20-7 伊勢 宇治 藤波本邸23 西対4-3
夜半、廊下を近づいてくるひそかな足音がした。
雨が強く、月のない夜だ。
分厚い雲にさえぎられ、暗闇がなお深く湿った雨音を響かせている。
護衛達だけではなく、孫九郎以外の全員が刀を握った。
御簾の向こうで、何者かが廊下に膝をつく。
鎧の擦れる音ではなく、雨にぬれた板間に刀を置く音がした。
「御屋形様」
暗い廊下から聞こえてきたのは、渋沢の声だった。
「北畠軍が川を渡りました」
孫九郎はスッと息を吸いこみ、ゆっくりと長く吐いた。
とうとうきたか。
攻め込んでくるか、このまま対話で解決しようとするか……おそらく前者だと思ってはいた。
だがこれで、穏便に済む道はなくなった。
ここまでくれば、今川家の土俵だ。
「井伊殿に伝令」
孫九郎の声は大きくはなかった。
「手はず通りに……と」
「はっ」
「渋沢隊も配置につけ」
「かしこまりました」
返す渋沢の声も、雨に紛れかろうじて聞き取れる程度のものだ。
一拍置いて、渋沢が立ち上がる音がした。同時に、息をひそめていた護衛班や側付きたちも動き始める。
あっという間に西対は敵を迎え討つ仕様になった。
もとより夜中で、しかも豪雨だ。蔀はすべて下ろされ、雨が吹き込まないようにしていた。
妻戸も閉めている。今川方がしたのは、戸締まりを改めて確かめ、階から上がれないよう兵を置いたぐらいだ。
あとは、屋内で立ち回りをすることになったときに、邪魔になりそうなものを片した。足元を整えておくのは大切なことだ。
「申し上げます! 北畠軍がお勝手門に! 内側から閂を外されましたっ」
水だまりを蹴るどころか浅瀬を駆けてくるような音がして、伝令が庭先から告げた。
その声は、雨音を突き破って鋭く響いた。
宮川を渡ったという知らせを受けてから半刻。……頃合いだ。
北畠軍がどこから屋敷内に入ってくるかはわからなかった。
正門から堂々と来るとは思えず、今川軍が本陣を敷く屋敷の北側でもないだろう。厳重に閂がかかった大きな門からではなく、脇門のいずれかだろうと予想していた。
だがそうか、内通者が動いたか。お勝手門なら端でも近づくことができる。
孫九郎は立ちあがった。
「奥の方々を東対に」
決めていた通り、祭主様たちへの避難誘導は藤次郎が担う。
孫九郎がいる位置が、藤波屋敷内の本陣だ。敵にはここに来てもらう。
遠くで、雨音に紛れて何かが聞こえた。
だが依然として雨の音の方が強い。
ゴウゴウと、風の音もする。
蔀が揺れて、屋根が軋む。
それが喚声だとわかるようになるのはすぐだった。
近づいてきている。
渋沢隊は、主殿裏から北へ抜ける一帯に配置していた。北奥を狙って入ってきた敵を、南に押し返す役割だ。
廊下に上がられると厄介なので、その前に主殿や北奥から敵を遠ざけたかった。
「……来ます」
土井が張り詰めた声で言った。
小小姓たちですら刀を握りしめて緊張した表情だ。
孫九郎は静かに息を吸った。吐く息は自然に任せた。
剣戟の音が聞こえる。
叫び声もはっきり聞き取れるようになってきた。
どこからも報告はなく、戦況がどうなっているかの判断材料はない。
だが孫九郎は己の配下たちを信頼していた。
ドッと大きな音がした。
雑舎との境の門が破られたのだろう。
手はず通りだ。
孫九郎は刀を握った。脇差ではなく、本刀だ。握った鞘の飾り紐がわずかに爪に引っ掛かった。
構わず立ち上がる。正面を見る。
唯一あけられている蔀と御簾の向こうには、雨をまとった闇が広がっている。
雑舎との境を越えれば、西対までは近い。
やがて、北から押し出されるように、いくつもの人影が闇の中から現れた。ひとり、ふたりではない。後ろから後ろから湧いてくる。
攻め込んでくるというよりも、軍勢そのものが南へ押されている。
風の音がした。ザワザワと、庭の茂みが揺れる音もした。
同時に、大勢がバシャバシャと水を跳ね上げる音。
「構えよ」
周囲の男たちが一斉に抜刀した。
孫九郎は簀子の廊下に進み出て、月明かりのない暗い夜の攻防に目を凝らした。
敵味方が入り混じっている。
だが、今川軍か否かは判別できる。
何故なら敵は皆、鎧兜の重装備だ。対して今川兵のほうは、主要な部分にのみ軽い防具をつけただけだ。
正面からまともにぶつかれば、軽装のこちらが不利だ。
だが今は夜。しかも豪雨。
狭い庭の通路や建屋の影を使い、わざと大軍が一度に押し寄せられない場所を戦場に選んだ。長柄を思うように扱える広さもなく、雨を吸った重い装備は足かせになる。
そして黒づくめの渋沢隊だ。篝火も松明もない真っ暗な闇の中から、黒い軍勢が突然飛び出してくる。
北畠側は満を持しての奇襲かもしれないが、蓋を開けてみれば驚かされたのは北畠の方だろう。
風に、雨ではない不快な臭いが混じる。
顔に無数の小さな飛沫があたり、それがまるで血であるかのような錯覚が過った。
そっと頬を拭う。手のひらを見る。暗くてよくわからない。
「今川治部ぅぅぅぅっ‼」
雨を貫いて、潰れた怒声が響き渡った。
孫九郎は声のした方向に目を凝らした。
今のは北畠殿の声だろうか。……いや違うな。
すべてが終わるまで、四半刻ほどかかった。
喚声も剣戟もすでに収まっている。
孫九郎は生臭い不快な臭いの混じる雨に打たれながら、地面に倒れ伏す男を見下ろした。
奇襲を指揮していた男は、孫九郎まであと少しのところで捕らえられた。
やはり北畠殿ではなかった。
生きているようにも見えるが、定かではない。
抵抗をやめようとしなかったので、一刀入れられたのだ。
孫九郎はひと息ついて、空を見上げた。
雨はまだ降り続いている。
空から落ちてくる滝のような雨が、その場にいる全員を濡らしている。
敵も、味方も。
死者も、生者も。




