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夏颯記  作者: 槐
駿河編2

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177/215

20-7 伊勢 宇治 藤波本邸23 西対4-3

 夜半、廊下を近づいてくるひそかな足音がした。

 雨が強く、月のない夜だ。

 分厚い雲にさえぎられ、暗闇がなお深く湿った雨音を響かせている。

 護衛達だけではなく、孫九郎以外の全員が刀を握った。

 御簾の向こうで、何者かが廊下に膝をつく。

 鎧の擦れる音ではなく、雨にぬれた板間に刀を置く音がした。

「御屋形様」

 暗い廊下から聞こえてきたのは、渋沢の声だった。

「北畠軍が川を渡りました」

 孫九郎はスッと息を吸いこみ、ゆっくりと長く吐いた。

 とうとうきたか。

 攻め込んでくるか、このまま対話で解決しようとするか……おそらく前者だと思ってはいた。

だがこれで、穏便に済む道はなくなった。

 ここまでくれば、今川家(うち)の土俵だ。

「井伊殿に伝令」

 孫九郎の声は大きくはなかった。

「手はず通りに……と」

「はっ」

「渋沢隊も配置につけ」

「かしこまりました」

 返す渋沢の声も、雨に紛れかろうじて聞き取れる程度のものだ。

 一拍置いて、渋沢が立ち上がる音がした。同時に、息をひそめていた護衛班や側付きたちも動き始める。

 あっという間に西対は敵を迎え討つ仕様になった。

 もとより夜中で、しかも豪雨だ。蔀はすべて下ろされ、雨が吹き込まないようにしていた。

 妻戸も閉めている。今川方がしたのは、戸締まりを改めて確かめ、階から上がれないよう兵を置いたぐらいだ。

 あとは、屋内で立ち回りをすることになったときに、邪魔になりそうなものを片した。足元を整えておくのは大切なことだ。

「申し上げます! 北畠軍がお勝手門に! 内側から閂を外されましたっ」

 水だまりを蹴るどころか浅瀬を駆けてくるような音がして、伝令が庭先から告げた。

 その声は、雨音を突き破って鋭く響いた。

 宮川を渡ったという知らせを受けてから半刻。……頃合いだ。

 北畠軍がどこから屋敷内に入ってくるかはわからなかった。

 正門から堂々と来るとは思えず、今川軍が本陣を敷く屋敷の北側でもないだろう。厳重に閂がかかった大きな門からではなく、脇門のいずれかだろうと予想していた。

 だがそうか、内通者が動いたか。お勝手門なら端(はした)でも近づくことができる。

 孫九郎は立ちあがった。

「奥の方々を東対に」

 決めていた通り、祭主様たちへの避難誘導は藤次郎が担う。

 孫九郎がいる位置が、藤波屋敷内の本陣だ。敵にはここに来てもらう。

 遠くで、雨音に紛れて何かが聞こえた。

 だが依然として雨の音の方が強い。

 ゴウゴウと、風の音もする。

 蔀が揺れて、屋根が軋む。

 それが喚声だとわかるようになるのはすぐだった。

 近づいてきている。

 渋沢隊は、主殿裏から北へ抜ける一帯に配置していた。北奥を狙って入ってきた敵を、南に押し返す役割だ。

 廊下に上がられると厄介なので、その前に主殿や北奥から敵を遠ざけたかった。

「……来ます」

 土井が張り詰めた声で言った。

 小小姓たちですら刀を握りしめて緊張した表情だ。

 孫九郎は静かに息を吸った。吐く息は自然に任せた。

 剣戟の音が聞こえる。

 叫び声もはっきり聞き取れるようになってきた。

 どこからも報告はなく、戦況がどうなっているかの判断材料はない。

 だが孫九郎は己の配下たちを信頼していた。

 ドッと大きな音がした。

 雑舎との境の門が破られたのだろう。

 手はず通りだ。

 孫九郎は刀を握った。脇差ではなく、本刀だ。握った鞘の飾り紐がわずかに爪に引っ掛かった。

 構わず立ち上がる。正面を見る。

 唯一あけられている蔀と御簾の向こうには、雨をまとった闇が広がっている。

 雑舎との境を越えれば、西対までは近い。

 やがて、北から押し出されるように、いくつもの人影が闇の中から現れた。ひとり、ふたりではない。後ろから後ろから湧いてくる。

 攻め込んでくるというよりも、軍勢そのものが南へ押されている。

 風の音がした。ザワザワと、庭の茂みが揺れる音もした。

 同時に、大勢がバシャバシャと水を跳ね上げる音。

「構えよ」

 周囲の男たちが一斉に抜刀した。

 孫九郎は簀子の廊下に進み出て、月明かりのない暗い夜の攻防に目を凝らした。

 敵味方が入り混じっている。

 だが、今川軍か否かは判別できる。

 何故なら敵は皆、鎧兜の重装備だ。対して今川兵のほうは、主要な部分にのみ軽い防具をつけただけだ。

 正面からまともにぶつかれば、軽装のこちらが不利だ。

 だが今は夜。しかも豪雨。

 狭い庭の通路や建屋の影を使い、わざと大軍が一度に押し寄せられない場所を戦場に選んだ。長柄を思うように扱える広さもなく、雨を吸った重い装備は足かせになる。

 そして黒づくめの渋沢隊だ。篝火も松明もない真っ暗な闇の中から、黒い軍勢が突然飛び出してくる。

 北畠側は満を持しての奇襲かもしれないが、蓋を開けてみれば驚かされたのは北畠の方だろう。

 風に、雨ではない不快な臭いが混じる。

 顔に無数の小さな飛沫があたり、それがまるで血であるかのような錯覚が過った。

 そっと頬を拭う。手のひらを見る。暗くてよくわからない。

「今川治部ぅぅぅぅっ‼」

 雨を貫いて、潰れた怒声が響き渡った。

 孫九郎は声のした方向に目を凝らした。

 今のは北畠殿の声だろうか。……いや違うな。


 すべてが終わるまで、四半刻ほどかかった。

 喚声も剣戟もすでに収まっている。

 孫九郎は生臭い不快な臭いの混じる雨に打たれながら、地面に倒れ伏す男を見下ろした。

 奇襲を指揮していた男は、孫九郎まであと少しのところで捕らえられた。

 やはり北畠殿ではなかった。

 生きているようにも見えるが、定かではない。

 抵抗をやめようとしなかったので、一刀入れられたのだ。

 孫九郎はひと息ついて、空を見上げた。

 雨はまだ降り続いている。

 空から落ちてくる滝のような雨が、その場にいる全員を濡らしている。

 敵も、味方も。

 死者も、生者も。

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― 新着の感想 ―
北畠殿ご本人は不在なのかな。部下の責任にしちゃう流れかな。先が気になる〜
もはや歴戦の貫禄ですな。
ここまでやってしまった北畠家は、残れるのだろうか?
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