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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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21-8 伊勢 山田近くの高台4

 篝火が大きく燃えて、パチリと音を立てた。

 孫九郎は暗がりに浮かび上がる井伊殿の顔をじっと見上げた。

 その米は、大湊の商人が運び込んだものらしかった。

 急に隠せと命じられても、大量の米俵を遠くまで運ぶのは難しく、大湊からそれほど離れていない、宮川の河口から少し遡ったあたりの村に隠していたらしい。

 今川の物見(ものみ)がそれに気付いたのは、家探ししたとかそういうことでは全くなく、水かさが増え始めた頃に、数十人の村人たちが揉めているのに行き会ったからだ。

 ただの揉め事なら、巻き込まれないよう距離をとっただろう。

 だがその揉め事の中心に、大八車に積まれた数百の米俵があった。

 鄙びた村には、明らかに不釣り合いな量だ。

「隠したはいいものの、川の氾濫は計算に入れていなかったのでしょう。せっかくの米が水に浸かるぐらいならと、村の者が色気をだしたようで」

「米は駄目になったのか?」

「いえ。盗もうとした者を、用心棒がひとり斬りました」

 井伊殿の言葉に、眉を顰める。

 米を盗もうとした男は殺されたが、俵を運ぶ人手は必要で、用心棒は脅す形で村人に米俵を運ばせたらしい。

 少しでも高台に。……つまりそれは、重労働だ。

 宮川の水がどんどん増えていき、とうとうあふれ始めるころに荷運びは終わったが、村人のヘイトもまた限界値を越えていた。

 数に勝る村人が一斉に反発し、用心棒たちは全員死んだそうだ。死体は増水する川に投げ捨てられ、なかったことにされた。

 今川の物見はその一部始終を見届けてから、報告に戻った。

「村の者は、米の一部を隠し……残りを命からがら守ったということにするだろうな」

「はい。北畠家が関わっております故、欲をかきすぎるのは危ういと思うはずです」

 正確には、米は商人のものだ。北畠家が買い取ってはいないだろう。

 だがそんなことは、貧しい農民には関わりない。

 いや、北畠家のものではないと聞いていたからこそ、思い切ったことができたのかもしれない。

 難しいことになった。

 孫九郎はこの地の領主ではない。彼らを裁く権利はない。

 その村が神宮領なのか北畠の支配下なのかわからないが……どちらにせよ、今はまともな沙汰など期待できそうになかった。

 動くとすれば米の持ち主である商人だろうか。いやそれも、この氾濫の最中では後手に回るだろう。

 ……さて、どうする。

 今川軍は、今のところは兵糧に困っていない。海路が使えるので、むしろ補給は順調だ。

 だが、見下ろした山田の町は水に浸かり、宮川沿岸の多くの町や村でも同様だろう。

 米が足りない状況での被災は、きっと飢えを呼ぶ。

「返してやろう」

 孫九郎はしばらく考えて、結論を出した。

「返すとは、大湊の商人へですか?」

「そうだ」

 井伊殿の両眉がぎゅっと寄る。今川への兵糧断ちに協力した連中になど、協力してやる謂れはないと言いたげな顔だ。

 井伊殿の中では、その米をちゃっかり頂こうという筋書きだったのだろうか。

 いやさすがになぁ。持ち主がいないならまだしも、はっきりと誰のものかわかっている米だ。だが……。

「村まで取りに来るように命じる」

 孫九郎はにっこりと笑みを浮かべた。

「正式な通達を出し、町中で大声でこの件を知らしめれば……まあ、運が良ければ「知らぬこと」と言うてくるやもしれぬ」

 井伊殿は大きく目を見開いた。

 篝火の炎を受けて、その目がきらりと光る。

「……それはまた」

 井伊殿は何かを言いかけて黙った。

 大湊の人々は、米が足りないのではなく隠されたのだと知るだろう。商人たちがそれを認めればどうなるか。人々の怒りを買うことを恐れて、首を横に振る可能性は高いと思う。

 つまりそこに安濃津の商人が入り込む隙ができる。

「知らぬ米なら、誰のものでもありませぬな」

 井伊殿は納得したように、何度も頷いた。

「兵を動かしますか」

「そうだな、五百。船から出す」

 孫九郎はちらりと、丘の上の方に目を向けた。

「指揮は渋沢に任せよう」

 ぐっと、井伊殿の喉が鳴った。笑いを抑えたのは、渋沢には無理だと思ったわけではなく、あの男が町で苦労する様が目に浮かぶからだろう。

「あの」 

 暗がりから声がした。

 寝ているはずの次郎三郎が、まったく眠そうではない顔で身体を起こした。

「某も行ってもよいでしょうか」

「かまわないが」

 渋沢は今、藤波屋敷の警護についている。次郎三郎がこれまでの話を聞いていたなら、細かなニュアンスの説明をする必要もなくなる。

 次郎三郎は立ち上がり、腰の土を払うような仕草をした。

「知らぬ米なら、足りないところに配っても?」

「配るのか?」

 首をかしげて問うと、日焼けして浅黒い肌に白い歯が浮いた。

「安濃津商人に預けて安く売ります」

 孫九郎はぎょっとして、あくどいことを言いはじめた青年を見つめた。

 井伊殿が「はっはっは」と大声で笑った。

 そこかしこで、眠っていた者たちが身じろぎ、起きる気配がする。

 朝になってからでいいと言ったのに、次郎三郎はすぐに宇治にむかった。

 孫九郎は不思議そうにこちらを見ている幸松の隣に戻って、もう一度体を横たえた。

 眠れそうになかった。

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