22-1 伊勢 宇治の町
翌日は曇天だった。
また雨が降るのかと不安そうに空を見る者がちらほら。
孫九郎も腕組みをして、この季節特有の黒くて重そうな雲を見上げる。
夜が明けて、山田の町の人々は被災した町の復興に動き始めているが、まだ少し早いのではないか。
水は徐々に引き始めているようにも見えるが、再び雨が降ればどうなるかわからない。
大湊の商人が隠した米の件については、無事ことが成って流通に乗るのだとしても、少なく見積もっても三日、いや五日はかかるだろう。
今は夏なので、雨さえなければ野宿で問題ないはずだが、食うものがないのだけは困る。
その分は、町の水に浸かっていないところから運んできてなんとかすると思うが、足りるのかどうか。宇治の町や水害に見舞われていないところから分けてもらって……
孫九郎はそこまで考えて、この地が己の領地ではないことを思い出す。
できることはやっている。
これ以上は口を挟むべきではない。
「恭一郎は?」
孫九郎が問いかけた時、藤次郎もまた空を見ていた。この時代の者で、水害に思うところがない者などいない。川の傍に住んでいないのだとしても、行軍中に川を渡ることは多々あり、いつでも足止めの可能性がある厄介な難所だ。
藤次郎はこちらを見て、渋い表情のままかぶりを振った。
「まだ戻りませぬ。様子を見に行かせますか」
「……いや」
邪魔をしては悪い……というよりも、そろそろタイムリミットだ。東雲に北畠殿を確保したと伝えるべきだろう。
恭一郎が十分に仕事を果たせたのならいいのだが。
「いったん宇治に戻るか」
川はまだ増水していて、渡れそうにない。こちらから渡ることもそうだが、あちらから渡ってくるのも。
孫九郎は藤次郎と並んで、まだ濁流となって流れている宮川に目を凝らした。
このまま雨が降らないでいてくれても、水が完全に引くまでには当分かかりそうだ。
「ここは井伊殿に任せる」
「はい」
藤次郎は背筋を伸ばして頷いた。
二十人ほどの手勢を連れて、宇治まで戻った。
町の空気は出た時よりも静かで、やけにピリついていた。
異様な雰囲気だった。
誰もが家に閉じこもり、通りから人が消えている。
それは今川軍が来た頃から多少はあった空気だが、日中からまったくの無人ということはなかった。
「妙ですね」
藤次郎がつぶやいた。
「何かがあったとは聞いておりませんが」
孫九郎は馬を降りた。いやこのまま藤波屋敷まで一気に駆け抜ける手もあったが、それよりも、この空気の理由が知りたかった。
下馬した孫九郎の周囲を、護衛達がさっと囲む。
用心したい気持ちはわかる。あまりにも静かなのだ。
立ち止まって周囲を見回しながら、どこかに伏兵が身を潜めているのではと警戒する。
強めの風が、湿った土の臭いを運んでくる。
まるで急に、ゴーストタウンに紛れ込んだようだった。
「……調べろ」
「お側を離れるわけに参りません。いったん町の外へ退きましょう」
藤次郎がそう言うと同時に、音がした。
何者かが走ってくる、土を蹴る音だ。
「馬へ!」
警戒した谷がそう言って、刀に手を置き身構えた。
いや待て。宇治にはまだ今川兵が残っている。少ない数ではない。それでもなお何かが起こったのなら、数時間の距離にいる孫九郎に知らせが届かない筈がなかった。
孫九郎は目の前にある谷の腕に手を置こうとした。
その時。
「御屋形様!」
前方から聞き覚えのある声がした。
渋沢家の家臣であり、かつての谷の同輩だ。一時期、孫九郎の護衛を務めたこともある。
警戒する必要はない筈なのに、谷の手は刀の柄から離れなかった。
「村井、何故一人だ」
村井は息を整えて、孫九郎に向かって一礼した。
「藤波屋敷で大事が起こりました。某は急ぎ御屋形様のもとへ向かおうと」
「走ってか?」
孫九郎は、問い詰めようとする谷の腕を引き、口を挟んだ。
「何があった」
確かこの男は足に定評があった。
借り物の馬はそれほど数がない。孫九郎が使い、渋沢も使えば、残っていなかったのかもしれない。
「申し上げます。祭主様が大怪我を」
孫九郎の脳裏に過ったのは、また転んだのかという思いと、いや他に何かあったのではという不安だ。
「きっかけは祭主様のようです。内宮の禰宜様のお二方と口論になり」
祭主様は、外宮に戻る上部禰宜のあとを追って、二の禰宜に会いに行こうとしていたそうだ。
外宮の中の北畠寄りの言動をする者に処罰を言い渡すつもりで。
「口論の末に、禰宜殿らが祭主様に手を上げたのか?」
「いえ……」
村井は口ごもり、視線を左右に動かした。
「祭主様が激昂されて掴みがかり、引き離そうとしたもうひと方と三人でもみあいになって階から庭へ」
孫九郎はぎゅっと目を閉じた。
気の短いご老人だと思っていたが……取っ組み合いだと?
「御容態は」
「気を失ったまま、お目覚めになられません」
よりにもよって、禰宜たちはそれを今川側に隠そうとした。村井らが事情を知ったのは、話が屋敷から外に広がって、町中が沈鬱な空気に包まれてからだ。
藤波邸で働く下働きが伝えたのだろう。
「何をしておったのだ!」
谷がかつての同輩に向かって鋭い口調で言った。
村井は面目なさそうにうなだれる。
「伝令用に残していた馬のあぶみに細工をされ、敵の罠かと屋敷の外側に警戒をむけておったのだ」
あぶみに細工? ……切られたのか。
つまり、すぐに今川本隊に戻ってきてほしくなかったわけだ。
これは、ただの事故で終わらせていい話なのか。
祭主様の気質をよく知る者が、わざと煽ったということもあり得る。
「先生は」
東雲は外宮に出ている。この場をおさめることができるのは、祭主様の嫡男である先生だけだ。
「それが……」
村井の声が小さくなった。
まさか先生の身にも何かあったのか? ……そう身構えたのだが、先生は大雨の被害を見に内宮の宮社のほうに出かけ、昨晩から戻っていないそうだ。
祭主様は倒れ、先生はいない。東雲も外宮だ。
そして、こちらへの知らせを遅らせるように馬には細工がされていた。
――偶然にしては、できすぎている。
孫九郎は改めて、藤波屋敷がある方に目を向けた。
今川軍は五百以上残っているのですが、神宮祭主の屋敷に積極的に介入できる者はいませんでした
事件は単一的に起こっているわけではなく、それぞれの都合で同時多発的に進行します




