21-7 伊勢 山田近くの高台3
幸いにも、その後の天気は晴れだった。雨雲が南の方に見えるから安心はできないが、少なくとも孫九郎の近くでは降っていない。
宮川は、とにかくよく氾濫を起こす川だという。
それでも、その流域には村があり、田畑が広がっている。
川は暴れる。だが同時に、水と肥えた土を運んでくる。危ないからと遠ざかってしまえば、今度は田を作るのに困る。
現代人の記憶がある孫九郎にしてみれば、「もっと川から離れて住めよ」と言いたくなるが、この土地の者にとっては、氾濫も含めて宮川なのかもしれない。
見下ろす対岸の平野は、今は遠くまで水の下だ。
それでも水が引けば、またそこに田を作る。
そうやって、この土地では昔から暮らしてきたのだろう。
日暮れに差し掛かり、ほのかに紫色に染まる丘の中腹。孫九郎は煮炊きの炎が点在する光景を見下ろして目を細めた。
遠くから聞こえるのは、大勢の賑やかな夕餉の気配だ。
彼らは確かに被災者ではあるが、絶望しているようには見えなかった。
川の傍で暮らす者たちにとっては、町が一部浸かったことよりも、「今回は命を拾った」ことのほうが大きいのだろう。
町のほうから戻ってくる松明の火が揺れている。
男衆の有志による巡回なのだそうだ。
今川軍がなおこの場に陣を置き、町人たちも近くで夜を越そうとしているのは、やはりこの時代には野盗などが出るからだ。
火事場泥棒は当たり前のように湧く。
さすがに大軍が布陣しているところへ野盗も近づいてこないので、少なくとも数日は盾の役割を担うつもりでいる。
「それにしても……」
孫九郎は、まだ水の引かない宮川に目を向けた。
「山田はあの場所でないと駄目なのか?」
規模の大きな町なので、さすがに移動は簡単ではないだろうが、こうもたびたび水害にあうとなれば立地を考えた方がいいと思う。
「もっと高台に町を移せばよいのに」
「ご門前ですから。町だけ高いところへ移すわけにもいかないのでしょう」
孫九郎の呟きを拾って、次郎三郎が答えた。
なるほど。山田は外宮の門前町だ。外宮がここにある以上、町だけを遠く離すのも難しい。
高台に移れば助かる命もあるはずだが、そう簡単な話ではないらしい。
孫九郎は溜息を飲み込み、再び煮炊きの炎に目を移した。
次に水害が起こった時にも、この者たちが生き延びることができるといいのだが。
「……腹が減ったな」
「減りましたねぇ」
食い盛りの次郎三郎が同意の溜息を返してくる。
今のこの状況で、腹いっぱい食うのは無理だ。
ふと、かつての時代で食べたカレーを思い出した。キャンプで作ったやつだ。
孫九郎は身分的にも恵まれた食事をとっていると思うが、それでも、ふとした瞬間に懐かしい食べ物を思い出すことはある。
クンクンと鼻を鳴らす。
漂ってくる焚火の臭いが、この身体では食ったことがない料理の記憶を呼び覚ます。
ぐう、と盛大に腹が鳴った。
「宇治に戻られますか? 暖かい飯と寝床がありますよ」
次郎三郎も空き腹をさすっている。
かなり心惹かれるものがあったが、今夜はここでいい。
「……いや」
孫九郎は首を横に振った。
空を見る。夕刻の空に、既に月が昇っている。
そろそろ土井が何かを持ってくる頃だ。いつもの陣中飯だろうが、それで十分だ。
井伊殿が近づいてきたのは、夜半。小小姓たちの間に挟まれて雑魚寝している最中だった。
寝入りばなで、星空を見ながらウトウトしていた。
足音は荒くはなく、こちらを起こさないよう気を配ったものだったが、「御屋形様は」と問う井伊殿の声にぱちりと目が覚めた。
起き上がる。
真横に幸松の寝顔があった。
そのことにより、いくらか緊張が緩む。
「こちらだ」と声を上げるのではなく、小小姓たちを起こさないように手を振った。
井伊殿が南と並んで立って、こちらを見ていた。
そっと立ち上がり、足音を忍ばせて二人の元へ近づく。
恭一郎からの連絡はまだない。敵襲があったという気配もない。
定時報告で、孫九郎の睡眠を妨げるとも思えない。
「何かあったか?」
大きな声を出したつもりはないが、土のくぼみに背中を預けていた谷が身体を起こした。刀を抱えてうずくまっていた護衛達も目を開けている。
側付きたちものそのそと起き上がり、黙ってこちらを見る。
「お休みのところ申し訳ありません」
いい年をした井伊殿のほうが、徹夜は身体が堪えるはずだが、まったく疲れた様子は見せずに頭を下げた。
「大湊から、宮川の対岸沿いに出していた者が戻ってまいりました」
「……対岸? この状況で危ういのではないか」
「川が暴れる前に、深入りはせぬよう命じて索敵をさせておりました」
孫九郎は、しょぼついた目でじっと井伊殿を見た。
今ここに報告に来ているということは、日が沈んでから大湊を出立している。逆算すると、氾濫が起こる中の帰還だったとわかる。
……無理をする。
だがそうまでして戻ってきたということは、何か重要な報告があるのだろう。
「そういえば、索敵を命じていたな」
命令は宇治から大湊までのつもりだったが、気をまわして対岸まで行っていたのだろう。宮川の河口付近は複数の小さな川に分かれているので、氾濫が起こる前なら渡河も難しくなかったはずだ。
よし、と気持ちを引き締める。
直感的に、重要な報告だというのがわかっていた。
「米の隠し場所を突き留めました」
まじまじと、真面目腐った井伊殿の顔を見上げる。
明かりの差し具合で、その顔は普段よりも悪人顔に見えた。




