20-5 伊勢 宇治 藤波本邸21 西対4-1
陰ってきたと感じた直後、雨の音がした。
孫九郎は顔を上げた。
そろそろ北畠軍が雲出川に到着する頃だろう、という話をした直後だった。
かなり雨足が強い。
孫九郎は黙って、御簾をあげるようにと指示した。
雨の音がなおいっそう強く耳に届く。
それはまるで小豆をぶちまけるような硬い音で、早くも軒先からかなりの量の水が落ちている。
あちらも同じ雨量なら、行軍は止まっているかもしれない。
「到着しておらねば足止め。していたとしても増水を警戒して様子見でしょうな」
井伊殿がのんびりと言った。
孫九郎はしばらくの間、落ちてくる雨を見つめ、呟いた。
「……北畠には運がないな」
「神宮の不興を買ったせいでは」
井伊殿の意味ありげな言葉に、苦笑する。
戦は単純に物量の差で決まることが多いが、それをひっくり返す数少ない要因が“運”だ。
今回北畠はその運に恵まれない。それを神のご加護と結びつけているのは、井伊殿だけではないだろう。
こういう時には、悪い流れが続くものだ。
孫九郎の予想はおおむね当たっていた。
ほどなく届いた続報によると、雲出川に到着した北畠軍は、到着早々長野の伏兵に襲われ、陣を張ることができずに川岸から離れたそうだ。
要約すればたった二行だが、宮川の本陣で知らせを受け取った北畠殿はさぞいきり立っているだろう。
孫九郎はトントンと脇息を指で叩いた。
それは雨音に紛れ、やけに硬い音となって響いた。
「伊勢が割れるぞ」
孫九郎としては渾身の一言だったが、周囲の反応は静かだった。
井伊殿がふっと息を吐く。次郎三郎が身じろぐ。雨足が強くなり、藤次郎が御簾をおろそうと腰を浮かせた。
「そのままでよい」
孫九郎の言葉に、全員がこちらを見る。
雲は黒い。
午前中はあんなにも晴れていたのに、庇の向こうは低く垂れこめた雨雲に覆われている。
通り雨だろうか。……いや、すぐに止みそうにない。
遠雷が低く、腹の底に響くような音をたてている。
「弥太郎」
「はい」
呼びかけに、即座に返ってくる返答。
常に側にいる忍びの男の静かな気配が動く。
孫九郎は外を見たまま、脇息に肘をついて扇子を弄んだ。
パチリ。
湿った雨音に交じり、固い開閉音が響く。
パチリ。
もう一度、無意識に指が扇子を繰り、小気味の良い音をたてる。
「川の水かさは増しただろうな」
独り言に返答はない。
雲出川についてあまりよく知らないが、大規模な堤がある川ではなかったはずだ。
溢れるか? いや、一時的な豪雨ならそれを期待するのは早い。
ただ、北畠軍が川を渡るには時間がかかるだろう。
今日ではない。伏兵を警戒するなら、明日も怪しい。
「今から雲出川に向かうのにどれぐらいかかる?」
「二刻いただけるなら確実に」
「川は渡れるな?」
「身ひとつであれば難しくありません」
孫九郎は頷き、最後にもう一度、パチリと扇子を鳴らして閉じた。
立ち上がり、御簾の傍まで近づく。
庇が深いのに、細かな飛沫が頬にあたった。
視界が白くぼやけるほどに雨量が多い。ゴロゴロという雷の音は、先ほどよりも随分近い。
この視界の悪さは天の采配だ。
孫九郎はくるりと踵を返した。
室内の男たちは皆、真剣な表情でこちらを見ている。
孫九郎は薄く唇に笑みを浮かべた。
忍びが五人、今川家の旗を持って雲出川に向かった。
まだ雨が降っている。
雷の音は聞こえなくなったが、叩きつけるような豪雨から、長く続きそうな雨に変わっている。
「掛かりますかね」
次郎三郎が、平淡な声で言った。
「掛からなくともかまわない」
孫九郎の返事に、井伊殿が笑う。
「御屋形様は一兵も動かしておられませぬからな」
そう、痛くもかゆくもない。
今川家の旗は長野殿の手に渡る。上手く使えば、雲出川の北岸には今川の大軍がいるように思わせられる。
長野殿がそれを使おうが使うまいが、今川の損害は布切れだけだ。
だが、掛かる気がする。
人間は一度そうだと思い込めば、その後に見えるものまで都合よく結びつける。
ましてや北畠軍は、到着早々伏兵に襲われたばかりだ。
雨の向こうに今川の旗を見れば、動く人影のすべてが今川兵に見えてもおかしくない。
「……いやぁ、残念でございますな。ひと駆けして参りたいところですが」
井伊殿が手持ち無沙汰な様子で両手を動かした。
同意するような空気が、室内に流れる。
戦わずして勝てるなら、それに越したことはないと思うのだが、戦慣れしている連中には物足りないようだ。
孫九郎自身なら、この雨の中、重い装備を身に着けて行軍するなど御免こうむりたい。
だが、井伊殿の言いたいことはわかる。
今のこの状況は、非常に惜しい。
――北畠を潰せる。
当事者でないからこそ、その道が見えてしまうのだ。
「熟れた柿がぶら下がっております」
「渋柿は食えぬ」
次郎三郎の言葉に、孫九郎を含め、皆何とも言えない表情になる。
窘める藤次郎自身も、若干悔しそうな顔をしていた。
渋柿か。
孫九郎は、武家だか公家だかわからない北畠殿の顔を思い浮かべる。
「……弱いまま生きながらえさせる方がいい」
自身に言い聞かせるような呟きに、井伊殿はわざとらしく目を剥いた。




