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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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22-9 伊勢 宮川東岸3

 昼下がりの川べりに、無数の小舟がひしめいて並んでいる。どこからもってきたと聞きたくなるほどの数だ。

 濁流が渦巻く宮川の西岸。まだ渡ろうという感じではないが、その準備なのは一目瞭然だった。

 パフォーマンスならいいが、掛かっているのは雑兵の命だ。

「……本気か」

 顔をしかめているのは孫九郎だけではなかった。

「主君を取り返さねば、沽券にかかわります故」

 井伊殿もまた、渋い顔のまま言った。

 捕えているのは今川ではなく神宮側だと言ったはずだが、都合よく忘れているのだろうか。

 宮川の東は神宮の勢力圏だ。大軍を持って宮川を渡ることがどういう意味を持つのか、もっと考えるべきだ。

 一刻ほどして、東雲が本陣を訪れた。

 北畠殿を連れてくるということだったのに、見たところ同行していない。

「会いとうないと言うとるのや」

「……なんですって?」

 思わず聞き返したのは、仕方がないと思う。

 東雲が困った顔で首を振った。

 鶸の尋問を受けていた北畠殿は、今川本陣に行くのを拒んでいるのだそうだ。

 会いたくないならまぁ……とはならない。

 そんな言い訳が通じる状況でもなかった。

「それでは、こちらの主導で話を進めても問題ないということですね」

 せっかく素襖姿で待ち構えていたのに。

 孫九郎は溜息をつき、こちらを見ている井伊殿と視線を合わせた。

 このままだと、小舟に乗った北畠兵が宮川を渡ってくる。

 待ち構えているだけというわけにはいかない。

 北畠殿をここへ連れてきて、もう一度話し合いをと思っていたが、更に事態は進んでしまった。

 こうなってくると、迎え討つしかなくなる。

 一息ついて頷くと、井伊殿の表情にこれまでの温和さではなく、厳しいものが過った。

 戦いに備える武将の顔だ。

「……どう見る」

「左様ですな」

 井伊殿の口元で、白い歯がきらりと光った。笑ったというよりも、犬歯をむき出しにした獰猛な表情だった。

「岸に上がらせぬ、でよろしいのでは」

 川は天然の防御壁だ。敵の数が多くとも、守る方が有利。

「火矢を射かけるという手もあります」

 次郎三郎が、片手をあげながら言った。

 孫九郎は少し考えて、頷いた。

 ここまで露骨に渡河の準備をしているのだ、夜を待ってではなく、数で押す気だろう。

 兵数だけみれば、こちらが不利だ。だが渡河で数を減らせるし、上陸したらしたで……

 いまだに微動だにしない渋沢隊に目を向ける。

 あの男の横を抜けるのは、容易くはない。

 孫九郎は、藤次郎が恭しく掲げた軍配を手に取った。

 伊勢でこれを握ることになるとは、思っていなかった。


 川岸で、次郎三郎が大弓を構える。

 力強い腕が弓弦を限界まで引く。

 真田家の小姓が素早く矢じりに火をつけた。

 孫九郎は、少し離れた本陣から、その様子をじっと見ていた。

 軍配を握った片手をあげる。

 次郎三郎はこちらを見ていない。川を渡ってくる小舟に狙いを定め、開戦の合図を待っている。

 孫九郎は慎重に息を吐いてから、さっと軍配を振り下ろした。

「射かけよ!」

 ここで父のような大音声を出せれば格好がつくのだが、そこまで声は通らない。

 だが、孫九郎のその軍配の動きは、即座に前線に伝わった。

 弓部隊が一斉に火矢を放つ。

 距離があっても、ビュンビュンと矢が飛ぶ音が聞こえる気がした。

「あっ」

 幸松が声を上げる。

 火矢のひとつが敵の小舟に突き立たったのだ。

 堂々と掲げられた北畠家の旗が、あっという間に燃え落ちる。

 もちろんすべての旗が燃えたわけではなかったが、その光景は象徴的だった。

 やがて火矢が尽き、矢だけが飛ぶ中、小舟の軍勢が岸に迫ってくる。

 右翼は井伊軍、左翼は渋沢隊。それぞれが槍や刀を構え、接敵を待ち構える。

「御屋形様、上流側より敵が近づいております」

 不意に、耳元で弥太郎の声がした。

 はっと顔をあげて振り返った時には、藤次郎や土井らが動き始めていた。

 谷がカチャリと鎧の音を立てて刀を抜く。

 孫九郎は素早く周囲を見回したが、目に入る範囲に敵兵の姿はない。

「どれぐらいで来る」

「四半刻ほどかと」

「数は」

「はっきりしたことはわかりませぬ。百か二百」

 どこから来た。川の東側には敵はいないはずだった。

 いや、上流のほうはすでに川を渡れるところがあるのかもしれない。

 本陣のある丘の上は見晴らしが良いが、山側には木が密集しているから、地の利がある者がそちらから兵を進めていてもおかしくはなかった。

「渋沢殿を呼び戻しましょう」

 南の進言に首を横に振る。

 百なら本陣の兵のほうが多いし、まだ猶予がある。

 孫九郎はぐっと腹に力を込めた。

「陣形を崩してはならぬ」

 最も避けるべきなのは、混乱だ。

 たとえば渋沢や井伊殿が正面の敵から目を逸らせば、渡河はもっと簡単に進むだろう。

 北畠軍の本隊を勢いづかせるわけにはいかない。

「兄上」

 はっきりした声が耳を打った。

「この幸松にお任せを」

 孫九郎ははっとして、既に己よりも頭ひとつ以上背が高い弟を見上げた。

「本陣に敵を近づけはしませぬ」

 毅然としたその表情は、父にとてもよく似ていた。

 孫九郎は何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

 幸松はすでに初陣を済ませている。元服はまだとはいえ、福島家の兵を率いて伊勢入りをしている。その手に握られているのは、かつては孫九郎が預かっていた、福島家嫡男の刀だ。

 ここで駄目だというのは簡単だ。南や土井に任せるほうが安心できるとも思う。

 だが見上げた幸松の表情には怯えも躊躇もなく、それが孫九郎の個人的な感情を押しとどめた。

「幸松」

「はいっ」

「福島兵を連れて、近づいてくる兵を迎え討て」

「はっ」

 孫九郎よりも低く太い声が、頼もしく響いた。

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― 新着の感想 ―
父親の上総介(正成)の様な猛将の片鱗を見せていた雪松がどんな活躍をするのか、続きが楽しみです。
逆賊コースまっしぐらですね 軍勢が川を渡るのを周辺住民も目撃しているでしょうし、もう伊勢に居場所はないんじゃないでしょうか この場にこない北畠は当主としての責任を果たす気がなく、家臣を止めるチャンス…
 禁門の変で御所に撃ちかけた長州の兵は諸説ありますが最大三千、蛤御門を守る会津藩兵が二千、この戦いで長州側の死者が四百、幕府軍の死者は六十というあり得ない結果で終わります。これは長州側の攻勢が攘夷派の…
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