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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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23-1 伊勢 田丸城1

 二日経って、川の水が引いた。

 その頃には、増水によって遮られていた情報が次々に届くようになった。

 田丸城、落城。

 その知らせが届いたのは数刻前。

 攻城戦すら起こらずに、田丸衆は北畠の本領まで退いたらしい。

「……旗?」

 孫九郎は眉間にしわを寄せて問い返した。

 弥太郎が、普段通りのにこやかな笑顔で頷く。

「はい。丸に二つ引両の旗が、城に掲げられたそうにございます」

 それってうちの旗じゃないか!

 何故と問い返そうとして思い出した。そういえば、雲出川の攻防に貸し出したのだった。

 同時に、承菊のつるりとした顔が脳裏に過る。

 ……あいつか。

 孫九郎はグリグリと眉間を揉んだ。

 勝手な真似はするなと言ったはずだ。三度目がないとも。

 だが報告自体は受けていた。安濃津にいると。

 そこで止めていれば、こんな事にはなっていなかった。

「……被害は」

「長野家及び諸家が、実際に戦う場はございませんでした」

 つまり承菊は、田丸城を無血で落としたのか。

 これでは叱りつけるわけにもいかない。

「承菊殿の正しい使い方ですな」

 井伊殿が感心したように頷き、周囲の者たちもこの快挙に湧きたっている。

 だが孫九郎だけは、渋面を崩すことができなかった。

 ――人の土俵、人の褌で相撲を取るなよ!

 だんだん腹が立ってきた。


 水に浸かった田畑は、泥にまみれて見る影もない。

 よくあるとはいっても、収穫期もまだのこの時期に大変な被害だ。

 見渡す限り同じ色に染まっていて、いまだ復旧の手すら入っていない。

 ……いや、恐ろしい今川軍が進軍してきている。農民たちは皆、息をつめて様子をうかがっているのだろう。

 宮川を渡って二刻。

 どこまでも続くびちゃびちゃと足元の悪い道を、注意深く進む。

 馬に乗っている孫九郎らはいいが、九割九分は徒歩なので、ひどい泥汚れだ。

 こんな行軍中に考えることなど、そう多くない。

 敵襲に備える。一人でも多く連れて帰る。そして……風呂だ。

 伊勢に温泉はあったかなと、ぼんやり頭の中の地図を開く。

 湯治場がいい。蒸し風呂ではない温泉に入りたい。

 額から伝った汗が、頬を流れ落ちた。

 さすがに素襖姿のままでいることはできず、鎧兜を身にまとっている。

 大将の為の装具は重く、当たり前だが涼しくはない。

 こんな季節はTシャツに短パンがいいのに……と、かつての日常を懐かしく思い出す。

 孫九郎はジリジリと照り付ける太陽を見上げ、息を吐いた。

 無理なのはわかっている。それでも、何年経っても焦がれてしまうのは仕方がない。

「田丸城です!」

 先頭のほうからそう叫ぶ声がした。孫九郎の位置からは、まだ見えない。

 周囲が慌ただしく動き始める。

 ピーと甲高く、猛禽が鳴く声がした。


 やがて森の向こうから見えてきた田丸城は、平地のただ中に突き出した低い丘の上にあった。

 山城というほど高くはない。

 だが、近づいてみれば思っていた以上に面倒そうな城だった。

 高い石垣も、空を突く天守もない。

 周囲の田畑から立ち上がる斜面は切り立つように削られ、その上を土塁と木柵が取り巻いている。裾には堀。城へ続く道も、素直に上まで登らせてはくれない。

 見栄えのする城というより、丘そのものを削り、堀を穿ち、土を盛って固めた城だった。

 まともに攻めれば、それなりの血が流れただろう。

 ……これを、無血で開城したのか。

 孫九郎は、たなびく今川の旗を見上げ、ぞわりと背筋に悪寒が走るのを感じた。


 出迎えたのは、墨色の法衣の僧侶だ。

 頭巾もないつるつるの頭に陽光が照り付け、ひときわ異彩を放っている。

 孫九郎は慎重に馬を降りた。

 長時間の乗馬で膝がガクガクしているが、そんな状態を衆目にさらすわけにはいかない。

 藤次郎が手綱を取り、谷が側に寄る。

 自然な動きに見えるが、落馬対策なのは内緒だ。

 なんとか手を借りずに地面に両足をつく。同時に、重い兜がずるりと前に傾いた。

 直したい。だがここで兜を正すのは少しみっともない。

 ちょっとの不快は辛抱するべきかと迷っていると、承菊のほうから近づいてきた。

 僧形の男と、それに続く鎧兜に武装した男たち。

 ひどく既視感を覚える光景だった。

 伊豆でも、他のところでも。承菊はいつでも背後に武士を従えている。

 後続の男たちのひとりに、見覚えがあった。

 長野殿だ。

 では他の者も、北伊勢の国人たちだろう。

 彼らの視線は優しいものではなく、こちらを計る色があった。

 改めて、気を引き締める。

 単純に味方になったとは考えない方がいい。

 膝を震えさせている暇などないぞ。

「お待ちしておりました」

 大きな声ではない。だがよく通る声だ。

 孫九郎はにこやかに微笑む承菊を一瞥し、すぐにもこぼれそうになった苦情を飲み込んだ。

「お暑うございましたでしょう」

 やめろ。徳の高い僧侶の顔をして笑うな。

「さあさ、中へ」

 お前の城ではないだろうと言わなかった自分を褒めたい。

 風が吹く。泥の臭いを運ぶ生暖かい風だ。

 承菊の法衣の裾が、ふわりと風をはらみ、はためいた。

 相変わらず一人だけ涼し気な頭で、涼し気な法衣だ。

 孫九郎はぐっと唇を引きしめ、何もかもを沈黙のうちに隠した。

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― 新着の感想 ―
「勝手な真似をするな。三度目はない」    それならば怒られないような手を使って結果を出す腹黒坊主、さすが仕事ができる軍師である。孫九郎の失敗は今川の旗印を長野家に預けっぱなしにしていた事で、雲出川に…
北伊勢衆(あれが駿河の竜・・・・・・何か小っちゃくない?)
寒月様がよい湯治場を教えて下さるでしょう。 冬嵐記37-6 寒月様 「そうよな。伊勢に湯治に行くというのはどうや」 「伊勢ですか?」 (略)  それは別れの言葉でもあった。  次に会う事を、ともに湯治…
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