20-6 伊勢 宇治 藤波本邸22 西対4-2
方針が決まったのは、さらに翌日だった。
「ようやくか」
孫九郎がそういうと、井伊殿も「やれやれですな」と抑えきれないため息を漏らす。
内宮は、宮川の対岸でいまだ居座っている北畠殿に、話し合いの使者を出すことにしたようだ。
それも、外宮を通じてというのだから……きっと何度も脇息が飛んだのだろうな。
祭主様にも先生にも会えていないが、時折出てくる東雲によると、そこで決着がつかないなら、祭主様の強硬策もやむなし、という方向性で固まったのだとか。
なんであれ方針を決めてくれと願っていたが、解決には程遠い。
「雨はまだやみそうにないですな」
野営をしている兵たちの心配をしているのだろう、井伊殿が気がかりそうに外を見る。
孫九郎もまた、軒先の雨量が減らないことに顔を顰めた。
「……地が固まるにはほど遠そうだ」
内宮の方針は、おそらく、今川軍がいつまでも伊勢にいるわけにはいかないことを見越しての時間稼ぎだ。
多くの者が、時間さえあれば北畠が戦況を立て直すと考えているのだろう。
――そううまくいくかな。
再び雨に目を向ける。
びしょぬれであろう長野軍と北畠軍の布陣を想像してみる。
雲出川の戦況は、おそらくは既に大方が決しているだろう。
報告はまだ来ていない。
今川の旗を好きに使えと渡したが、それをどう使ったのか。
期待込み八割がた上手くやるだろうと予想していたが、さて。
いい知らせはいくつかあって、そのうちのひとつが、大湊に安濃津の商人が来たことだ。
まだ量は少ないが、市井に米が流れ始めている。
今川軍は既に三河から兵糧を運ばせ始めているが、安濃津の商人とも誼を通じておくようにと命じておいた。
米は町に回して欲しいが、炭や味噌や塩は言い値で買う。こういう時につながった相手とは、ビジネスライクに長く付き合える。
「そろそろでしょうか」
軒先を見ていた孫九郎は、ふと思案を途切れさせて井伊殿に視線を戻した。
悪い顔をしている。
……人のことは言えないのかもしれないが。
孫九郎は小さく息を吐き、脇息に肘を預けた。
「北畠は追い詰められている」
「そうですな」
「ここから巻き返す方法は多くはない」
「そう仕組みましたからな」
仕掛けてきたのは北畠のほうだ。孫九郎は軽く火の粉を浴び、「熱いな」と顔を顰めた程度だ。
「……すべて、御屋形様の手のひらの上でございます」
「人聞きの悪いことを」
孫九郎は、弄んでいた扇子で口を押さえた。
仮に火の粉が火事を起こしたとなれば、自衛をするのはやむを得ない。
そうなる前提で宇治まで来たわけではないが、戦慣れしている軍は、いついかなる時でも実戦に備えているものだ。
たとえば……そう、急に攻め込まれるかもしれないし。
「支度をはじめてもよろしいか」
「まだ武装はするな」
「……承知」
にいっと井伊殿の唇の両端が持ち上がった。これぞ戦国武将、鳥肌が立つほど好戦的な顔だ。
井伊殿は一礼して、雨が吹き込む廊下に出て行った。
濡れるのも構わない。……いや、雨など気にも留めていないようだ。
こういう男は、濡れたとて風邪などひかないのだろう。
孫九郎はその分厚い背中を見送りながら、軽く扇子を広げて扇いだ。
開放感あふれるこの時代の建築様式では、湿度はダイレクトに身体にまとわりつく。
扇いでも顔にあたるのは湿った風だ。
「谷」
部屋の隅で、作法など気にせぬとばかりに刀を抱きしめて座っていた護衛頭が、さっとこちらを見た。
「来るぞ」
谷はしばらく考え、「藤波屋敷には入れませぬ」と返す。
孫九郎は笑い、首を振った。
「通せと命じようと思う」
ざあざあと雨音が続く。
ビシャビシャと庭の石を打つ音もやけに大きい。
「西対で受けるということですか」
「そうなるな」
谷の眉間のしわが深くなった。
武装兵とはいえ、北畠の軍勢は五百。決死の襲撃をしてきたとて、今川二千に勝ち目はない。
ただ、奇襲に最適な視界の悪いこの雨。更には、雲出川の敗戦を聞いたばかりで、頭に血が上っている状態だ。
そこで冷静な判断ができるなら、そもそもこんな状況にはなっていない。
谷はしばらく黙っていた。
他の側付きや護衛たちもだ。
雨が降る。夕刻が近づいたため、なおいっそう周囲は薄暗い。
奇襲が来るなら今夜。
狙いの本命は孫九郎ではなく、主殿にいる祭主様はじめ内宮の禰宜たちだ。
そう……内宮を押さえる。今となっては、それぐらいしか北畠家がこの苦境をひっくり返す手はない。
「反対です」
谷が強い口調で断言した。
そう言われるのはわかっていたので、孫九郎は軽く扇子を振って躱した。
「武士の情けだ。そうだろう?」
起死回生の一手と意気込んでくるのだ。受けて立とう。
誰もが無言になった。
次第に部屋は暗さを増し、ただ雨音だけが重く響く。
そろそろ行燈に火を入れる刻限だが、側付きも小姓たちも身動き一つせず黙っていた。
「そのために、渋沢隊を?」
藤次郎の問いかけに、孫九郎は返事をしなかった。
その無言こそが、答えだった。
「……あの」
不意に、次郎三郎が軽く手を上げた。
何か意見があるのかと皆がそちらを見ると、色黒の青年が真顔で一言。
「北畠様は武士ではありませぬ」
生真面目なその声に、張り詰めていた空気がフッと緩む。
それはそうなのだが……と、緩んだ空気が笑いを生んだ。
誰が最初に笑ったのか、定かではない。だが孫九郎の喉は震え、普段は気難しい表情の谷でさえ、口元を歪ませていた。
ようやくここまで来たぁ




