22-7 伊勢 宇治・宮川
再び藤波屋敷に戻った。
中門をくぐった瞬間、北奥の方から怒声が聞こえ、先生が遠い目をした。
内宮の状況を説明するのは先生に任せよう。ここからは家族の時間だ。
西対に戻ると、渋沢と次郎三郎が戻っていた。
折り目正しく一礼する二人に、大任をこなした疲れや達成感のようなものはない。
それよりも、夕べの火事をすでに知っていて、孫九郎に怪我がないことに安堵していた。
ほどなく井伊殿も来て、皆がそろったので軍議を開くことにした。
最初に、渋沢らからの報告を受ける。
結論を言えば、隠し米については思惑通りに片が付いた。
五百の今川兵を見て、村の者たちはあっさり米を放り出して逃げ出したそうだ。
そして渋沢隊が米を運び終えたところで、北畠の兵が百ほど村に近づいてきた。
米があることを知っていて、回収しに来たのだと思う。
だが彼らは、米俵が高台に運ばれたことを知らなかった。村が水に浸かっているのを見て、しばらくはその周辺を探していたが、ほどなく諦めて帰ったそうだ。
米は手はず通りに大湊に運ばれた。
米の持ち主は名乗り出てこず、それではと渋沢はその場にいた安濃津の商人に販売を委託し、通常よりも安い値段で流通に乗せた。
米が足りず、皆が困っていたので、大歓迎されたそうだ。
非常に協力的な女衆の後押しで、渋沢隊は出発して二日後には仕事を済ませ、夜には宇治へと帰参した。
後のことは安濃津の商人と、馬借衆を含む町の者たちに任せてきたそうだ。……それでいい。
今川の兵の五百はそのまま大湊に残してきたから、もとの持ち主が問題行動を起こしたとしても、北畠の兵が現れたとしても、対処は可能だ。
さあ、ここまでくれば、対処するべきは一か所。
「北畠軍が宮川対岸に陣を張っております」
井伊殿がそう言って、無精ひげの浮いた顎をジョリジョリと擦った。
「数は三千」
渋沢が身じろいだ。もともと先鋒を任されていた特攻隊長だ。武者震いだろう。
「……三千か」
孫九郎は顔をしかめた。
宮川の氾濫は、北畠軍が宮川を渡ることを妨げたが、水が引けば話は変わる。
西側の被害は軽いものではないだろう。だが、今川に邪魔されず態勢を整える時間は稼げた。
雲出川から撤退した兵と、田丸城の兵、それに新たに集めた兵とでそれだけの数になったのだ。
北畠家の本領の兵もいるだろう。北畠傘下の伊勢国人衆もいるかもしれない。
この先増えていく可能性も大いにある。
対する今川軍は二千ほど。
大湊には、船から出した兵が五百。あと千程度であれば、増援を呼ぶのは可能だが……。
「あの」
次郎三郎が片手をあげた。
「北畠は兵糧が乏しいのではないでしょうか」
孫九郎は、日焼けした次郎三郎に目を向けた。
あの村の隠し米を接収しようとしたからといって、北畠の兵糧が足りないとは限らない。だが、宮川の西はまだ水が引いておらず、小荷駄が人数分の兵糧を運ぶには条件が悪い。
兵は集めたが、物資が足りない可能性は大いにあった。
「このまま待たせますか」
井伊殿が顎をさすりながら言った。
手持ちの兵糧を食いつくすまで待ってもいい。どうせ川を渡ることができるまでには日がかかる。
だがそれは、相手に対処する時間を与えることにもなる。
「……いや」
しばらく考えた末、孫九郎は首を横に振った。
「今なら優位に立てる」
「宮川はまだ渡れませぬが」
「もうひとつあるだろう」
孫九郎が扇子をくるりと振ると、井伊殿はしばらく考えて、ポンと手を叩いた。
「そういえば、おりましたな」
そうだ。こちらにはもうひとつ、大きな手札がある。
北畠家の当主であり、三千の軍勢を率いる立場にいる男が、川の東側にまだいるのだ。
内宮と藤波邸にそれぞれ百の兵を残した。
もう少し増やしても良かったが、必要最低限で十分だろうと井伊殿が言った。
それよりも、敵に見せる兵をそろえた方が良い。
孫九郎はその意見を受け入れ、今川軍もまた、宮川沿いに軍勢を配備した。数は二千足らずだ。
川の水はまだ引かない。
その間に北畠は三千の兵を宮川の西岸に集めたが、今川軍にも軍備を整える時間ができた。
刃を交える可能性がある以上、戦の支度は必須だ。
武器防具に、指物旗、軍旗、馬印。
これまでの無防備な本陣ではなく、幕を張ったいつもの孫九郎の居場所もできた。
周囲は小具足あるいは鎧兜に身を包んでいる。
だが孫九郎は素襖のままだった。
暑いからというのは言い訳で、これから会う相手への配慮だ。
……本当だぞ。
「涼しそうでよろしいですな」
井伊殿が兜の内側に流れる汗を拭いながら、うらやましそうな顔をする。
いっそ、決戦前だけ着るというのはどうだ? 熱中症で倒れるよりマシだろう。
「水と梅干を欠かすなよ」
孫九郎がそう言うと、うんざりしたような返答がそこかしこから沸いた。
「目の前にあれだけ水があるのに、喉が渇いて渇いて」
「あっというまに手ぬぐいがビショビショでございます」
宮川はまだ水量が多いが、変わらず茶色い濁流のままで、とても飲めたものではない。
ふと原始的なろ過の仕組みが頭に浮かんだが、そんなことをしなくてもこの辺りの井戸水は潤沢だ。問題はくみ上げて水筒に入れる手間のほうだ。
手押しポンプを作ったら効率的だろうなと思いながら、素襖でもまだ暑いので汗を拭く。
「これまで楽をしすぎましたな」
井伊殿がため息をつきながらそう言って、ぐびぐびと竹筒の水を飲んだ。飲み干して空になると、うんざりしたように逆さにして振る。
「これが夏でございます」
同じように暑そうではあるものの、小具足姿なぶん身軽な藤次郎が苦笑した。
「ですが見てください、渋沢隊を」
その場にいた全員が、今川軍の最前線にいる黒ずくめ集団に目を向ける。
日差しが強いので黒はなお暑いはずなのに、渋沢が統率するその一団は、微動だにせず川を見据えていた。
「……あれは別格だ」
孫九郎はそう言って、扇子で襟元をあおいだ。
「男前は汗もかかないらしい」
「まさかそのようなことは」
井伊殿は笑い飛ばすが、孫九郎は知っている。
どんなに暑くてもあの男は頬あてを外さない。兜も脱がない。涼しい顔をして、いつまでも戦が始まるのを待っている。
孫九郎はなおも無駄話を続けようとして、気づいた。
風向きが変わった。川からの風だ。
わずかに温度が低く、ひやりとした涼しさが袖を揺らした。
何かが始まる。
そう感じたのは孫九郎だけではないようで、皆が一斉に川のほうを見る。
「……あっ」
不意に土井が声を上げた。




