21-1 伊勢 宇治 藤波本邸26 西対5-1
すっかり日も高くなり、厳しい日差しが軒の影を短くしている。
孫九郎は梅干しを沈めた白湯を脇に置き、普段通りの顔をして現れた弥太郎に目を向けた。
「……逃げた?」
「はい、田丸へ向かおうとしていると思われます」
弥太郎の平淡な口調に、孫九郎はぴしゃりと己の太ももを叩いた。
雲出川の敗戦と夜討ちの失敗が重なっても、北畠家にはまだ兵の余力がある。
北畠殿を守るために、北畠家が動くのはわかっていた。
こうなるから、一刻も早く身柄を確保しなければならなかったのだ。
祭主様は山田に向かう準備をなさっている。それはいいのだが、支度だけでもう半刻はたっている。半刻あれば宮川を渡ることもできる。さらに次の一刻で田丸勢と合流してしまうだろう。
「夕べの増水で、川を渡るのに手間取るはずだ」
それで少しは時間を稼げるかと問うと、弥太郎は頷いた。
「はい。ですが地元の者が手を貸すでしょう」
孫九郎は顔を顰めた。その通りだと思ったからだ。
今川勢はまだ大きく兵を動かしていない。見張りを若干名、宮川より東側に置いているぐらいだ。その数では北畠殿を止めることはできない。
このままだと逃げられてしまう。
「……追えるか? 見張るだけでよい」
「はい」
弥太郎が静かに下がり、しばらくその場に沈黙が落ちた。
孫九郎は一呼吸おいてから立ちあがった。
今はゆっくり考えをまとめている時間はない。
「藤次郎」
「はい」
隣に控えていた藤次郎の返答は早かった。
「井伊殿に、支度は出来ているかと聞いてまいれ」
北畠殿が田丸城に向かうということは、そこに増援の兵がいると考えるべきだ。
既に連絡が取れているのか、あるいは一番近い味方の城を目指しているのかはわからないが、取り得る動きとしては妥当だった。
北畠殿を、味方と合流させてはならない。
「孫九郎殿」
さっそく手配をはじめようとしたところで、主殿のほうから早足で東雲が近づいてきた。その隣には、何故か時任侍従がいる。その姿は旅装だ。
また厄介なと思ったのは顔には出していないはずだが、侍従殿は渋い表情になった。
「大殿様の御もとへ戻ります」
「今は道中が安全とは言えませぬ」
「治部大輔殿」
そのピンと張った声に、背筋が伸びる。
「大殿様のご判断が必要です」
時任侍従はそう言って、窮屈そうな襟元をそっと撫でた。
「その後で、京への使いに出ることになるでしょう」
孫九郎は息を飲んだ。
侍従殿の背後には、小さな文箱を捧げ持った者が付き従っている。そこに祭主様からの書簡があるに違いない。
一条家と伊勢神宮の祭主様とが、京に次第を奏上する。
それはつまり、地方でゴタゴタやっている孫九郎らとは別次元で、この時代を成り立たせている秩序が動き出すということだ。
孫九郎は頷いた。
「わかりました。一番早い方法で向かえるように手配をいたします。京に向かう際にもご遠慮なく」
この時代で一番早いのは船だ。もちろん風向きや波などの機嫌もあるが、幸いにもうちには巧者がそろっている。
時任侍従は静かに頷いてから、少し迷ったように言葉を続けた。
「治部大輔殿も、どなたさまかにお伝えしたいことがございましたら」
ふっと光がさすように、柔らかな笑みが脳裏に過った。
倒れたばかりの父ではなく、愛姫様の顔を先に思い浮かべたことが、急にものすごく恥ずかしくなった。
「……すぐに」
孫九郎は言葉少なく返した。
思いのほか長く戻れずにいる。きっと心配しているだろう。
井伊殿が来る前に、書簡を書き終え時任侍従に託した。
父宛ての書簡は、護衛で戻ることになる者に頼んだ。土方についたら高天神城に届けるよう言ってある。
時任侍従に、京は危険ではないかと問うてみたのだが、だからこそ己が行くのだと、非常に男前な答えが返ってきた。
「一条の家人がまだいくらか残っとります。御方様のご無事も確かめねば」
白玉様か。
孫九郎は、懐かしい愛姫様のお母上様を思い返しながら頷いた。
「伏見宮家ですね」
寒月様が、愛姫様と万千代君のご無事を伝えたのは聞いているが、あちらの様子は、孫九郎の耳にはほとんど伝わってこない。
だが、さぞ心細く、ご心配なさっているだろう。
領地に戻ってから正式な文を書こう。ご実家にいるなら不便はないと思うが、日向屋を通してご苦労のないようにして差し上げたい。
侍従殿は目立たぬよう、夕暮れ時に出立するそうだ。十分な警護を割くつもりでいる。
その先は比較的安全だが、遠江から改めて京へ向かう際にはそうはいかない。
特に堺から京までの道中には、十分な心構えが必要だろう。
それに対しても手を打った。
今川家からの目立つ助力は、かえって良くないとのことだ。
同意しにくいが、公家のことは侍従殿のほうがよくわかっている。
ただひとつ。武家からの強い介入があった時には、迷わず名を出すようにと言っておいた。
「方々に、よろしくお伝えください」
孫九郎がそう言うと、時任侍従はしばらく黙っていたが、やがて丁寧に、格式ばった所作で頭を下げた。
何故かそれは、慇懃ではなく丁寧な礼に見えた。




