21-2 伊勢 宇治 藤波本邸北
相談すると、また祭主様は時間をかけて考えるとわかっていた。
孫九郎は井伊殿が来るのを待ってから、ともに藤波邸を出た。
井伊殿は武装している。とはいえ派手な鎧兜ではなく、小具足姿に胴丸と籠手。軽くそのあたりを警戒しているといった雰囲気だ。
孫九郎は小姓然と薄手の素襖。烏帽子もない。
そのかわりに、谷ら護衛隊の数が倍増した。普段は距離をあけて守っている者たちも壁となっている。
一見、井伊殿の馬廻りに見えるだろう。それでいい。
「既に先鋒が山田に向かっております」
孫九郎の速度に合わせて歩きながら、井伊殿は楽しそうに笑った。
夕べはわざと敵を通し、逆に引き口を塞いで屋敷から逃げ出せないようにした。ほとんど戦闘はなかったというから、兵たちは今度こそと意気込んでいるのだとか。
「御屋形様は惜しまれぬ御方ゆえ、次は手柄を立てると張り切っております」
「交戦はさせるな」
「もちろん」
井伊殿は弾むような笑顔で肩をゆらし、こちらを見下ろして声を潜めた。
「先走れば、御屋形様からのキツイお仕置きがあると言い聞かせております」
なんだよ、キツイお仕置きって。
孫九郎は顔を顰め、唇をへの字に曲げた。
屋敷北側の野営地に行くと、既にそこは片付けられていた。
半数は残るのに、そちらもいつでも動けるように支度をしたらしい。
「……どれだけ出陣したいんだ」
「御屋形様は常勝の将でございますからな、手柄には困りませぬ」
孫九郎はちらりと井伊殿を見上げ、「いつでも勝てるわけがないだろう」と呟くが、聞こえないふりをしやがった。
そんなに期待値ばかりをあげられても困る。
「それからもうひとつ。先ほど大湊より書簡が」
井伊殿は非常に無造作に、袖口から封書を取り出した。
今川館か、吉田城に残した者からの知らせかと思い受け取る。
丁寧な扱いではない理由は、表書きを見てすぐに分かった。
承菊からだ。
孫九郎は書簡を開く前に、その呪物を放り投げそうになった。
井伊殿が再びにっこりと笑った。
「……読んだか?」
「まさか、御屋形様への書簡を盗み見など致しませぬ」
むしろ読んでくれと思いながら、渋々と上下の折れ目をあけると、ふわりと香の匂いがした。墨の臭いを思わせる、静謐な香りだ。
眉間にしわを寄せながら紙を開く。
相変わらず美しい文字だ。字は性格を表すというのは、この男の場合は絶対に違う。
そんな事を思いながら読み進め……「うっ」と喉の奥で呻く。
文が長いのはいつものことだ。内容が心臓に悪いのもいつものことだ。
「なにか?」
促されて、さっと呪物を井伊殿に押し付ける。
井伊殿は長々と書かれた内容に目を通してから、「ははは」と笑った。笑い事じゃないぞ!
あの男、吉田城でおとなしくしていると言っていたのに……安濃津にいるそうだ。
「まあ、怪我もすっかり良くなったそうですので」
ぷんすかと怒り収まらない孫九郎をなだめながら、井伊殿はくすくすと笑う。
もともとたいした怪我ではなかったのだ。揉め事が大きくなるから動くなと命じたはずだった。
「三河から兵糧を運ぶより、安濃津からのほうが安上がりなのは確かです」
……本気で言っているのか?
孫九郎は野営地から乗ってきた馬の手綱を握りながら、じろりと真横を睨んだ。
「あれが山田です」
井伊殿は宥めるようにもう一度笑ってから、何事もなかったかのように正面を指さした。
いつまでも怒っているわけにはいかない。
孫九郎も真剣な目で、はっきり見えるようになった町を観察した。
想像していたよりも大きな町だった。宇治よりもずっと広い。
そして、川までの距離はそれほどない。
「渡らせるな」
「はい。それまでに済ませましょう」
北畠殿は、あの深い藪のどこかに隠れ、暗くなるのを待っているそうだ。
今川軍が山田に来たことにはすぐ気づくだろう。
焦って飛び出しはしないだろうか。
「この水量です。おいそれと渡る気にはなれないでしょうが……追いつめられると思いもよらぬ行動をするものです」
「対岸に兵を送れないか」
「そうですな、渡れそうなところを探しましょう」
「御屋形様!」
土井が大きな声を上げた。
孫九郎ははっとして、その指先が差す方向に目を凝らした。
山田の町から大勢が出てきて、町の入口を守るように広がった。その動きにまとまりはなく、武士かと問われると首をかしげたくなる集団だ。
「北畠家の旗指物があります」
孫九郎には豆粒のように見えるが、目がいい土井には家紋の判別までできるようだ。
北畠家の兵も交じってはいるのだろう。だがすべてのはずはない。
「……町の者を徴兵したのか」
「そうでしょうな」
井伊殿も渋い表情をしながら言った。
「この辺りは北畠家の領地だったか?」
「いいえ」
またも、祭主様が激怒する案件だ。
「我らは山田には用がありません。獲物はすでに巣穴から逃げ出しております」
孫九郎は井伊殿のその言葉に息を整えた。
いかんな、承菊の勝手気ままに振り回されて、気が立っている。
「北畠殿は獲物か」
「食いではありそうです」
冗談を交わしつつ、育ちがよさそうだった北畠殿の頭に兎耳がついていることを想像してしまい、小さく笑った。




