21-3 伊勢 宇治~山田
北畠殿が身を潜めているのは、山田から川沿いを上流方面へ進み、低木の茂みが視界を塞ぐ山のふもとだそうだ。
地元なので、目立たず渡河しやすい場所を熟知しているのだろう。
ただ、今日の宮川は水かさが高く、川幅も広い。もう一日雨が続いたら暴れ出しそうな不穏な雰囲気だ。
北畠殿もわかっているに違いないが、川に近づくのは非常に危険だった。
「川の水は濁り、山からは茶色い水が流れてきています」
平常運転の弥太郎の報告に、井伊殿がにやりと笑った。次郎三郎の目もキラキラと光っている。
孫九郎は見ないふりをした。
不安そうに川に目を凝らす土井は、まだまともだ。
「宮川が暴れたら、被害はどのあたりまで来る?」
孫九郎が尋ねると、井伊殿の表情に喜色が上った。
もしだ、仮定だ。万が一氾濫が起こったら、の話だぞ!
念を押さないとわかっていなさそうな二人組が、額を突き合わせて地図を見下ろしている。
「地の利はないので定かではありませぬが、山田は川に近すぎます」
「東側に山があるので、西の平地に水は溢れるでしょう」
それはその通りだ。水はより低地へと広がる。山田が難を逃れるかは、どこで氾濫が起きるかによるだろう。
「御屋形様」
井伊殿が、太い指先で地図上の一点を示した。
「見てください、あそこまで水が来ているということは、次はこの堤が破れそうです」
孫九郎は井伊殿が指し示す上流方向に目を凝らした。
既に宮川の対岸は遠く、西岸側の低地は広範囲の水に飲まれている。普段はいくつかに分かれている流れも、今はほとんどひとつにつながっていた。
孫九郎は、几帳面に堤の位置まで描かれた地図に目を戻した。
この時代、護岸工事などはもちろんない。古くから人々が知恵を絞って治水のために手を入れているが、それでも川を完全に押さえ込めるようなものではない。
山田にもそんな努力の跡はあって、何か所かに水を防ぐための堤が築かれているが、川の傍にあるというだけでリスクは高い。
「田丸はこの状況で兵を出すか?」
「出すでしょう」
井伊殿は孫九郎を見て笑った。獰猛な笑みだった。
「とはいえ、北畠の本隊は雲出川です。残りをかき集めて総大将を奪い返しにくるには時間がかかりすぎます。田丸が出せる兵は精々数百かと」
「数百というのはどれぐらいだ。二百と七百は違う」
「五百もいれば褒めたいですな」
敵に褒められても誰も喜ばない。
孫九郎は小さく息を吐いた。
「互いに水の壁が邪魔だな」
五百の敵なら勝てるだろう。だが、宮川がこの状態では満足に攻め込めない。北畠殿も、この川にさえぎられて自軍と合流できない。
ゴゴゴ……と音がした。いや音ではないかもしれない。地鳴りのような、低周波のような、誰もが息を飲む気配が川上の方角からした。
「……来ますぞ」
井伊殿がそう言った、一瞬後だった。
これまでも宮川は濁流だった。だが水位に大きな変化はなく、このまま水が引けてくれればと多くが願っていただろう。
それが瞬きを繰り返すたびにどんどん川幅が肥大する。水の色が濃くなる。
対岸に見えていた古い堤が切れた。
同時に、宮川の西にある広い平野部に向かって、一気に奔流が広がった。
一方山田側でも、膨れ上がった川が低地へじわじわと水を押し広げている。
「……」
孫九郎はぐっと奥歯を食いしばった。
これまで幾度も目にした河川の氾濫だ。
毎年のように、どこかの川があふれる。いや、同じ川が年に数回暴れることもある。
この時代の技術では、まだそれを防ぐことはできない。
そして外宮のある山田の町へも、容赦なく水は迫る。
「……おお、たいしたものですな」
それを見ていた井伊殿が、まるで他人事のように言った。
「水が山田を避けている」
「いや」
孫九郎は静かに首を振った。
確かに、濁流は山田の町を魔法のように避けている。だが川幅が一気に膨れ、みるみる低地に水が広がっていく。町は今にも飲み込まれそうだ。
町を守っていた男たちが、ようやくそのことに気づいて慌て始めた。
武士らしき者が制止するが構わず、その場に槍を放り投げて町に戻ろうとする。
「おい、今やらなかった」
孫九郎はその様子を見ながら顔を顰めた。
北畠の兵が、背中を向ける男のひとりに槍先を向けたように見えたのだ。
「……突きました」
土井が苦々し気に言った。それで町に戻ろうとしていた男衆が止まったそうだ。
孫九郎は迷った。
ここで介入するべきか否か。
山田の町は今にも水に飲まれそうだ。
本当なら、もう避難をはじめていてもいい頃だ。
あの町には神職だけではなく、大勢の女子供もいる。年寄りもいる。ここで見過ごすのも寝覚めが悪い。
「行くぞ」
孫九郎は休ませていた馬の方に足を進めた。
あの邪魔な北畠兵を排除すれば、町人たちは安全な場所に避難できる。
「よろしいのですが。北畠様は」
そんな問いかけに振り返ると、井伊殿は山田の町を飲み込もうとする水をじっと見ていた。
孫九郎は手綱を受け取りながら、返答した。
「北畠殿も足止めされている」
「ですが」
「恩を売るいい機会じゃないか?」
北畠殿は逃げ、今川治部が助けた。きっと外宮の多くの神職は、そう思うはずだ。
孫九郎のせいで氾濫したわけではない




