20-8 伊勢 宇治 藤波本邸24 北奥離れ
雨は明け方には上がった。
まるで夜襲などなかったかのように、いつもと変わらない太陽が空を染め、美しい朝焼けが夏の日の始まりを告げている。
その頃には亡骸はすべて片され、壊された壁や柵などもきれいに脇に避けられていた。
もちろん、踏み荒らされた無残な庭はすぐには直せない。
だが吹いてきた風には、すでに血の臭いはなかった。
「治部大輔殿」
恐る恐るの口調でそう声を掛けてきたのは、神職のひとりだ。
祭主様に、落ち着いてから声を掛けてくれと先触れを出していた。
連日徹夜続きだと言うのは知っていたから、少し休んでからと気をまわしたのだが……眠れるはずはないよな。孫九郎もそうだった。
目が合って、その神職は露骨に怯んだ。
「さ、祭主様が……」
「はい」
孫九郎は素直に返したのだが、神職はハクハクと口を開閉しただけで言葉が出てこなかった。
「お呼びでしょうか」
できるだけ優しい声を心掛けた。こんなにも怖がられるなど心外だが、仕方がない。
なんとか用件を聞き、すぐにもお伺いすると返すと、神職は文字通り脱兎のごとく足早に去って行った。……やはり心外だ。
一応の身支度をしてから訪れたのは、主殿ではなく北奥の離れだった。
祭主様は東対ではなくそこに避難したと聞いていたから、さほど不審には感じなかったが、入ってすぐに臥所が見えて、さっとみぞおちのあたりが固くなった。
東対にも離れにも、北畠兵が近づいたという話は聞いていない。祭主様もいいお歳だ。あまりの出来事に寝込んでしまったのだろうか。
「失礼いたします」
孫九郎は部屋の外で名乗り、下げていた頭を上げた。
真正面に、先生と東雲がいた。祭主様の横たわる臥所の枕元だ。
居並ぶ者たちの表情は深刻そうで、どう見ても、敵襲を凌げてよかったという雰囲気ではない。
「……どうされたのですか」
「転んだのや」
孫九郎の問いに返答したのは先生だ。
「滑って、頭をぶつけた」
横たわっていた祭主様の額には、白い布が巻かれている。遠目にだが、血がにじんでいるのも見える。
「たいしたことやない。大げさや」
よかった。祭主様の返答はしっかりしている。重傷ではないようだ。
「連日、休まずにおられたのが障ったのでは」
孫九郎が気づかわし気に言うと、祭主様はますます不機嫌そうな表情になった。
「治部殿」
渋々と名を呼ばれ、「はい」と返す。
その返答がまた気に入らなかったようで、眉間のしわがいっそう深くなった。
「御上にこの度のことをお伝えせなあかん」
御上と聞いて、孫九郎は呼吸を整え、居住まいを正した。
「御答えが戻る前に、北畠参議を処すわけにはいかん」
……“処す”とは、ずいぶんと直接的ないい方だ。
昨夜の襲撃に北畠殿の姿がなかったことは既に伝えてある。祭主様は、その先の今川の動きを考えて、釘を刺しに来ている。
「北畠殿は、戻れぬ道を進んだようですが」
孫九郎は努めて穏やかな口調で言った。
「内宮の対応は決まりましたか」
ジロリ、と鋭い目で睨まれた。
額に布を巻いているのが、転んだ傷ではなく、まるで負傷した武将のようだ。
「雲出川の北岸に、長野家だけではなく関家や神戸家、そのほか複数の国人領主たちの旗が並んでいたとのこと。伊勢は割れました」
ドン! と床を叩く音がした。
祭主様の拳が、臥所から出て震えている。
孫九郎は構わず続けた。
「今川のせいだとお思いでしょうか」
確かに、孫九郎が二千人を引き連れ参拝に来なければ、北畠家はこれほどの失墜をしてはいなかっただろう。
伊勢がこれほどの勢いで引っ掻き回され、分裂することはなかったはずだ。
だが祭主様はそれを口にはできない。
今川家は、あくまでも参拝者としてこの地に来たのだ。孫九郎が直接出向いたのだから、それなりの護衛が必要なのも当然で、それに過剰反応した北畠に非があるのは確か。
さらに言えば、北畠が神宮を我が物にせんと動いていたことは、今川家とはまったく無関係だ。
床の上に伸びた拳が、更にぎゅっと握られた。
「……小賢しい」
やがて絞り出された苦渋の声に、孫九郎は真顔で頷いた。
「よく言われます」
すうと、大きく息を吸う音がした。次いで、勢いよく上半身を起こす。
「父上」
そんな祭主様を押さえようとした先生の手をパチリと跳ねのけ、孫九郎のほうに身体を向けた。
「北畠の代わりに今川が伊勢を押さえるか」
孫九郎は笑った。
「いいえ、飛び地ですし」
「ならばなんでや! このままやと伊勢が荒れる」
「昨夜の襲撃は、祭主様を狙ったものだったようです。御身を捕えよ、命は問わぬ。そう命じられていたとか」
つまり、神宮に降り注ぐ火の粉を払った。今川勢は、たまたまそれを防ぐことができる場所にいたから、そうしたのだ。
孫九郎は、ぶるぶると震える痩せた手から目をそらし、丁寧に両手を床について頭を下げた。
「これ以上関わるなと申されるのでしたら、すぐにも退きます」
礼は深すぎず、浅すぎず。顔を上げた時には再び、頬を引き上げてほほ笑んだ。
「参拝も終わりましたし」
ぐぐぐ……と低いくぐもった唸り声がした。




