細めた。
真上近くまで昇った陽が、容赦なく照りつけている。
暑い。早く日陰に入りたい。
今川の旗が伊勢の城に立っている違和感も、暑さには勝てない。
「御屋形様」
恭しく丁寧な承菊の声に、ギクリとした。
それを面には見せまいと、渋い表情を作って振り返る。
承菊はその場で膝を折り、頭を下げていた。
「ご不快であれば、旗を降ろします」
今更殊勝な顔をしても無駄だからな! そう言ってやりたいのを飲み込む。
こちらを見ている伊勢衆が、ある者はぽかんと口を開け、あるものは目をむき、あっけにとられた顔をしている。
……マジでやめてくれ。
くぐもった唸り声のようなものが聞こえて、そちらを見ると、顔を伏せた井伊殿の肩が震えている。……感涙しているわけではない。笑いをこらえている。
ムッと、また怒りが込み上げてきた。承菊に仕返しをしてやらねば気が済まない。
あのつるりとした頭を扇子で叩いてやろうか。
そんな考えを弄びながら「立て」と声を掛けた。
「一番手柄がそのような真似をするな」
井伊殿も渋沢もよくやってくれたが、戦果でいうと田丸城を獲った承菊には劣る。
だが正直、城を獲るよりも維持するほうが大変なのだ。
北畠家がこのまま田丸をあきらめるとも思えないし。
それでも、ここに今川家の旗が立つことが、重要な意味を持つのは確かだった。
立ち上がった承菊を促して、大手門をくぐる。
周囲を守る谷らの警戒がビリビリと伝わってくる。
これが罠なのではないか、どこかに伏兵がいるのではないか。そう心配しているのだろう。
だが孫九郎は気にせず足を進めた。承菊が大丈夫だというのなら、問題はないはずだ。
それは信頼しているというよりも、もし罠だとすれば承菊が気付かないはずがなく、可能性があるとするならこの男自身の裏切りだが……それは防ぎようがないのではないか?
いや、城の表には井伊殿が兵を置き、城に入る孫九郎には渋沢がついている。何が起こっても対処できる。
傾斜の強い道を進んで、大手門から本丸曲輪へと向かう。
攻城戦がなかったので、城は綺麗なままだった。
目立つところに、今川家の旗がたなびいている。
昨日までは、北畠家一門衆の城だった。今日からは違う。
その、印だ。
大広間に入る前に重い兜を脱いだ。
思わず「ぷはっ」と声がこぼれた。
鎧も外したいところだが……駄目? 駄目か。
草鞋は脱いで、冷たい水で足を濯いだ。それだけでも随分と楽になった。
そうする間も、孫九郎はずっと見られていた。
視線を浴びるなど毎度のことだが、どれもあまりいい目つきではない。
孫九郎がここにいることに、思うこともあるのだろう。
段差を越えようとしたところで、さっと幸松が前に出た。何のつもりかと戸惑っていると、目の前に落ちていた何かを拾い上げ、懐紙を幾重かにして包んだ。
何を拾ったのかは見えなかった。ただ、手早く孫九郎の行く手を清める仕草は、実に小姓らしく様になっている。
褒めようとしたところで、同じように膝をついた次郎三郎が、懐紙で包んだ何かを受け取った。
「……こちらへ」
何事もなかったかのように、承菊が促す。
孫九郎は一瞬だけ承菊と視線を合わせ、同じく何も気づかなかった振りをして足を踏み出した。
大広間に足を踏み入れた瞬間、ふわりといい匂いがした。
香を焚き締めたようなにおいだ。
あっというまに汗臭さでわからなくなったが、おそらく簾から香ってきたのだと思う。
田丸殿は洒落者だったのか。あるいは、北畠家は公家の流れを汲むという自負があったのか。
内装も、豪華ではないが品よくまとまっていて、武家が好きな派手見えより好みに合う。
風が吹き込んできた。心地よい風だ。
なかなかいい城だと思いながら上座に向かい、座ろうとしたところで、今度は谷が前に出た。
並んで次郎三郎が歩をすすめ、最上座の高座を整える。
今度ははっきりと見えた。
孫九郎が座ろうとしたところに、小さな尖ったものが置かれていたのだ。
撒き菱だ。
これはどういうことかと問うべきか。
孫九郎は立ち止まり、首を傾けた。
「申し訳ございませぬ」
顔を上げると、長野殿が立ち上がっていた。谷が前に出たのはそのせいか。
「すぐに片づけます」
そういって自ら上座に向かおうとしたのを、谷が止めた。
孫九郎は苦笑した。
「構わぬ」
長野殿が仕組んだことではないだろう。この城の持ち主が、落ちる時に撒いて行ったのか。あるいは……
「歓迎されておらぬのはわかっている」
さっと顔を伏せた者が複数。
相手が子供だと侮ったか?
いや、この中の誰かが菱を撒いたとは限らない。だが、知っていてこちらの反応を見ようとしていた者はいる。
「なかなか見ない歓迎ではある」
孫九郎は含み笑いながらそう言って、小姓たちが片付けた上座に足を踏み上げた。
踏んだ感触がおかしい。
畳が、ぐし、とわずかに沈み、足裏に冷たい湿り気が伝わってくる。
……水を含ませてある。
表面上は乾いて見えるし、その上に乗るわけにはいかない小姓たちは気づかなかったのだろう。
……ちゃぶ台返しではないが、畳をひっくり返してやろうか。
陰湿な嫌がらせだ。
インフルです




