21-6 伊勢 山田近くの高台2
そろそろ日が西に傾く頃、北畠殿を捕えたという知らせが届いた。
本人は泥まみれで、同行していた兵たちにも多大な被害が出ており、正直、捕えたというより保護したといった方が近い。
潜伏していた場所が大水に削られ、そこへ上流から木が流れてきたらしい。
その場に恭一郎を含む今川軍が到着し、救助に当たったのだが、崩落しつつある岸の岩にしがみついて「助けてくれ!」と悲鳴を上げるさまは、少々見苦しいものがあったとか。
……いや、誰がそう口にしたわけでもない。
報告に来た田所の家臣が、そんな顔をしていただけだ。
だが、そういう空気は伝わるものだ。
孫九郎は眉間に入りそうになる力を緩め、急使をねぎらった。
恭一郎は、念のために周辺を調べるとかで、現地に残っている。
手はず通り、尋問に入ったのだろう。
「御屋形様はこちらでお待ちを」
立ち上がろうとした孫九郎を、藤次郎が制した。
「恭一郎もわかっております」
プロに任せろという意見を、素直に受け取り、床几に座り直した。
様子を見るだけのつもりだったが、孫九郎が出て行けば、逆に意固地になってうまく聞き出せないかもしれない。
「御屋形様、上部禰宜さまがいらしております」
次郎三郎が駆け寄ってきて、来客を告げる。
ここは今川軍の本陣だが、戦の時のような本格的な構えはしていない。
戦場なら周囲を陣幕で囲い、外には旗や幟がずらりと並ぶ。大将のいる場所には馬印を立て、出入口を兵が固め、槍や弓がすぐ手に取れるよう並べられる。伝令が駆け込み、物見が戻り、軍議に呼ばれた武将たちが絶えず出入りする。
だが今は旗を数本立てて、ここが今川の陣だとわかる程度だった。
陣幕がないからこそ、上部禰宜が近づいてくる様子がよく見える。
禰宜殿の一団は、あわてず騒がず落ち着いた足取りだった。いやこんな時だからこそ、慌てる様子を見せたくないのだろう。
一団の最後尾には東雲。相変わらずの白装束が、まだ強い日差しを受けて輝いている。
「治部大輔殿」
上部禰宜は孫九郎の前に立ち、これまでにないほど丁寧な所作で頭を下げた。
続く供の者たちも、深々と礼をとっていく。
数秒の間、彼らの下げた頭をじっと見た。長い礼だ。
最後尾の東雲と目が合って、孫九郎は小さく頷き返した。
「頭をお上げください」
「この度は、山田の者への甚大なご配慮、まことにありがたく」
「禰宜殿」
孫九郎が声を掛けてもなお、上部禰宜は頭を下げ続けた。
遠くからの視線を感じる。山田の町の人々が、じっとこちらを見ている。
「宮川は暴れ川だと聞いておりました故、心配になっただけですよ」
しばらくしてようやく頭を上げた上部禰宜が、孫九郎を見て小さく頷く。
「今朝がたはまだ、ここまで水嵩が増すようには見えなかったのですが」
「上流のほうで雨が続いていたのかもしれません」
北畠殿は流木に危うく押しつぶされそうだったと聞いた。どこかで崖崩れでも起きたのだろう。
本当に、この時代の川は恐ろしい。
「外宮のほうには被害がないようですね」
「ありがたいことでございます」
会話は続いている。だが上部禰宜が、何かを言おうと言葉を選んでいるのがわかる。
孫九郎は気づいていたが、あえてそこには触れなかった。
「藤若殿とその乳母をお助け下されたことも」
「たまたまの巡りあわせです」
「渡会本家の後継ぎです」
ぴたり、と会話が途切れた。
孫九郎は開きかけた口を閉じ、正面に立つ上部禰宜を見た。
「……決まったのですね」
「はい」
渡会家の嫡男は廃嫡か。父親も責任を負わされるだろう。ということは、あの子が次の一の禰宜か? 利発な子だが、幼すぎる。
「藤若殿は、二の禰宜様が養子として引き取ることが決まりました」
一の禰宜の位は、渡会家ではなく別の者が預かることになったそうだ。藤若を渡会の後継ぎと言ったところを見ると、家門は存続するのだろう。
落としどころとしては、そんなものか。
「治部大輔殿」
改めて、上部禰宜が背筋を伸ばした。
来るな……と思ったので、孫九郎は反射的に微笑みを返した。
「はい、何か?」
上部禰宜はそれを見て言葉に詰まった。
こてりと小首をかしげると、さらにもっと逡巡する。
「……北畠様のことですが」
とうとう切り出したが、先が続かなかった。
やはりそれが本題かと思いながら、孫九郎は愛想よく頷いた。
「山田におられたとは聞いております。ですが、出会っておりませぬ」
「……まことにございますか」
本当だとも。孫九郎は会っていない。
「まさか川を渡ったのでしょうか」
上部禰宜が青ざめた顔で宮川に目を向けた。まだ茶色く濁った水が荒々しい流れをみせている。この状態の暴れ川を渡るのは、自殺行為だ。
「今川軍から逃れようと……」
「自軍と合流しようとなさったのかもしれませぬ」
孫九郎は北畠殿の名誉のために、ささやかな貢献をした。
実際のところは泥まみれになり、危うく流木とともに川に吞まれるところだったが、それを上部禰宜に伝える必要はない。
「あるいは、まだ町におられるのやも」
そう言い終わったところで、東雲と目が合った。
孫九郎は気づかなかった振りをして、上部禰宜に視線を戻した。
……この分だと、長く秘密にしておくことはできなさそうだ。




