22-8 伊勢 宮川東岸2
田丸又四郎は歯を食いしばって激情を飲み込んだ。
垂れ流しにしていた北畠殿とえらい違いだ。
だが、やがてこぼれた声は、怒りを隠せず震えていた。
「……国司様を捕らえたと?」
孫九郎は薄笑いを浮かべたまま、かぶりを振った。
「祭主様の手の者に詮議を受けている」
手の者はまずかったかな。忍びと明言すれば、又四郎は憤死しそうだ。
「おおむね、先ほどの件について認めている」
あれは目に見えて大きく踏みはずした一歩だった。
「禰宜たちをひそかに調略し、外宮だけではなく内宮までをも掌中に収めようとした。挙げ句が祭主様への夜討ちだ」
孫九郎は扇子をパチリと鳴らした。
「ずいぶんと大胆なことをする」
「言いがかりだ!」
当の本人が認めているのだ。今更「そんなつもりはなかった」では通らない。
だが又四郎は頑として譲らなかった。
「国司様を捕らえたなどと偽り、好き勝手に言うているだけであろう!」
張り上げる声は大きかったが、芯の部分が揺れているのがわかった。
「そんなものは伊勢へ兵を入れる口実だっ!」
周囲から、怒りのざわめきが湧いた。
ここは今川本陣。田丸又四郎にとっては敵地だ。
そのことを忘れていたわけではないだろうが、一斉に向けられた敵意にはっとしたように身をこわばらせた。
孫九郎は軽く扇子を振って周囲を宥めた。
「口実なら、もっとましなものを考える」
「国司様は伊勢国司。神宮を敬いこそすれ、害する理由などない!」
「伊勢が欲しかったのではないか?」
「……何を申される」
「北では武家が勢力を伸ばし、志摩では海賊衆が好き勝手している。それに我慢がならなかったのだろう」
又四郎は顔面から血の気を引かせた。
それは怒りからというよりも、思い当たる節があったからかもしれない。
「神宮がある限り、南伊勢ですら掌握には程遠いからな」
「今川殿!」
「怒鳴っても起きたことは変わらぬぞ」
孫九郎は荒く息を継ぐ又四郎をじっと見据えた。
「我らは伊勢を取りに来たわけではない」
「……二千もの兵を率いておいて、よくもそのようなことを」
「その二千を呼び込んだのは、そちらだ」
北畠のやったことはともかくとして、又四郎の言い分は分からなくもない。
ほとんどの者が、今川勢の上陸をただの参拝とは思わないだろう。
だが逆を考えてみろ。孫九郎がもし寡兵で来ていたら、北畠はどう動いた?
こうなってみれば、今川が兵を率いてきたことは、必然だったと言ってもいい。
「……この治部の前で、付け入る隙を見せたことを恥じろ」
北畠は、藪をつつきすぎた。
一条家への調略も、今川への敵意も……表に出さなければこんな大ごとにはなっていなかったのだ。
「だが敵対するというのなら、相応に相手をするのが礼儀だ」
「……退かぬと申されるのだな」
又四郎は歯を食いしばった。その声は静かだが、重かった。
孫九郎は軽く首を傾けた。
「退いてほしければ、そちらが先に兵を退け」
「ここは伊勢だ!」
「知っている」
「我らが兵を退く理由はない!」
「ならば、こちらにもない」
短い沈黙が落ちた。
又四郎は孫九郎を睨み据えた。
「……遠江の小童が、ずいぶんと大きな口を叩くものだ」
周囲の空気がズシリと重くなった。刀の柄に手を掛けた者もいる。
だが孫九郎は笑った。
「そうだな。遠江生まれの猪武者だ。公家の作法には疎くて困る」
「他国へ踏み入りながら厚顔無恥な」
「武家故に」
あっさり返すと、又四郎がぐっと眉を寄せた。
「だが」
孫九郎は笑みを消した。
「祭主様を襲った者を、そのまま伊勢国司としてお返しするほど、お人好しでもない」
「……その言葉、田丸中務大輔へしかと伝える」
「ああ。漏らさず伝えてくれ」
又四郎は深く一礼した。礼だけは、最後まで崩さなかった。
踵を返した背を見送りながら、井伊殿が低く唸る。
「随分と無礼な若造ですな」
「あれは、こちらを怒らせたかったのだ」
怒らせるしか、手立てがなかったともいう。
「刀を抜くなり怒鳴るなりされれば、帰ってから話がしやすい。今川は道理の通じぬ者だ……とな」
だが、一歩間違えれば切りつけられる状況で、あれができる者は多くはない。
「なるほど」
孫九郎は腕組みをした井伊殿を見上げた。その表情は、いつになく真顔だ。
井伊殿だけではない。側付きも護衛達もそのほかの主だった者たちすべてが、怒りを隠しきれていない。
そんなに怒るなよ。
孫九郎は、敵の将を侮辱するしかなかった又四郎を、気の毒に感じていた。
見たところ、少し揺れているようだった。
北畠殿が何をしたのか、まったく知らなかったのだろう。
今はまだ信じているようだが、それが崩れるとどうなるか……。
「水はまだ引かないか」
孫九郎は目を細め、まだ色の濃い濁流を見つめた。
伊勢に踏み込んだことが間違っていたとは思わないが、南伊勢を切り崩せそうだと考えたことは少し後ろめたい。
神宮を掌握しようとした北畠殿を非難するなら、それを利用して調略をかけるのも、あまり行儀のいい話ではなかった。
戻っていく田丸又四郎の後ろ姿から目をそらし、孫九郎は苦笑した。




