22-7 伊勢 宮川東岸1
人一倍目のいい土井には、何が見えているのだろう。
「北畠軍の陣形が変わります。何かおかしいです」
孫九郎はじっと目を凝らす。川沿いにびっしりと敵が並んでいるのは見えるが、細かな動きまではわからない。
「川を渡る気か?」
孫九郎の問いに、皆も不審そうに首を傾ける。
いくら小舟が大量にあったとしても、この勢いの川を渡るのは難しい。熟練の船頭がいて、少人数ならあるいは……。だが軍勢で渡河するのは無謀すぎる。
だが、可能性はゼロではない。
「渋沢に対岸で動きがあることを伝えよ」
孫九郎の指示に、伝令が即座に飛び出していく。
坂道を転がるようにして最前線に向かうその後姿を見送って、孫九郎はぎゅっと扇子を腰に差し込んだ。
まずは、北畠殿がこちらの手の内にあることを伝えなければならない。
あるいは百も承知で、それでもなお今川軍をひねり潰しに来たのかもしれないが……いや、違うな。
大将を取り返そうという雰囲気ではない。北畠殿がまだ囚われていないことに賭けている。増水のせいで合流できないだけだと信じて、それをこちらに知られまいとしている。そんなところだろう。
「小舟が来ます!」
目を凝らしていた土井が声を上げた。
「一艘だけ」
しばらくはわからなかったが、やがて孫九郎の目にも、濁流を巧みにかわしながら一艘の小舟が川を渡ってくるのが見えた。
本当に一艘だけだ。しかも乗っているのは船頭と、あと二人程度。
あれで攻め込んでくるはずもない。
「……使者か」
小舟に乗っている男は遠すぎて容姿まではわからないが、立派な鎧を身につけていることだけは見て取れた。
孫九郎は立ち上がった。
正式な使者なら、本陣で受けるべきだ。
使者は若い男だった。
二十代半ばほどの、なかなか見栄えのする青年だ。
「田丸中務大輔が弟、又四郎と申す」
田丸ということは田丸城主だろう。中務大輔を称するほどの家なら、北畠の一門衆か。
「今川治部大輔だ」
孫九郎はそう返してから、ちょっとだけ首を傾けて苦笑した。
相手があまりにもかっちりとした鎧武者だったので、己が身軽な素襖姿だということに気が引けたのだ。……いや、この後ここに来る北畠殿への配慮だ、配慮。
田丸又四郎はすうっと大きく息を吸ってから、張りのある大きな声で言った。
「ここは伊勢国。国司様の御領国にございます。今川勢には速やかに兵をお退きいただきたい」
真っ向から突き付けた言葉と態度に、ザワリと空気が揺れた。
ここは今川本陣。彼にとっての敵地だ。
陣幕を張られた囲いの中にいるのは、今川家の武将たち。武装した兵に幾重にも囲まれ、お世辞にも友好的とは言えない雰囲気の中、これだけのことを言ってのけるとはなかなか度胸がある。
「ほう」
孫九郎は薄く笑った。
敵意を向けられるのには慣れている。悪意や憎悪を浴びても、なんということはない。
すっかりこの時代になれてしまったなと思いながら、孫九郎はふっと息を吐いた。
それが失笑に見えたのだろう、又四郎の目がギロリと光る。
「その国司様が、祭主様の屋敷へ夜討ちを掛けたことは承知しているか」
孫九郎のその言葉に、又四郎は何を言われたのかわからないような顔をした。
「……何を」
「聞こえなかったか。北畠殿は兵を使い、夜陰に乗じて祭主様のお屋敷を襲わせた」
「そのようなこと、あるはずがない!」
即座に返ってきたのは否定だ。迷いすらない。
「国司様が、何ゆえ祭主様を襲わねばならぬ!」
「そこまでは知らぬ」
「ならば根も葉もない話ではないか!」
ああきっと、この男はそれを疑ってもいないのだ。宮川の対岸に並ぶ兵たちのほとんどが、同じように何も知らずに武器を持っている。
孫九郎は肩をすくめた。
「襲われたのは事実だ。死人も出ている。捕らえた者もいる」
又四郎の眉間に深い皺が刻まれる。
「それを北畠の仕業と決めつける証は!」
「北畠殿ご本人が認めている」
「――馬鹿な」
吐き捨てるような声だった。
「今川殿」
又四郎は孫九郎をまっすぐ見据えた。
「我らが国司様を貶めるような戯言を、ようも平気な顔をして申される!」
「戯言か否かは、じきにわかる。北畠殿ご本人の口から聞くとよい」
又四郎ははっとしたように表情をこわばらせた。
やはりそうか。北畠側は、主君の所在を掴めていない。
「……国司様をどこへやった」
「人聞きの悪い」
地を這うように低いその声に対して、孫九郎は今度は明確に煽るために笑った。
「どこにもやらぬ。ただ拾っただけだ」
扇子を口元に当て、わざとらしくため息を漏らす。
「雨で崩れた川岸におられて、危うく流されるところだった」
孫九郎は、多少は又四郎に悪いとは思いつつも、手綱を緩めはしなかった。
「配下の者たちが流れていくのを、おひとりだけ高いところから見下ろして……早う助けよと」
又四郎の表情はもの凄いことになっていた。
彼にとっては、孫九郎こそが主君を貶める悪党なのだろう。
だが、嘘はひとつも言っていない。
どう受け取るかまでは、知ったことではない。
ギリギリと、奥歯を食いしばる音がした。




