21-5 伊勢 山田近くの高台1
北畠の潜伏場所が危険だと知らせてきたのは、弥太郎の配下のひとりだった。
そこで持ちあがったのが、助けるか否か……という問題だ。
周囲は皆、放っておけという顔だった。孫九郎も半分ほどは、それに同意したかった。
だが、北畠殿にはまだ聞くべきことがある。誰から何を聞いて、愛姫様を側室にと言い出したのか。わざわざ離れた国の軍師僧侶の名を騙り、貶めようとしたのか。
承菊の件については、渡会禰宜が分家の責任として強引に終わらせているが、事件そのものが北畠殿の指示なら、その始末も同様の流れだったのではと疑っている。
そしてそれらのすべてが、何者かが意図してのことならば、その相手の尻尾をしっかりつかんでおきたい。
「……いや」
孫九郎はこちらを見る井伊殿や側付きたちに向かって、かぶりを振った。
「今なら、捕えて尋問できる」
尋問……と聞いて、普通の小姓の顔をして控えていた恭一郎がピクリと反応した。
井伊殿が頷いた。
「秘かにとらえ、田所に預けるわけですな。なるほど御屋形様は容赦ない」
孫九郎は「うんうん」と頷いている井伊殿に顔を顰めた。
非常に人聞きが悪い。
「長い時間は取れない。祭主様がどう動くかにもよるが、藤波の忍びがすぐに気づいて引き渡せと言うてくるだろう」
「御屋形様」
井伊殿が笑いながら言った。
「つまり、もはや国司殿を国元に帰すつもりはないということでは」
さあそれはどうだろう。北畠殿次第だと思う。
孫九郎は軽く首を傾けた。
「今は行方不明のほうがよい。北畠は大きく動けない」
恭一郎がうれしそうな顔をしている。
寸前まで、町からようやく逃れた人々を見て心を痛めている様子だったのに、この切り替えの早さはさすがだ。
「行けるか?」
「すぐに」
孫九郎が問うと、恭一郎は少年っぽさを残した軽やかな声でそう言って、頷いた。
今川軍の本陣はこの場所から動かない。ただ、二十人ずつの小さな足軽組が複数、川沿いに散開した。
北畠殿を捕えるためではない。宮川の様子を確認するためだ。
途中で“誰か”を見つけるかもしれないが、避難民であればこの場所を教えるし、北畠殿であれば……田所家臣団の出番だ。
聞くところによると北畠殿の随員は十名ほどということだから、二十人ずつの小隊で動けば問題なく対処できるだろう。
可能であれば、誰も気づかないほど静かに確保したい。それだけ、恭一郎の尋問の時間がたっぷりとれる。
孫九郎は町人の炊き出しと同じものをよそった椀を手に、遠くで乳母と寄り添っている渡会藤若を見ていた。
名を聞いた後は、特に深く関わっていない。
乳母の具合が悪いようで、藤若は心配そうにしている。
孫九郎は毒見の澄んだ冷めた穀物粥を口に運んだ。
味はあまりしない。いやそもそも穀物すら少ない。水分でかさましされた、薄い味噌汁に近い代物だ。
だが、この時代ではこれでも悪くない食事だった。
少なくとも脱水症状や飢えで死ぬようなことはない。
今川軍は自前の兵糧があったが、山田の町人たちはそれを欲しがることはなかった。少人数で町に戻って食料を確保し、その少ない中から孫九郎らにも分けてくれようとさえした。
彼らなりの感謝なのだと思えば、無下にもできずに受け取った。
本当なら、無駄にできる食料などないはずなのに。
「足が折れているそうです」
それとなく様子を見に行った土井に藤若らの様子を聞いて、孫九郎は小さく頷く。
それでは、このまま歩いて好きに行かせる案は却下だな。
「どうされますか、宇治に連れて行きますか」
隣りで一気に穀物粥を嚥下した井伊殿が、美味くはなかったはずなのにそんなことは一切顔には登らせずに聞いてきた。
藤波家で、父親の一の禰宜が審議を受けている。兄である嫡男は藤若と同じ屋敷にいたはずだ。であるならば、きっと今頃、外宮のほうに避難しているだろう。
どちらに向かわせるにも、難がある。
いやそもそも、あんな小さな子を大人の事情に巻き込みたくなかった。
ちらりと、藤波屋敷にいる小夜殿の顔が浮かんだ。……いや、彼女に任せるのは酷だろう。
最後に行きついたのは上部禰宜だった。
結局、ああいった“生真面目”に仕事が回るように、世の中はできている。
今の孫九郎にできるのは、この場で可能な治療と、痛みを和らげる薬を渡すことぐらいだ。
少し時間が進んで、そろそろ北畠殿を捕えた頃かと報告を待っていると、土井に連れられて藤若が近づいてきた。
孫九郎の周囲にいるのは基本的に武士ばかりで、小小姓もいるが年齢もだいぶ上がってきており、五、六歳程度の藤若には皆が大きな壁に見えるだろう。
だが恐れている様子はなかった。
「治部大輔様」
童子特有の舌足らずさはなく、はっきりとした活舌。
「この度は、助けていただき誠にありがとう存じます」
丁寧に下げられた頭は、顎のあたりで切り揃えられた稚児削ぎなのに、口調は明瞭で利発さがうかがえる。
孫九郎は手近な岩に腰を下ろしたまま、目線がほとんど変わらない少年と目を合わせた。
「……いいや、たいしたことはしておらぬ。乳母殿はいかがか」
「眠っております」
少し驚いた。乳母に言われて、礼を言いに来たのかと想像していたからだ。
声と見目だけで言えばまだ童子が、前にも感じたやけに強い目力で孫九郎をじっと見つめる。
「お伺いしたいことがございます」
「何かな」
「わたしは、どこにやられるのでしょう」
問いかけは、子供らしい不安の表れかとも思ったが、その表情には別のものを感じさせた。
孫九郎は小さく息をついだ。
「お父上や兄君の元にはいかぬ方が良い」
「はい」
「三の禰宜殿に相談した」
見間違いでなければ、藤若はわずかに表情を緩めた。それは安堵にも見えた。
この年頃の子供でも、父と兄のことで何か感じるものがあるのだろう。
孫九郎は表情を緩め、その頭を撫でそうになる手をひっこめた。
「藤若殿の望みを先に尋ねるべきだったか?」
「いいえ。わたしがどう申し上げたとしても、どこかで角が立ちます」
角が立つとか、大人のような口を利く。
孫九郎はまたおかしくなって、少し笑った。
「それは気をつけねばならぬ」
「はい」
大きな目が、まっすぐに孫九郎を見ている。
強い目力だ。やはり承菊を思わせる目だ。
承菊を思い出せば居心地が悪い気もしたが、これが“きれいな承菊”だと思えば、やはり笑えた。




