22-10 伊勢 宮川東岸4
孫九郎は腹に力を込め、まっすぐに宮川を見据えていた。
剣戟の音が聞こえる。どちらのものともわからない怒声、喚声。
遠いどこかではない。
背後で誰かが叫ぶ。ひそかに近づいていた北畠兵と接敵したのだろう。
ぐっと奥歯を食いしばる。振り返らない。
幸松を失うのではないか。井伊殿も、側付きたちも、最前線で戦う渋沢はなおのこと。
そんな恐怖を飲み込んで、ただ前を見る。
誰もが命を懸けて戦っている。
孫九郎の名のもとに、槍を握り、刀を振り、二度と家族の元へ戻れぬ者もいるだろう。
ならば旗印として立っていることが、この身に課せられた務めだった。
逃げも隠れもしない。それが武士であることだ。
息が詰まる。汗が頬を伝う。いつの間にか呼吸を忘れていて、くらりと眩暈がした。
あれだけの雨が降り、川の水はまだ茶色く溢れたままなのに、真夏の空はどこまでも青く、雲は白く、そして太陽はギラギラと輝いている。
ああ、まだ誰かが叫んでいる。血を浴びた雄叫びか、断末魔の声か。
……いや、悲鳴だ。
その絶叫は、今川本陣で立ったままの孫九郎の耳にもはっきりと届いた。
誰の悲鳴かとか、どこから聞こえたとか、そういうことは問題ではない。
それは紛れもなく、恐怖をまとったものだった。
そしてひとつのきっかけでもあった。
孫九郎はぐっと軍配を握りしめ、一歩前に出た。
瞬間、風向きが変わった。東から西へと吹き降り、ざああっと茂みが揺れる。
それは戦場に吹く風。今川にとっての追い風だ。
孫九郎は勢いよく息を吸い込んで、声を張った。
「いまだ、押せ!」
一斉に、そこかしこから呼応があった。
東岸にたどり着いた者たちは、待ち構えていた今川軍の壁を越えられなかった。
誰かが悲鳴を上げ、ひとりが下がる。それにつられて隣も、その隣も下がる。
だが背後にあるのは、濁流の宮川だ。
ひどいありさまだった。
逃げようにも、いったん渡ってしまった川に戻ることはできない。
勾配を上がることができなかった者たちを見て、後続の小舟は岸にたどり着く前に引き返そうとした。
そして彼らの将は、敵前逃亡を許さなかった。
何が起こったのか、明言は避けておこう。
ただ、今川勢がその者を捕えた時には、返り血を浴びて真っ赤だったそうだ。
「御屋形様」
井伊殿から報告を受けていた孫九郎は、パッと顔を上げた。
先ほどは「兄上」と呼んでいた幸松が、井伊殿の前でかしこまった顔をして一礼した。
「敵は百五十程でございました」
首を傾けた井伊殿に、北畠兵の一部が今川の脇を突きに来たのだと告げると、感心したように幸松を見た。
「急襲を防ぐとは、心強い若武者ぶりでございますな」
孫九郎は安堵を隠して口角を引き上げた。
幸松がきちんと出来ることはわかっていた。それと、弟の心配をするのとは別の問題だ。
「よくやった」
怪我はないかと聞きたいのをぐっとこらえて、井伊殿に褒められてまんざらでもなさそうな幸松に頷きかける。
身体は大きくても、まだ幼い少年の顔立ちが、あどけなく喜色に染まった。
「敵将を捕えております」
「ほう」
父なら討ち取っていたはずだ。そう思い改めて目を向けると、幸松がすっと胸を張った。
「主君を取り戻しに来たと言うております」
「……百五十でか?」
孫九郎は不審に感じて眉間に皺を寄せた。
今川軍の脇をついて混乱させることが目的なら、その数でもやれないことはない。
だが、北畠殿を取り戻すには、ずいぶんと寡兵だ。
「宇治に向かおうとしておったのでは」
孫九郎は井伊殿を見上げて、「それはどうかな」と首を傾ける。
藤波屋敷にも内宮にも兵を置いている。どちらを狙ってもうまくはいかないし、これ以上神宮との関係が悪化するのは避けたいはずだ。
……いや、今更か? 良識の範囲で考えるから、あり得ないと思うだけかもしれない。
「申し上げます!」
宮川西岸の様子を見に行っていた土井が戻ってきた。
「北畠軍が退き始めております!」
ザワリ、と本陣周辺が騒めいた。
派手な決戦ばかりが戦ではない。
小競り合いを何度も繰り返し、相手の消耗を待つのも定石のひとつだ。
今回は特に、国司である北畠殿の身柄を取り戻すという大きな目的があるから、簡単には片づかないだろう。……そう思っていた。
だが、北畠の軍勢が一斉に退き始めた。
対岸の動きなので目視でわかる範囲でだが、どうやら田丸城方面に向かっているようだ。
渡河で兵を減らしたが、まだ主力は残っているので、ここで敗走を選ぶことはないはずだが。
大将が軍略的な判断をしたのか。あるいは北畠家から何らかの指示があったのか……。
「御屋形様」
素早く本陣に駆け込んでいたのは、弥太郎と、幾度か顔を見たことがある配下の忍びだ。
船頭のような恰好をしているから、船で宮川を渡ってきたのかもしれない。
その忍びは、弥太郎の陰に隠れるようにして両膝を折って平伏した。
「長野軍、いや北伊勢の国人領主たちの連合軍が、雲出川を渡って南下しております」
かすれ声の報告を受けて、息を飲む。
彼らは高々と旗を掲げ、道中の領主たちを巻き込みながら進軍しているそうだ。
そしてその中心に、承菊がいる。
――あいつ、やりやがったな。




