20-9 伊勢 宇治 藤波本邸25 北奥離れ2
既に宮川沿いに北畠軍の本陣はなく、肝心な北畠殿は、山田の渡会屋敷に身を潜めていた。
本人は隠れているつもりなのだろう。だが付き添いの兵もいるし、屋敷の奥に引っ込んでいるわけでもないので筒抜けだ。
孫九郎はそれをあえて祭主様には伝えなかったが、藤波家には東雲がいて、東雲は腕利きの忍びを側に置いている。
北畠殿の潜伏先は、もしかすると孫九郎よりも先に把握していたかもしれない。
孫九郎が祭主様と対面していた丁度その時、外宮から上部禰宜が駆けつけてきた。
正式な訪問ではなかった。
庭先に駆け込むように近づいて、警戒する今川兵の前で体面も気にせずその場で両膝を突いた。
供はいなかった。
文字通り走ってきたといってもいい形相で、汗だくなうえに烏帽子も傾き、数日前に見た隅々まで整っていた神職の姿からは想像もできない必死さだった。
「祭主様!」
腹の底から絞り出すような声だった。
「祭主様はおいででしょうかっ」
孫九郎は敷居の近くに座っていたので、その一部始終が見えていた。
警戒して遮ろうとした渋沢隊を、手を振って止める。
祭主様はその声を聞いて、臥所から立ち上がろうとした。ふらついたところを先生がそっと支えるが、祭主様は勢いよくその手をはねつけた。
しかし自力で立つことは難しく、両手をついて臥所に四つん這いになる。
それでも呻きながら身体を起こし、孫九郎を睨みつけた。
「小僧」
しわがれた声は、肉体の老いや衰えなどものともせず、一本筋が通って強かった。
「壊したものの責任を取れ」
孫九郎は小さく首を傾げた。祭主様のいう“責任”の意味が分からなかったからだ。
いやそもそも、“壊した”のは今川ではない。北畠家が、いや神宮そのものが自壊しただけだ。
もちろんそのままを口にしたわけではない。
だが、祭主様には伝わったのだろう。
四つん這いから自力で座位に戻り、肩で息をしながらギリギリと奥歯を鳴らしている。
「祭主様!」
庭先から上部禰宜の必死の声がした。
孫九郎は身体の向きを変え、室内から庭が見えるように少し下がった。
「祭主様は少しお加減が……」
その際に一言添えたのだが、背後から再びドン! と床を叩く音がした。
余計なことだったらしい。
しばらくして、祭主様がゆっくりと歩いて表に出てきた。
先生に支えられているが、弱っている気配はあまりない。
「……お怪我を?」
上部禰宜の声が震えている。
孫九郎は改めて、顔色を無くした上部禰宜の様子を観察した。
着衣の乱れや狼狽した様子などに、わざとらしさはない。本心から心配して駆けつけたように見える。
「たいした怪我やない」
祭主様はそう言って、軽く咳ばらいをした。
今回は、転んでぶつけたのだとは誰も言わなかった。
上部禰宜は、わなわなと唇を震わせた後に、勢いよく平伏した。
「申し訳ございませぬ! このような事態になるとは」
「そうやな、誰も思うとらんかった」
祭主様は渋い口調でそう言って、血のにじんだ額の布に触れた。
「もう見過ごすことはできん」
「……はい」
上部禰宜はくぐもった声でそう言ってから、地面についていた両手を離した。
顔を上げる。目は真っ赤だ。
「北畠参議殿は山田の渡会屋敷に潜んでおります」
祭主様は頷き、「そうか」と言った。やはり知っていたのだろう。
「二の禰宜様が、北畠に与せぬよう触れを回しております。されど……いまだ態度を明らかにせぬ者が半数ほど」
「夜討ちのことは?」
「伝わっております」
祭主様の眉間に、深い皺が寄った。
「それでもか」
「……はい」
それはつまり、外宮の半数が、祭主様よりも北畠に組したということだ。
いやさすがに、夜討ちを是としたわけではないだろう。ただ、そこまでした北畠殿に逆らうつもりはないなら同じことだ。
「内宮にも慮外者がおる」
返す祭主様の声は静かだ。だが、覚悟が決まった表情でもあった。
上部禰宜がすっと背筋を伸ばした。
「これは伊勢神宮始まって以来の大事にございます」
祭主様は重々しく頷き、更に数歩、前に出た。
夏の日差しが差し込む軒下に、支えなく仁王立ちになる。夜着のままであることや、額に血のにじんだ布を巻いていることは、むしろ逆境に立ち向かう毅然とした態度に見えた。
「幸いにも、今川殿がお力添えを下さった」
――えっ
祭主様の唐突な発言に、孫九郎は困惑した。
「……引き続き、御助力頂けるだろう」
それはまあ、できることなら力になる。
だが、明らかにこれまでの祭主さまと温度が違った。
孫九郎は真顔になって返した。
「このまま我らを宇治に留め置くのは難しいのでは」
今川軍は悪天候でも野営だ。兵糧もかかる。慣れているとはいえ、無期限にずっとというわけにはいかない。北畠の圧がなくなった今こそ、退き時だった。
「よもやこの期に及んで帰るとは言わぬやろうな」
即座にそう返した祭主様の表情は険しく、とてもではないが“助力”を乞うものではない。
孫九郎は風向きが変わったことに戸惑った。
ここで否と断って引き上げることはもちろんできる。だがそうしないだろうと祭主様は踏んでいる。見透かされているというよりもこれは……。
先生が咳ばらいをして、東雲が視線を真横に逸らす。
……わかった。素直に「頼む」と言えない人だ。
「祭主様」
孫九郎はニコリと笑顔を浮かべた。
「急ぎ北畠殿と話し合うべきです。軍を再編してからでは遅い」
誰かが鋭く息を飲む音がした。室内に控えている神職のうちの誰かだろう。
「こちらが有利なうちに進めましょう」
少しニヤつきすぎたのかもしれない。祭主様はもの凄く嫌な顔をして睨んできた。
「調子に乗るなよ小僧」
孫九郎は殊勝に視線を下ろす。
「……だが、言うとることはわかった。悪さをしたもんは、逃げ出す前に捕まえんとな」
祭主様の声は低く、ギクリと身構えてしまいそうなほどおどろおどろしかった。




