21-4 伊勢 山田
出陣する前に、川の水に巻き込まれないよう徹底した。
敵に負けるより命を惜しめと言うと、少々複雑な表情をされたが、二次災害で失うほど軽い命はない。
今川軍が勢いよく丘を下って行くと、山田の町を守っていた者たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。北畠の兵が止めようとしても止まらなかった。
今川軍はあっさりと山田の町に入り、町の入口を塞いでいた木戸を開けさせた。
「山田の者ども、よく聞け!」
騎馬で町に乗り込むなり、井伊殿が先頭で大声を張った。
「今川治部大輔様の御下知である! 我らに山田を攻める意図はない!」
武将は声の大きさも能力のうちであり、井伊殿は間違いなくその才に恵まれていた。
「宮川が溢れるぞ! 武器など捨てよ! 家族を連れ、高き場所へ退け!」
その大音声で、町の空気がガラリと変わった。
「今川勢は道を開ける! 邪魔立てする者だけ斬り捨てる!」
そこかしこで悲鳴が上がるが、それは今川軍が攻め込んできたからではなく、川の氾濫の知らせを聞いてだ。
さすがに今川の大軍がいる方角へは近づいてこようとしないが、別の木戸をめがけて大勢が逃げ始める。
それからは、通常の避難誘導だった。
大八車に家財を持って出ようとする者もいる。子供を両脇に抱え、走って逃げる母親もいる。
混雑も混乱もしているが、まだ秩序が保たれていた。
ここは外宮の門前町だが、神職ばかりがいるわけではなく、多くはそこに住む職人や商売人だ。彼らにとって、刀を振り上げてこない武士なら、どこの武士であろうと大差ない。
「御屋形様、そろそろ危のうございます」
川を確認しに行っていた藤次郎が戻ってきて言った。
「外宮は」
「声はかけましたし、山田の町のほうから幾人かが知らせに走っております。宮のほうに逃げている町人もいます。これ以上は」
外宮が立ち並ぶ地域はここよりも高台にある。そこまで水が来ないかはわからない。やはり川に近すぎるので、できるなら離れた方がいいと思うが、お社を捨てて逃げるわけにはいかないという気持ちは理解できる。
「外宮まで水が迫るようなら、もう一度警告を」
「はい」
その時には遅すぎる気もするが、そこまで責任を負える相手ではない。
孫九郎は、まだ大勢いる町人たちを振り返った。
「下がるぞ」
ここは町の玄関口だ。最も大きな出入口を今川軍が塞いでいる。
「我らが退けば、避難も進むだろう」
そう言ったところで、視線を感じた。
子供だった。身なりの良い子供だ。
まだ童子と呼べる年頃の小柄なその少年は、片脚を引きずる乳母らしき者に手を引かれ、はっとしたように避難する人の流れに戻った。
どこの子だろう。高位神職の子だろうとは思う。
気になりはしたが、調べさせようとまでは思わなかった。
何しろ孫九郎は目立つ。いくら小姓のような身なりでも、軍勢が孫九郎を中心に守るように配置されているのは誰の目にも明らかで、誰もが一度はこちらを見るからだ。
「御屋形様! 水が来ます!」
土井の大きな声が聞こえた。人ごみの向こう側からでも、楽に届く声だった。
どこかで建物が軋む音がする。避難する人々から悲鳴が上がる。
屋根越しに、町の端で何かが崩れ、土埃が上がるのが見えた。
水が町を食い始めたのだ。
孫九郎はとっさに、馬の腹を蹴った。
止める声が背後からした。
借り物の馬だが、孫九郎の指示に素直に従い、あっという間に逃げ惑う人々の間に分け入った。
「乗れ!」
手を伸ばす。相手は、先ほど目が合った少年だ。
少年はこちらを見上げて息を飲んだ。
「若様っ」
乳母が守るように身を挺する。
「急げ、水が来る!」
孫九郎が再びそう言うと、乳母の目が逡巡に揺れた。
「御屋形様!」
谷ら護衛がすぐに追いついてきた。
全員が馬に乗っている。武器を手に持っている。
それだけで、周囲の避難民たちが逃げ惑う。
結局、追ってきた側付きたちの馬に二人を乗せた。
そのあとすぐに、今川軍は山田の町から撤退した。
孫九郎が元の高台まで戻った時には、濁流は町の三分の一ほどを飲み込んだところで止まっていた。遠目からはそう見えるというだけで、実際はもっと被害はあるのかもしれないが、町が全壊したとまでは言えなさそうだ。外宮も無事だ。
もちろん、氾濫を起こした川の水はしばらく引かない。
被害がどれほどかわかるのは、もう少ししてからだろう。
今、本陣の眼下の広場には、避難してきた山田の人々が不安そうな顔で身を寄せあっている。
彼らが見ているのは姿を変えた宮川の濁流であり、今川軍ではない。
「お助けいただきましてありがとうございます」
わずかに京訛りの混じる声でそう言ったのは、あの少年を連れていた乳母だ。やはり片脚を痛めていて、馬を降りた後すぐに動けなくなった。
少年は、座った体勢で頭を下げる彼女を守るように立ち、例の大きな目でこちらを見ている。
強い目力のあるその眼差しに、既視感があった。
想像してしまった男の顔を脳裏から振り払う。
「不便があれば申すがよい」
「もったいのう存じます」
「名を聞いても良いか」
女は口ごもった。痛めた足に手を置いたまま、少年を見上げる。
しばらく間があいた後、口を開いたのは少年だった。
「渡会藤若と申します」
その声は、年齢にそぐわぬ落ち着きがあり、孫九郎はまじまじと少年の目を見返した。
図らずも、拾ったのは一の禰宜渡会殿の次男だった。




